南米とドイツの話(サッカーの話題じゃないよ)

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01 序に代えて~南米ラプラタ川流域  南米の数カ国を流れる大河ラプラタ川を遡り、果てしない大平原が見渡す限り広がる雄大な景色の中を航行する大型モーターボートは、やがて某国の岸辺にあるボロボロの桟橋に接岸した。背嚢や布袋や大きな箱を担いだ十数名の屈強な体格の男たちが半ば腐りかけた桟橋の板を踏みぬかないよう注意しながら下船する。  男たちの人種や年齢は千差万別だが、人相の悪さは共通していた。  桟橋の脇では数台の車が彼らを待っていた。車種はセダン、ステーションワゴン、ピックアップトラックといったところだ。車の運転手たちがボートから降りた男らと二、三言葉を交わす。男たちが運んだ多くの荷物が車のトランクやピックアップトラックの荷台に収められる。男たちは車に分乗した。エンジン音が響き、車両は大河の畔を離れた。  大平原のど真ん中を貫く未舗装の道路を車列が進む。乾季の平原に緑は乏しい。それでも放牧された牛の群れがいて、牧童たちと一緒になって車の群れを胡散臭げに見ている。家畜も人も余所者(よそもの)を歓迎しない土地なのだ。ただし、見かけない顔だからといって牡牛が襲い掛かってくるわけでないし、牧童らも揉め事を起こそうとはしなかった。やってきたのが家畜を運搬する大型トラックだったら、何がどうなっていたのか分からない部分はある。治安が元から良くない上に、不景気で盗人が横行していた。多くの家畜を一度に運べる大型車両は貨物も大量に運搬できるので便利ではあるけれど、それだと一行が牛泥棒だと無思慮で短気な牧童に誤解されてしまい、無益な争いになりかねなかった。  男たちが乗っているのは牧童や警察に注目されない、目立たない車だった。仕事を済ます前に不測の事態は避けたい、という判断で選ばれた車両だったが、それで良かった。ただでさえ道が悪いので、家畜運搬用トラックの荷台に人が乗っていたら乗り心地は最低だったろう。まして、荷台に乗せられているのは気性の荒い男たちだ。イライラしているところを牧童どもに絡まれたら、何をしでかすか分からない。  やがて車両の列は脇道に入った。その悪路を道と呼ぶとしての話だが。  時が流れ、いつしか緑と茶褐色が混じり合う大平原の西の地平線に太陽が沈みつつある。車内はガタガタ揺れ、外はオレンジの光が眩しい。男たちの仏頂面がさらに険しくなった。  丈の低い灌木の茂みが見えてきた。その近くで先頭の車両が停止すると、他の車も次々と止まった。車から降りた男たちはトランクや荷台から荷物を下ろした。地面に置いた袋や箱を開け、中から武器を次々に取り出す。サブマシンガン、ショットガン、ライフル、ピストル、それに連発式のグレネードランチャーそれから携帯式のロケットランチャー、さらに火炎放射器まであった。  それらの火器で武装した男たちを整列させ、リーダーらしき白黒混血(ムラート)の男が手短に指示を出した。それから数人の男を呼び出しトランシーバーを手渡す。トランシーバーのチャンネルを合わせ通話可能であることの確認を終えると、男たちは車に乗り込み出発した。日没まで、残された時間はわずかだった。本日の太陽最後の光を浴びながら、埃だらけの乾いた荒野を進んでいくと、夕暮れの中に建築物が見えてきた。  粗末な木の柵に周囲を囲まれた、崩壊寸前の木造建築だった。屋根の尖塔に十字架が無ければ教会だと気付かれないだろう。南米にはイエズス会が建てた古い石造りの修道院の跡地が数多く存在し、その中には世界遺産に指定されるほど立派なものまであったが、この木造教会には何の縁もない話だった。豪華なステンドグラスは無いが、壁の窓にガラスはちゃんと(はま)っている。派手さは少しもなく、実用一点張りだけれども、この荒地には、それで十分だろう。  一列になって移動していた車列の先頭車両は、敷地の境界を示す柵の中に入って停車した。後列の車が左右に分かれて止まる。武器を手に車から降りた男たちは、教会を取り囲むように散開した。