赤の禁足地

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 19時。高速を降り、岐阜駅を通り過ぎる。金の織田信長像が見えた。異様に背が高い。台座を含めて10メートル以上はありそうだ。死してなお、人を見下ろすのはどんな気分なのだろう。平社員の私には、到底想像できない視点だ。  岐阜駅から5分ほど走って、柳ヶ瀬のホテルについた。営業車をホテルの駐車場に停め、手早くチェックインを済ませる。部屋でスーツから私服に着替え、ホテルを出た。     晩秋ということもあり、日は完全に落ちている。ホテルは大通りに面しているが、消灯しているビルもあり、少し暗い。等間隔に設置された街灯や、不動産屋、コンビニの灯りが足元を照らしている。ホテルを出て右に200メートルほど歩くと、柳ヶ瀬通りという商店街があるとわかっていたので、まずはそこへ向かった。    柳ヶ瀬通りは、造りとしては千日前商店街に似ていた。アーチ状の屋根があり、道幅が広い商店街である。ただ、人の数はめっきり少なかった。落ち着いた地方の商店街、という表現がぴったりだろう。左右に構える店は個人商店が多く、大阪で見かけるような行列もない。一見、この通りに美味い店は存在しないように見えるが、調べたところ、名店が多いらしい。私は一週間前から行く店を決めていた。匠御膳という、飛騨牛で有名な店だ。    通りを歩き始めて数分もしないうちに、店に到着した。群青色の暖簾に白地で「匠御膳」とある。暖簾の上には瓦屋根が連なっていて、遠くから見たときは、商店街の中に突然城の入り口が出現したかのように思えた。引き戸は年季の入った木造りで、磨り硝子がはめられていた。中の様子はよく見えない。いかにも「うちの店は他の店と違って高級ですよ」と言いたげな門構えだ。スタンドに置かれたメニュー表を覗き込む。梅コース5,500円。そう、これを食べにやってきた。    店に入ろうとしたとき、視界の端が突然赤くなった。入り口の左側に設置された青い自販機に視線をやる。ペットボトルや缶コーヒーを照らすバックライトが赤く光っている。飲み物の下に備え付けられたボタンも、全て赤く光っていた。売り切れなのかと思いよく見てみたが、どのボタンにも「売り切れ」の表示はない。    突然全身を赤く発光させた自販機に対し、釈然としない気持ちを抱えながらも、「故障でもしたのだろう」と思い、暖簾に手をやった。    その後、私は飛騨牛の梅コースを大いに堪能した。気が大きくなったせいか、普段はあまり酒を飲まないくせに、地酒を二合も頼んでしまった。ほろ酔い気分で店の外に出る。あと1、2件寄って行こうかとも考えたが、明日は早朝から打ち合わせがある。そのために大阪から岐阜くんだりまでやって来たのだ。慣れない深酒は良くないと思い、来た道を戻ろうとして、目の前の光景を疑った。    柳ヶ瀬通り全体が、赤く染まっていた。    何の冗談だと思い、灯りの一つ一つに目を凝らす。通り全体を照らす天井の照明は勿論のこと、不動産屋や喫茶店の看板、理髪店のくるくる回るサインポール、通りに面する照明全てが赤く発光している。慌てて振り向き、匠御膳の玄関を見た。店の入口を照らす照明も赤い光を放っていた。店の左に立つ自販機も、赤く発光したままだ。店の中が気になり、引き戸を少し開けた。中の照明は白いままだ。店の中にいたときと変わらない。理髪店や不動産屋の中を見てみるが、店内は白い照明だった。   「なんやねん、これは」  酒のせいもあるが、思わず独り言が漏れてしまう。    今度は柳ヶ瀬通りを歩く人に注目した。目の前には5人ほど行き交う人がいる。会社帰りのサラリーマンやOLだろう。皆、たまに顔を上げて赤く光る照明を見やり、その後視線を前に戻している。不思議そうにしている割には、どういう事態が起こっているか、理解しているようにも見えた。    私はおもむろに腕時計を確認した。20時42分。もしかすると、20時30分になると通りが赤くなるのだろうか。あるいは、何かイベントのイルミネーションだろうか。    私はすっかり酔いが覚め、足早にホテルを目指した。赤い空間を歩くのは、幻想的に感じたが気味の悪さがどうしても勝ってしまう。  数分で通りを抜け、ほっと息をつき、大通りを左に曲がる。そこで、またぎょっとした。柳ヶ瀬通りの外に設置されている自販機が、赤く光っている。赤くなるのは、あの通りにある照明だけではないのか。    そうだ、たしか自販機の先にはローソンがあったはずだ。私は青い看板を探したが、視界に入ってきたのは、赤く光る牛乳瓶の看板だった。    