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次の週、私は遠野くんに話しかけようと心に決めた。
先週よりもずっと早い時間に講義室のドアを押し開ける。
五月のうららかな日差しが大きな窓から差し込む静かな教室に、ぽつんと人影があった。
彼は先週と同じように後ろの方の列に陣取り、ノートにシャープペンを走らせては消し、を繰り返している。
私は彼の隣の席にすわった。
遠野くんは顔を上げ、空席ばかりの講堂で横に座った私を怪訝そうに見つめたあと、軽く頭を下げてまたノートに向き直る。
私は大きく息を吸い、ゆっくりと、メロディにのせるように言った。
「わたしを、おぼえていない?」
遠野くんははっと顔を上げて私をまっすぐに見つめたあと、微かに首をかしげ、困ったように微笑んだ。やっぱり覚えていないんだ。
私は諦めて、はじめましてのあいさつのつもりで手を差し出した。彼は所在なさげに目をキョロキョロさせたあと、ズボンの横に掌をこすりつけて拭いてから、私の手を軽く握り返してきた。
その温度に、胸が震えた。ずっと触れたかったこの手に、やっと触れることができた。ちっぽけな私は毎日をどうにかこうにか乗り越えながら、幸運にもふたたび遠野くんにたどり着いた。神様は、いるんだ。ずっと会いたかった遠野くん。もう一度掴むことができた大事な手をもう二度と離したくない。
「あの」
気づくと、遠野くんが困った顔をしている。
私はしばらくの間彼の手をぎゅっと握りしめていたようだった。
慌てて放すと彼はニコッと笑ってくれた。耳が熱くなる。私は恥ずかしくなって微笑んでごまかした。
「もし、小学校時代の頃に僕と知り合いだったとしたら。ごめん。僕にはその頃の記憶がないんだ。そのころ、ちょっとやなことがあったせいみたいで」
そう言った遠野くんの横顔に、困惑したような苦笑いが浮かぶ。
遠野君は嫌な思い出とともに当時の記憶すべてを葬り去ってしまったんだ。五年生の時に彼のお父さんが突然死んでしまったことは、当時あっという間に町中に知れ渡った出来事だった。きっとその時のことがショックだったんだと思う。
辛い記憶とともに私との思い出も消し去られてしまったのは悲しい。けど、それだけ彼にとって辛い出来事だったこともよくわかる。だから、しかたないんだ。
私はかける言葉が見つからなくて、もう一度遠野くんの手を取った。彼が昔、私にそうしてくれたみたいに。
「あの、とても言いづらいんだけど、そうやって手を握ってくれるのは嬉しくて、嬉しいからこそ僕は勘違いをしてしまう」
私は困惑する様子の遠野くんをまっすぐ見つめて、念を送るように胸の奥で呟いた。勘違いなんかじゃない。届いてほしい。私の気持ち。私は遠野くんが好きだよ?ずうっと好きなんだよ?
そう言いたいけど、どうしても言えなかった。
私はあきらめて曖昧に微笑んで彼の手を離した。
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