リーダーらしき白黒混血(ムラート)の男が乗車した車両は木造教会の正面に通じる道らしきものを塞ぐように止まっていた。火炎放射器を背負った男と大きな携帯式のロケットランチャーを持った男が荷台に乗っているピックアップトラックは、その横に駐車した。ピックアップトラックの助手席からトランシーバーを持った混血(メスティーソ)の男が降りる。木の柵の前で立ち止まり片膝を突いて胸で十字を切ってから教会の横にある掘っ立て小屋に眼をやった。その中に塗装が剥がれ錆びた車が止まっているのが見えた。地面に轍がなかったら、その車がまだ動けるのか悩んだことだろう。混血(メスティーソ)の男は携帯式のロケットランチャーを持った男へ、教会に隣接する掘っ立て小屋に停められた車を見るよう指で示した。事の次第によっては、その車をロケットランチャーで撃たねばならないと伝える意図があった。教会をぐるりと包囲したことをトランシーバーの音声が告げる。白黒混血(ムラート)の男は車の助手席を降りた。その手に握った拡声器のスイッチを入れる。 「中にいる者たちへ通告する。五分以内に外へ出て大地に這いつくばれ。繰り返す。五分以内に外へ出ろ」  同じセリフをもう一度、そして一拍の間を置いて、次のセリフを言う。 「俺たちはBLハンターだ。噂に聞いたことはあるだろう。お前たちを捕らえ<施設>に連れ戻すのが仕事だ。ただし、お前たちが抵抗するようなら容赦しない。持てる火力の全部を叩き込む。五分以内に出てこないときも同じだ。そのボロ小屋を穴だらけにしてやる。お前らごとな」  それらの通告を白黒混血(ムラート)の男は最初に話し慣れたスペイン語で、それから英語で、最後にドイツ語で言った。ドイツ語は正直、怪しかった。だが、教会の中にいる男たちは、母国ドイツにいたときより南米で過ごした時間が長い。スペイン語で意味は分かったことだろう。  混血(メスティーソ)の男は腕時計を見た。そして五分後に攻撃を開始する旨をトランシーバーでBLハンターたちに伝えた。携帯式のロケットランチャーを持った男に、掘っ立て小屋に停められた車へ近づく人影を見たら発射ボタンを押すよう直接命じた。  白黒混血(ムラート)の男が煙草に火を付ける。日が沈んだ大平原に小さな灯が揺れた。教会の中にいる脱走者の男たちは、その灯が消える頃に、死ぬことになるだろうと混血(メスティーソ)の男は思った。BLハンターの仕事を請け負うようになって長いが、<施設>を脱走した同性愛者の男たちを生きて捕らえた経験は数えるほどしかなかった。従って今回も、そうなる……と想定せざるを得ない。  煙草を吸う白黒混血(ムラート)の男は別のことを考えていた。脱走者を<施設>へ連れ帰ったら生死を問わず報酬が出ることになっている。だが、今までの数少ない例では、生きて運べば莫大なボーナスが支払われた。わざわざラプラタ川を船で遡ってきたのは、拉致を容易にするためだった。脱走者たちを捕らえたら船で川を下り、沖合で貨客船に移す手筈だ。実質的には誘拐なので、普通の手段では出国できず、そんな手間を掛けねばならないが……それだけの価値が、あの同性愛者たちにはあるのだろう、と煙草を吹かしながら思う。できることなら生かして連れ帰りたい。しかし情報では、あの教会に潜んでいる者たちは……そこまで考えたとき、白黒混血(ムラート)の男は決断した。五分以内に奴らが出てこないときは、予定通り、総攻撃だと。 02 ドナウ川のショーボート  シャム双生児、象男(エレファントマン)首長女(ろくろ首)、狼男その他の芸人を乗せてドナウ川を上り下りするショーボートに国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の親衛隊が踏み込んだとき、私は秘密警察ゲシュタポの同性愛者担当課の課長補佐と面談中だった。緊急事態が起きたと伝える船長からの電話に、私は顔面蒼白となり、次いで顔を真っ赤にして怒った。誰に? 自分自身とか、いろんな連中に対してだ!  その一人、目の前にいるゲシュタポの同性愛者担当課のボンクラ課長補佐に食って掛かる。 「うちのショーボートが親衛隊に襲われたぞ! 一座の芸人たちが大勢連行された! しかも船は没収されるらしい! 