反対側の歩道が気になり右手を見ると、対岸のビルや店の照明は白や緑の光を放っていた。問題は解決していないのに、何故か安堵のため息が漏れた。すぐ近くに横断歩道があったので、信号が青くなるのを待った。信号が変わる。何となく、赤く光る看板の前を通りたくなかった私は、遠回りしてホテルに戻ることにした。    横断歩道を渡って左に曲がると、ファミリーマートがあった。とりあえずそこに入って、二日酔い対策にウコンの力を買おうと思った。横断歩道をわたり切る。ファミリーマートの発光する看板を睨みつけながら、店に入る。看板は赤くならなかった。ふぅ、と一息つき、ペットボトルの水とウコンの力を持ってレジへ行った。    会計を済ませ、私は大学生くらいの店員に尋ねる。 「すいません、道路の向こう側のローソン、赤くなってるんですが、いつもああなんですか?」  突然話しかけられた店員は戸惑いながら、 「いえ、赤くないですけど、いつも」  と答えた。 「いま、赤くなってるんですよ」 「え、そうなんですか」店員は上体を屈め、店の外を見やり頭を振った。「ここからじゃ見えないですね」  私も外を見る。街路樹が邪魔をして、ローソンが見えない。    私は苦笑し、すいませんと言ってレジを離れた。急に恥ずかしさがこみあげ、顔が紅潮していくのがわかった。おそらく、変なやつだと思われた。さっさと店を出ようと思い、自動ドアの前まで来て、私は足を止めた。  店の外が、ぼんやりと赤い。  アスファルトと街路樹が赤く染まっているように見えた。恐る恐る店の外を出て、顔を上げると、ルーフ看板が赤く発光している。ファミリーマートの看板の色は緑、白、青で構成されているが、白の部分が真っ赤になっている。緑と青はおそらく無地に着色しているのだろう、中から赤い光を受けて、緑は黒っぽく変色し、青は紫がかって見えた。店の前のスタンド看板も同様に赤い。    私は先ほどの店員にこの事態を伝えようと思い、慌てて振り向いた。しかし店員はレジにいない。店舗の中を覗いたが姿はなかった。バックヤードにでも行ったのだろう。このことだけで呼び出すのも気が引けたので、とりあえず急いでホテルに戻ろうと思った。    ファミリーマートを出て歩道を真っ直ぐ歩く。車道を挟む照明達は、全て赤く発光している。おもむろに振り向いて、赤く発光する照明がどこまで続いているか確認すると、先ほど渡った横断歩道から10メートルほどさきまで赤い光は続いていた。その先は何の変哲もない、白い照明だった。私が歩いていない歩道の照明は、白いままだ。    そういえば、匠御膳の隣りにあった自販機も、ファミリーマートの看板も、私が近くに来てから赤く発光した。商店街の店舗や天井の照明はタイムラグがあったが、あれも私が通った道だ。  私が通った道の照明が、赤くなっている――。  まずはホテルに行き、支配人に聞いてみよう。支配人なら長くこの地で勤めているはずだから、何か知っていてもおかしくない。    私は向き直り、歩を進め、横断歩道で止まった。  正面にホテルが見える。  赤信号が早く青にならないかといらいらしながら待つ。そういえば、信号は赤く染まらないのだろうか。何かしらの理由で街全体の照明が赤くなる中、頭上の信号は何食わぬ顔で青を表示し、車は何事もなく走っている。    信号が変わるのを待ちながら、対岸のホテルを眺めた。入り口に備え付けられたホテルの看板が、周囲を赤く染めている。少し暗いため、血のように赤黒い。しばらくすると、ホテルの中からゾロゾロと背の高い男達が出てきた。赤い軍服を着ている。軍服の男たちの腰には長い棒がくっついていた。警棒かと思いよく目を凝らすと、つばが見えた。日本刀だ。    私は迷った。このまま何食わぬ顔で横断歩道を渡り、赤い軍服の男達を横切ってホテルに入るか、ここで踵を返し、赤い軍服達が立ち去るのを待ってから、ホテルに入るか。  あの男達が赤く光る照明と何か関係があるように思えてならない。そしてその照明と関係があるかもしれない私が、彼等の近くを通った場合、捕まる可能性はないだろうか。もしそうであれば、ホテルに戻るのはまずい。私の宿泊先と知って、ホテルにやって来たかもしれないからだ。    逃げるとすれば、後ろか右だ。    赤い軍服の集団を見ると、何やら話し込んでいるようだった。その内の1人が、不意にこちらを見た。それとなく視線をそらす。ここで走ると怪しまれると感じたので、ゆっくりと後ろを向き、私は歩き始めた。その瞬間、後方から集団の足音が聞こえた。    振り返ると、まだ信号は赤なのにも関わらず、赤い軍服の男達がこちらに向かって走る姿が見えた。  