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私の宝物は、半分に割れた消しゴム。遠野くんがくれたものだ。
小学五年のある日。
授業が始まって筆箱を開けた時、消しゴムを家に忘れてきたことに気づいた。それを誰にも言えなかった私はプリントの書き間違いを、指でこすって消していた。黒くなったプリントを見た隣の席の遠野くんが、消しゴムを差し出してくれた。
「ちょうど捨てちゃおうと思ってたやつなんだけど、よかったら三木にあげる」
捨てようと思っていたなんて嘘だってわかった。だって遠野くんはちょっと珍しい大きいサイズの消しゴムを昨日友達に自慢していたばかりだったから。その消しゴムを指で半分に割って、遠野くんは私にくれた。
私はその消しゴムを手のなかに握りしめた。遠野くんの体温が、そこに宿っている気がした。
その日以降、遠野くんはいつも一人でいる私を気遣うようにいつも一緒に帰ってくれた。
私は吃音で、なかなか話すことができないせいでクラスで浮いていた。そんな私がどうしたらおしゃべりできるようになるかを、真剣に、密かに考えてくれていた。
クラスメイトは二人で下校する私たちを見てからかってきたけど、遠野くんは全く気にする様子も見せなかった。だから、遠野くんを好きな女の子が私に嫌がらせをしてくることがあっても、私もまったく気にならなかった。
あるとき下校の道を二人で歩いていると、勢い良くバイクが掠めるように通り過ぎて行き、とっさに遠野くんが私の手を握って引き寄せてくれた。
そのとき
「ありがとう」
すっと、言葉が、唇を通り抜けたんだ。
それからというもの、遠野くんは、下校途中、大きな木の陰で私の手を握って色々なおしゃべりをしてくれた。私は彼と手を繋いでいると、言葉をするすると紡ぐことができて、いろんな話をした。飼っている猫のこと、好きな歌のこと。
「その、オブラディオブラダってどんな歌?」
遠野くんに聞かれて私は歌を口ずさんで、そして気づいたのだった。メロディにのせると言葉がすんなり出てくるということを。
私はその後、色々な言葉にメロディをつけた。ありがとうには明るいメロディ、ごめんなさいには暗めのメロディ。
ありがとう、ごめんなさい、その二言が言えるだけで私の生活は一気に明るくなった。
ありがとうを言うときは、笑顔になれるようにもなった。
とっさに言いたい言葉は、今も出なくて困ることもあるけれど、私はなんとか、元気にこんな自分を嫌いにならずにやってこれている。それは遠野くんとの時間があったからなんだ。片時も忘れることはない。
私が少しずつクラスになじめるようになったころ、遠野くんのお父さんがいなくなってしまって、彼はお母さんの実家に引っ越すことになった。その時は本当に嫌だったけど、遠野くんにとってはお父さんとの思い出がたくさん残るこの場所で暮らし続けていくことはつらいんだろうと思ったから、仕方ないことなのだと自分に言い聞かせた。
別れぎわにも、私は思うことを上手に言うことができなくて、遠野くんと向き合って立ったまま途方にくれたんだ。
そのとき、急に目の前が暗くなって、なんだろうと思ったら唇に柔らかい感触があって、遠野くんがキスしてきたことがわかった。胸が絞り上げられるように苦しくなって、涙があふれてしまった。言いたい言葉が全部、目から雫になってこぼれ出てくるみたいだった。
「三木、君のことまで忘れてた。ごめん」
学生で座席が埋まり始めた講義室。
遠野くんは消しゴムをぎゅっと握って言うと、眉を寄せて唇を噛んだ。泣くのをこらえているみたいだった。
「ずっと、会いたかったよ」
私はこの時のためにいつも口ずさんでいたメロデイーで呟いた。
いつも強くて優しかった遠野くん、そんな素敵な自分のことまで、忘れてしまわないで。
「僕は、大事なことまで、思い出さずに終わるところだった」
遠野くんは私を強く抱きしめてくれた。こみ上げて瞳にたまっていた涙が、零れ落ちてしまう。思い出してくれて嬉しいから、ありがとうって、笑って言いたいのに。
講義のあと、私たちは青葉の茂る木のかげに立った。
二人の消しゴムを繋げたら、ぴったりひとつになって、遠野くんも私も笑った。くすぐったくて嬉しくて、愛おしくて笑った。
「上京するために部屋を片付けてたら、缶の宝箱にこの消しゴムが入ってたんだ。この消しゴムは、消すためにあるんじゃなかったんだね。忘れないためのものだったんだね」
遠野くんは言うと、消しゴムをつまんで、顔の上に掲げて見つめた。
小学校の帰り道、手を握り合っておしゃべりしていた頃のように、キラキラと瞳を輝かせて、頬をうっすらと桃色に染めて遠野くんは私に向かって微笑む。
あの日、家に消しゴムを忘れてよかった。
私は青く澄んだ空を見上げてから、五月の日差しに縁どられた遠野くんの横顔を見つめた。
【おわり】
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