捜査に協力したら目こぼししてくれるって話はどうなってんだ!」  目を白黒させる課長補佐に私は罵詈雑言を浴びせ続けた。相手は「確認してくる」と言って這う這うの体(ほうほうのてい)で部屋を出て行った。私の怒りは収まらない。面談が行われたゲシュタポの執務室を檻に閉じ込められた獣のように歩き回る。不穏な空気に堪えられなくなったのだろうか、同席していたゲシュタポの美人秘書も姿を消した。それがまた、実に腹立たしい! 二人っきりになったチャンスを生かし、デートに誘おうかと考えていたのに。ハンサムで金持ちの青年実業家のお誘いに、彼女は絶対、乗っていたはず……と悔しく思う。同時に、首筋に寒気を感じた。私の財産の一部が失われつつあるのだ。今後の状況によっては、デートどころではなくなる。  障害者を収容所送りにしてまで民族の純血を守ろうとするナチス・ドイツの優性主義的政策は、私が経営する見世物小屋や巡業サーカス団に大きな脅威となった。見世物の芸人が大勢逮捕・拘束される危険は、ショーで大人気の出演者の不足となり、それは取りも直さず私の運営する事業の危機となる。たとえばショーの目玉は目玉の無い奇形の美少女なのだが、彼女がいないと常連客が来なくなるかもしれない。そうなったら、目玉の無い奇跡の美少女の目にも涙だ。そこで私は幾つかの対策を取った。その一つがショーボートへ芸人たちを乗せることだった。河川を航行する船舶は水上警察の管轄だが、国際河川であるドナウ川に船を浮かべていれば、何かあったら他国の管理下へ逃れられると踏んだのだ。手頃な客船を買い取り内装に金を掛けて改造しショーボートにしたら、これが当たった。儲けた金で高官たちに賄賂を贈るといった裏技に加え、ナチスに表立って協力もした。優秀なドイツ民族を作るために親衛隊が運営する「生命の泉協会(レーベンスボルン)」に多額の寄付をしたのだ。そればかりか実際に、親衛隊員と関係を持つに相応しい女性を提供してやったり、そのための宿舎を用意している。その親衛隊が私の事業を破滅させようとしているのだ。まったくもって許しがたい! あ、あまりにも腹が立って、その他の対策を説明し忘れていた。同性愛者を当局に密告する代わりに便宜を図ってもらうのである。私の経営するホテルや船宿そしてドイツ式屋形船には同性愛者のカップルが秘かに姿を現す。それをゲシュタポの同性愛者担当課に密告する協力者の私は当然、ゲシュタポの庇護下にある……と思い込んでいたら、違ったのだ。ふざけんな! 責任者、出てこい!  本当にそんなことを口には出さないまでも、苛立ちを隠せずにいる私に、同性愛者担当課の課長補佐は閉口したのだろう。彼に代わって部屋に現れたのは課長だった。 「君のところの見世物芸人たちは、安楽死のための施設に送られそうだ」  課長は冷酷な事実を淡々と言った。私はショックでひっくり返りそうになった。あれだけの見世物を集めるのに、どれだけの手間と金が掛かっているか! ドイツ国内だけではない、ヨーロッパ各国や南北アメリカそれにアジアとアフリカからも買い集めた、私のコレクションが……安楽死だと? ふざけるな、ふざけるなよ! 親衛隊の糞どもめ、死ね! と怒鳴りかけて思いとどまる。秘密警察ゲシュタポは親衛隊の一部門なのだ。  ただし親衛隊が一枚岩ではないことは周知の事実である。独裁者ヒトラーを支える親衛隊はナチスの勢力拡大に伴って急成長したが、その過程で警察その他の既存の組織を内部に取り込んだため、出身母体の違いに基づく様々な派閥が暗闘を繰り広げている。逆に言うと、いがみ合う各部門が自らの業績を上げようと努力することが競争原理を働かせ組織を活性化させているわけだ。  しかし足の引っ張り合いにしかなっていない場合も多くあって、それが私にとって迷惑な事態を招いていた。ドイツ民族の純血性を守るという共通の目的で活動する各部局が、自分たちの部局の業績を上げるため他を出し抜く、あるいは情報共有が為されないために、私のように有益な協力者が破滅の危機に陥ってしまっているのである。 「困りますよ、私の会社の従業員を安楽死にしないで下さい、助けてやって下さい、お願いしますよ」  私の必死の懇願に、残虐なゲシュタポの人間も心を動かされたようだ。