私も慌てて走り出す。ビルの脇を遮二無二駆け抜ける。  左に曲がり、住宅街に入った。曲がる瞬間来た道を見ると、赤い集団が道幅いっぱいに広がって走る光景が見えた。    住宅街を走りながら、身を隠せる場所がないか探したが、都合のいい物陰は見当たらない。突き当りを右に曲がろうとしたとき、後方から大声が飛んできた。   「小室様!」    この状況で、様付けで名を呼ばれたことに違和感を感じ、思わず立ち止まった。   「待ってください!」    5メートルほど距離を置いて、先頭の軍服が膝に手を付き、肩で息をしながら、こちらを見上げている。走っているときは眼鏡をしていると思っていたが、顔につけているのは眼鏡ではなく、水泳で使うようなゴーグルだった。    私がゴーグルの男に気を取られている間に、続々と赤い軍服男たちが追いついてきた。20人近くはいるだろう。皆、ゴーグルの男の後ろに溜まって、こちらに近づいてくる様子はない。   「急に、なんですか」    私は集団に問いかけた。ゴーグルの男は姿勢を正すと、息を整え、2つ咳払いをして言った。   「小室様、お待ちしておりました。ようこそ、柳ヶ瀬へお帰りなさいました」    私は大阪生まれの大阪育ちだ。岐阜には縁もゆかりもない。   「なにか、勘違い、されていませんか。ここに来たのは、初めてです」   「あなたが初めてでも、ご先祖様がここに住んでいらしたんです」   「自分、大阪生まれの大阪育ちですよ」   「小室様のご先祖様はこの地の統治者でした。それも、不思議な力を使って統治されていた。街の灯りが赤くなったのは、その力に反応した証拠です」    私は反応に困った。ずっと気になっていた謎の答えが、かなりオカルトめいた話だったからである。   「なんで私がその末裔だとわかったんですか。人違いかもしれないでしょう」   「このゴーグルをすれば、ひと目でわかります。小室様のお身体全体が、赤く光って見えるのです」   「それなら、そのゴーグルつけて全国を回ったほうが早く見つかるんじゃないですか」   「このゴーグルには、朴葉のエキスが入っているのですが、朴葉はこの地でしか力に反応しません。赤く光る照明も仕組みは同じです。小室様のお身体から漏れ出る力に朴葉が反応し、光るのです」    朴葉とは、岐阜の名産だ。朴葉の上に味噌を置き、炙って食う。明日の昼、食べるつもりでいた。    男はゴーグルを外した。なかなか男前な顔だ。 「小室家は、岐阜の名家のひとつでした。関ヶ原の戦いで破れたのち、この地を追われ、西の何処かに移り住まわれたと伝え聞いておりました。我々は、当時の家臣の末裔です。小室様のお帰りを、のぼり旗の赤色で歓迎するため、岐阜の照明に朴葉のエキスを塗り、ご帰還をお待ちしていたのです」    男は懐から赤い布を取り出した。3つのひし形が組み合わさったマークが描かれていた。   「こちらの家紋をご存知ではないですか」  私は、男が広げた布を凝視した。 「初めて見たが、確かに子供の頃に聞いたことがある。我が家の家紋はひし形であると」 「そうでございましょう」   「で、私がここの名家の人間だとして、あなた達は何をしたいんですか」    男は薄く笑みを浮かべた。   「我々の望みは、小室家の再興です。小室様が力をお使いになり、岐阜の君主になることです。小室様の力は、『無条件で人に好かれる力』です。岐阜県知事くらいなら造作もなくなれるでしょう」    話が突飛すぎてついていけないが、話の雰囲気から、今の仕事を辞めて殿様暮らしができるのであれば、なかなかいいかもしれないと思った。しかしそのためには情報収集が必要だ。私は男の近くに寄って、提案した。 「どこかでゆっくり、話しませんか」 「もちろん、喜んでお供します」    男が笑顔を見せた瞬間、赤い軍服のうちの1人が「きしゅう!きしゅう!」と叫んだ。それが奇襲という意味だと理解したとき、目の前の男の胸に2本の矢が刺さっていた。    軍服の男たちが一斉に刀を抜く。私がその場を離れようと思った途端、身体がふわりと浮き、みるみる上空に引き上げられ、民家の屋根に落ちた。  すぐさま誰かに抱えられ、民家の屋根から屋根へ飛んだ。身をよじって視線を上にやる。私を抱きかかえているのは、切れ長の目をした、色白の女性であるとわかった。   「朴葉の力で抱えてます。すぐに効力は切れるので、地面に降りたら走ってください」  身体が強く締め付けられていたので、絞り出すように言葉を発した。「誰ですか、あなたは」   「本物の家臣です」   「どういうことですか」   「隠れて話を聞いていましたが、彼等の話は本当です。