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 生家の石島家は代々会津藩士であり、武門らしく恭造も年少の頃より鍛錬に励んできた。数代に渡って着実に地位を上げ、父の代では二百石を取る家で、用人や中間奉公の若者も多く出入りしていたのを覚えている。そのような家であったから、二十二歳の時に迎えた四年前の戊辰戦争では鶴ヶ城の周辺で戦った。 劣勢となっても逃げだすことは許されず、鶴ヶ城へ立てこもって籠城戦に参加した。その際妹や母は足手まといになると言って自害し、石島家で最後まで生き延びたのは男たちだけである。恭造はその時必死で戦っていたので、母が自害を申し出たという話を深く考えずに信じたが、後で父がそれを強要したと聞いて暗澹たる気持ちになった。足手まといというなら父も同じようなもので、かつて稽古をつけられた時に絶対的な壁として立ちはだかった壮健さは、籠城戦では見る影もなく、襁褓をつけて端に寄るしかできなかったほどだった。  その姿に情けなさを感じ、生き延びたら真っ先に父を糾弾しようと思っていたが、それは結局叶わずに終わった。鶴ヶ城が落ちた後、恭造が送られたのは新政府の手に落ちた江戸の糾問所で、略式の裁きの後で二人の兄と共に牢に囚われたのである。
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