安楽死を行う施設への移送は阻止すると約束してくれた。だが、直ちに釈放させることは難しいと困り顔である。 「私の可愛い従業員たちは収容所送りですか? 過酷な環境に耐えられるほど健康な連中ではないですよ。収容所にいたら、遅かれ早かれ死んでしまいます。それは実質的な安楽死でしょう」  もっともな言い分である! とまでは言わなかったけれど、課長は頷いた。それから「上司と相談し、関係機関と調整してみる」みたいなことを言い、私一人を残して部屋を出て行った。私の目の前の机の上に、一枚の紙を残して。  私は見るともなしに紙に目をやった。何か書いてある。紙を手に取って眺めたら、私に宛てた手紙だった。盗聴に注意して読むよう注意書きがあって、読み終わったら焼却処分することまで指示されている。大袈裟な……とは思わない。秘密警察であるゲシュタポの人間が秘密を守れと命じるということは、それなりの危険があるのだ。私は誰もいない執務室を見回してから、私宛の手紙を読み始めた。  そこには、親衛隊の幹部に刑法百七十五条違反の疑いがあり、検挙のための内偵捜査に協力するよう記されていた。協力というより実情は命令だが、それは脇に置いておこう。それよりも、もっと私を苛立たせたものがあるのだ。文書を読んで私の頭に湧き上がったのは「はめられた!」という憤怒だった。ゲシュタポの同性愛者担当課は、私を捜査に協力させるために、私のショーボートを障害者処分担当の部局へ売ったのだ。その証拠は、残念ながら無い。在ったとしても、私にはどうするすべもない。どうにもならないことを悩むよりも行動だ、とは思う。それでも、やっぱりモヤモヤした気持ちを抱えながら、私は手紙……いや、私宛の命令書の続きを読み続ける。  あああ、肝心なことを言及していなかった。  刑法百七十五条とは、反自然的な猥褻(わいせつ)行為つまり男性同士の同性愛を禁止する法律である。  一方、百合の娘たちを叩く法律は見当たらない。女性同士の同性愛者を処罰する刑法が存在しないのは男女差別だ! という声があるのかないのか、私は知らない。何にせよ、差別が大好きなナチス・ドイツにあってレズビアンの権利が特別に保護されているわけではないから、単に法制化が遅れているだけなのだろう。あるいは、殺す相手が他に多すぎて、手が回らないだけか。うん、恐らく、こっちだな。ユダヤ人やジプシー(ロマ)や共産主義者や障害者やホモセクシュアルの男性が根絶やしになったら、次はレズっ子か有色人種か……いや、女装癖のある私の番かもしれない。 03 美人女医はBLがお好き  同性愛者矯正施設の首席研究員、美人女医プレアデス・メルセデスはアメリカ人だった。 「同性愛(ボーイズ・ラブ)の研究が、どうしてもやりたくって、ドイツにやって来たの」  そんなもん、どこでだってできるだろう、と紅茶を飲みながら私は思った。適当に相槌を打っていたら、私が強い興味を抱いているとの誤解を与えてしまったようで、テーブルに身を乗り出すようにして話し出した。 「どうして男性同士が愛し合うと思う? 私は、その理由が知りたいの」  どういう返答が正しいのか、私は思い悩んだ。「そうね、私もその理由が知りたいわ」とでも言っておけば良いのだろうか? 会話としては、それで構わないだろう。しかし女性の声色を使って、そのセリフを噛まずに言えるかどうか、私には自信が無かった。無理に裏声を出してしまうと、逆に違和感が露わになる。声の低い女性のトーンで、頑張って返事をしてみる。 「そうね」  実際に声に出して話してみると若干ではあるが嫌な予感がしたので、さっき考えた長いセリフは回避した。私の声に対し、向こうは違和感を覚えなかったようで、話を続ける。 「まず、情緒的な理由があるわよね。性格が合うとか、趣味が合う、それから境遇が似ている、みたいな。気持ちの面で二人が近づき、寄り添って……という展開になるど、あ、ちょっと噛んじゃった、ごめんなさい。えっと、なるの、そういう展開に」  この女医さんも実は男性で、正体を隠すために下手糞なドイツ語を喋るアメリカ人の演技をしているのかと、私は少しだけ疑った。