ただ、目的については嘘をついてます」女は次の屋根へ目掛けて大きくジャンプし、派手な音を立てて着地した。住人はたまったものじゃないだろう。「彼等は小室様の力を利用して好き勝手やりたいだけなんです」   「彼等は何者なんですか」   「鬼です」    すぐに飲み込める言葉ではなかったが、現実に女性が私を脇に抱えて民家を飛び回っているこの状況から、無理矢理納得せざる負えなかった。  女はまた大きく飛んだ。内臓がふわっと浮く感覚を覚える。着地したと同時に、全身に激しい衝撃が走った。  女は私を地面に下ろすと、 「この道を真っ直ぐ走ってください。突き当りの公園に車を用意してありますから乗ってすぐに逃げてください」  と畳み掛けるように言った。  私が下ろされた場所は住宅街だった。50メートルほどの直線の真ん中くらいだろうか。女の背後にはマンションが見える。振り向くと、突き当りに公園が見えた。   「車の鍵は」 「中に運転手がいます」 「その人は信用できるんですか」  その時、マンションの屋上から黒い影が落ちた。影はふたつみっつと増えていく。下に落ちたそれらは着地するなり、弾かれたようにこちらに向かって来た。 「早く!走って!」  女が叫ぶ前に私は駆け出していた。公園に近付くと黒いバンが停まっている。 「こっちです!」  車の中から少し太った女が身を乗り出し、手招きしている。ドアを開け飛び乗ると、女は即座に車を発進させた。 「ご自宅はどちらですか」 「大阪です」 「わかりました。今から大阪へ行きます」 「ちょっと待ってください、明日ここで打ち合わせがありまして……あと、ホテルに荷物を取りに行かないと」 「今はそれどころではありません!命がかかってるんです!」  私は女の剣幕に押され、押し黙ってしまった。  車は法定速度を無視し、右へ左へ揺れに揺れた。  明日の打ち合わせの中止の理由や、ホテルに置いてきた荷物をどうするのか、考えるのが面倒だ。 「あの、あなたって私の家臣なんですよね」 「はい、そうですが」 「じゃあ私の命令は絶対ですよね。今からホテルに戻ってほしんですけど、戻れって言ったら戻ってもらえますか」  私はわざと意地悪な言い方で言ってみた。すると女は運転中にも関わらず、こちらを振り向いた。 「お殿様の命に関わる状況のときは、命を守る行動が最優先されます」  女は勝ち誇ったかのようにゆっくり言うと、「早く住所を教えて下さい」と言った。 「大阪に近付いてからでもいいですか。ちょっと寝たいです」 「わかりました。また起こします」  私は靴を脱ぎ、後部座席で横になった。たらふく食べて、酒を飲んだあと、全力疾走し、屋根を飛び回ったのだ。非日常の事態が起こりすぎて、頭の芯から疲れていた。  車が何度か停車した後、私は眠りに落ちた。深く、深く、湖に落ちた石がするすると落ちていくように、意識は暗がりへ消えた。  私の、人としての記憶は、ここで終わった。  粘りつくような陽光が、私を目覚めさせた。  私は、磔にされていた。両手を水平に開き、両足を真っ直ぐ伸ばす、十字のポーズである。    そこは、岐阜駅だった。眼下に大勢の群衆が見えた。円形の広場で、赤い服の老若男女がひしめき合い、こちらを見上げている。  首をもたげ、自分の身体を見回すと、半裸の状態であることにも驚いたが、それよりも、筋肉が増え、異常な量の体毛が胸や腹、太ももから生えていることに、絶句した。そして、私の肌は赤に染まっていた。  すぐ目の前で、私を脇に抱えて屋根を飛び回った女が、群衆に対し何やら演説をしている。頭がぼやけて話の内容は入ってこなかったが、後ろ姿と声だけで、あの女だとわかった。  女の頭から、2本の角が生えているのが見えた。  赤い軍服の男たちが、本当の家臣だったらしい。私は鬼にまんまと騙された。そして、理由や方法はよくわからないが、身体を鬼に変えられてしまった。これから私は、鬼として生きていかなくてはならないのか――。  赤い軍服の男たちと、鬼の女達の間で、これまでどのような戦いがこの岐阜で行われていたのか知らないが、私がここに訪れたことが、勝敗の引き金を引くきっかけとなってしまったようだ。  不意に、金の織田信長像と目が合った。勇ましい表情で、私を睨みつけている。  信長はこの地から天下統一を始めたと聞く。私は、この地が人としての終着地となった。  からっ風が首筋を通り抜けたが、寒さは感じない。口から漏れた涎が、糸を引いて下に落ちた。  信長と私は、赤い群衆をただ見下ろしていた。
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