白衣の下の豊かな胸の膨らみも偽物で、夕方になるとトイレにこもって髭を剃っているかもしれないかと思い、彼女の頬や顎に髭の剃り跡を探す。 「でも、気持ち的な面だけでは説明できない部分はあると思うの。ええ、愛情と気持ちは不可分のものであることは分かっているわ。でもね、何か奇麗に分割できない要素があると思う」  じっくりと眺めたが、美人女医プレアデス・メルセデスの頬や顎に髭の剃り跡は見当たらない。夕日が眩しい職員用食堂のテーブルに向かい合って座る女性は、どう見ても本物の女性だった。もしも本物の男性だとしたら、その女装は完璧だ。機会があったら弟子入りしたい。 「恋愛感情と相手を好ましく思う気持ちは別個のもの、それでも完全には分けられない。重複する部分がある。これは男女間でも同じよね」 「そおっすね」 「私は、恋愛感情は大脳の旧皮質、即ち大脳辺縁系が司っているという学説に賛成しているわ。でも、それだけじゃないとも考えているの。大脳の新皮質は人を愛する気持ちに深くかかわっているはずよ」 「ですよね」 「だけど、その連動が同性愛者にも当てはまるのか、私には確証がつかめないの」 「なるほど」 「そういった研究がしたいとずっと思っていたのだけれど、アメリカでは機会に恵まれなかった。だから私は母国アメリカを離れ、大西洋を渡ってヨーロッパへやって来たの」 「そうですか」  初めて聞いたような振りをしているが、ゲシュタポの作った資料に目を通して来たので、大脳生理学者プレアデス・メルセデスの経歴は知っている。彼女はドイツ法務省とナチス親衛隊が合同で開所した同性愛者矯正施設の求人募集に応募して雇用された。外国人、しかも女性が研究部門のトップに就任するとは異例のことと言っていいだろう。それだけ優秀な人材というわけだ。もちろん、他の応募者にロクな奴がいなかったという可能性は捨てきれない。今日のドイツにおいて、同性愛者は研究の対象ではなく処罰の対象なのだ。私は同性愛研究の専門家ではないので断定はできないが、同性愛に強い興味を抱く研究者は少ないと思われる。  処罰の対象である同性愛者を刑務所や収容所ではなく矯正施設に隔離しようとする発想は、総統閣下アドルフ・ヒトラー直々のアイデアらしい。ナチス・ドイツ最大のヒーローが発した命令に逆らえる官僚はいないので、法務省と親衛隊が迅速に対応し、この施設が完成した。しかし、これを不審に思ったゲシュタポの高官がいた。これは刑法百七十五条つまり男性同士の同性愛を禁止する法律に違反する動きではないかと考えたのである。さらに、矯正施設というのは嘘で、実は同性愛者の発展場(はってんば)ではないのかという疑いを抱いた。政府と党のお墨付きを得た施設であることを隠れ蓑にして、堂々と猥褻な犯罪行為に浸ろう! という悪しき企てを直感的に察したゲシュタポは、ヒトラーに善からぬ入れ知恵をした悪党の正体をつかむべく、秘密捜査を開始した。その一環として、私の潜入調査がある。私の秘かな楽しみ、単なる趣味の領域である素人女装を生かし、同性愛者矯正施設にパートで働く総務兼雑務担当の女性臨時職員として私は勤め始めた。ちなみにプレアデス・メルセデスの肩書は法務省医療局の臨時職員で私と同じだが、給料は三等級ぐらい違う……いや、もっと違うかな。まあ、向こうの方が高いのは確かだ。 「給料は本国にいたときより貰えなくなったけど、充実感は断然違う。私は同性愛(ボーイズ・ラブ)の神秘を知りたいの。そこにはピュアな恋愛感情があるはず。打算で好ましく思う、とか。計算づくの結婚、とか、ピュアじゃないでしょ。そういう汚れた感情から純粋性が守られた、胸がきゅん! ってなっちゃう想い。それが同性愛(ボーイズ・ラブ)の本質なの。それを知るために、私はここにいるの」  BLに、そんなものが、本当にあるのか――と、私は疑いを抱きつつもプレアデス・メルセデスに微笑みかけ、それから力強く何度も頷いた。私はプレアデス・メルセデスという美女が白衣の中に隠した肉体の神秘を、心の底から知りたくなっていた。だが、ゲシュタポに命じられた潜入捜査のために女装している現段階で、愛を告白するわけにはいかない。 「素敵なお話ですね」  私はそう言って、冷えた紅茶の入ったティーカップを飲み干した。 04 矯正対象者たち 「俺たちは実験動物じゃない。モルモットでもマウスでもなく、人間なんだ。あんたは、そこを分かっていない。そんな誤解がある人間が、同性愛者を研究したいって? 笑わせるなよ、とっとと祖国へ帰りな」  同性愛者として矯正の対象となっている青年、バイエルン州ミュンヘン生まれのクリスティアン・ウーデ(仮名)は、そう言って美人女医プレアデス・メルセデスを睨み付けた。美形に鋭い目で睨まれた女性は愕然としていた。そんな風に罵られたことが生まれて初めてというわけでもあるまいに……いや、生まれてから初めての体験だったかもしれない。  ま、何事も経験だ。タイピストとして二人の面談に参加している私は、部屋の隅の机でタイプライターを打ちながら、青ざめた女医に心の中でエールを送った。 「あなたの心を傷つけてしまったのなら、謝ります。でも、この研究に協力してほしいの。これは絶対、あなたのためになるから」  真剣な面持ちで説得するプレアデス・メルセデスに対し、クリスティアン・ウーデは頑なな態度を貫き通した。 「俺がここに来たのは、あんたの実験のためじゃない。俺の性癖を矯正してくれる医者や精神分析の専門家は、他にもいる。わざわざ女の手を借りるまでもないのさ。そんなの、俺のプライドが許さないんだ。さて、もう戻らせてもらうぜ」  旧バイエルン王室の血を引く名家に生まれ第一次世界大戦で戦死した英雄の遺児でもある美形の青年は、女性蔑視の考えの持ち主で根拠の乏しいプライドに圧し潰されそうになり同性愛に逃避した……は言い過ぎか。誇り高かった、としておこう。  クリスティアン・ウーデの説得を諦めたプレアデス・メルセデスは、彼が研究室から出て行くのを引き留めなかった。肩を落とし溜息を吐いた彼女に、私は尋ねた。 「今の面談、記録を残しておきますか?」  大きく胸を張ってプレアデス・メルセデスは答えた。 「面談の記録は全部、残しておいて」  私のタイプが終わるのを待って、プレアデス・メルセデスは次の矯正対象者を部屋に招き入れた。入って来た男は、クリスティアン・ウーデよる少し年上で、同じくバイエルン州ミュンヘン生まれのオットー・フランツ・ボルマン(仮名)。とある政府高官の弟で、それを鼻にかける嫌味な奴だった。  そんな相手にも、プレアデス・メルセデスは親しみのこもった声で言った。 「ごきげんよう、あなたにお会いできて嬉しいわ」  オットー・フランツ・ボルマンは向かいの椅子に座ると腕組みをした。 「ごきげんよう、お嬢さん。僕は貴女と会って落胆しているよ」 「あら、どうしてかしら?」 「アメリカが送り込んできたスパイ。それが貴女の正体だ。一目見ただけで見抜ける。そんな簡単なことに、どうして誰も気が付かないのか? こんな有様では、ナチス・ドイツの第三帝国は滅亡するね。そう思うとね、もう落胆するしかないわけよ。お・わ・か・り?」  アー・ユー・アンダースタンドってわけですか、と私は思った。それにしても、これも記録に残すべきなのだろうか? 私には分からないよ。 「私はスパイではありません。同性愛の研究者で、この施設の利用者に研究への協力をお願いしています」  オットー・フランツ・ボルマンは鼻で笑った。 「そのやり方、アメリカ的だね。非ナチ的だよ。このナチス・ドイツの研究者はね、研究するにあたって、被験者の同意なんて取らない」 「アメリカでも取りません。これは私のやり方です」  プレアデス・メルセデスは研究の方法について説明した。 「幾つかの心理検査を受け、脳波と心電図を測定してから、最新の脳神経学的精神分析治療を受けていただき、それから最初の検査を繰り返し、治療前後の差を比較します」  オットー・フランツ・ボルマンは難しい顔をした。 「その方法は、ドイツの科学アカデミーの審査を通っているの? そうでないなら、僕はお断りだね」 「アメリカで幾つか予備的な研究を行っていますが、ドイツの科学アカデミーに論文は提出していません。アカデミーで認められるために、この施設で研究実績を積み上げるつもりです」 「まずさあ、権威ある医学団体からの認定を得てからでしょう。順番が違うよ。要するにアメリカの医学界が、貴方の研究を認めなかったんでしょ? だからドイツへ来たんでしょ? それで違わないよね」  何を偉そうに、と私は憤った。プレアデス・メルセデスの頼みを聞いてやれよ! と口には出さないが強く思う。  同性愛者を密告することで秘密警察ゲシュタポと良好な関係を築いてきた私だから、同性愛者を差別しているかというとそんなことはなく、何とも思っていないというのが本音だ。私の経営するホテルや船宿そしてドイツ式屋形船を利用する客なのだから、お客様は神様です! の精神で応対している。私が密告してきた奴らは、ホテルの備品を盗んだり壊したりしても平然としている悪党だけだ(金を払わずに逃げようとする大悪党も含む)。だから良心は全く痛まないし、経営者としても迷惑な客を始末しているだけで、私の目の前から消えてくれて気分スッキリだ……念のために再び言うが、差別意識は無いぞ。  それに私は、同性愛者矯正施設という総統閣下アドルフ・ヒトラーのアイデアに賛意を感じ始めている。同性愛が刑罰の対象であるというのなら、それを矯正するための努力が尽くすのが法執行機関の責務というものだ。そんな奇麗事とは別に、美人女医プレアデス・メルセデスの熱意に、私が同性愛者であったら(ほだ)されたいという願望がある。それは、かなえるのが非常に難しい願望だった。  プレアデス・メルセデスの研究協力に関するご依頼をすげなく断り、オットー・フランツ・ボルマンは部屋を去った。面談の記録を私がタイピングし終わるのを待って、傷心の美人女医は次の候補者を部屋に通した。  ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナー(仮名)はオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンに生まれた。まだ十代前半で、地上に舞い降りた天使のような美少年だった。彼のことをプレアデス・メルセデスは「少年愛の美学を感じる」と評していた。何のことなのか、私には分からない。  プレアデス・メルセデスから研究に関する依頼を聞いたハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーは、治療の不可逆性についての質問をした。聞かれた方が聞き返す。 「え?」 「だから、その治療は長続きするのか、それとも一過性なのかってことです」  一時的なものになるか、永続するか、まだ判明していないとプレアデス・メルセデスは正直に言った。ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーは、さらに質問した。 「一時的として、その期間はどれぐらいですか?」 「ごめんなさい、それもまだ分かっていないの」 「でも確かに、治療効果はあるんですよね?」 「ええ」 「百パーセントの治療実績ですか?」  少し気まずそうな表情でプレアデス・メルセデスは首を横に振った。 「そこまで高くはないの」 「八十パーセント?」 「いえ」 「六十?」 「そこまでは」 「成功と失敗が半々の確率ぐらい?」 「……いいえ」 「四十パーセント程度?」 「データー処理の計算方法によっては、それぐらいになるときもあるかしら」 「三十パーセントを切る、それとも切らない?」 「予備的研究では、二十五パーセント弱の治療結果だったわ」  そんな研究結果でも成功の範囲に収まるものなのか、と聞いている私が驚く一方で、被検者のハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーは納得の表情を見せた。 「そんなところだと予想していました。これからの研究ですね。発展の余地は十分にあると思いますよ。この際、将来性に掛けてみるのも良いかもしませんね」  十代前半の少年にしては、大人びた発言である。私はハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーの資料を思い出していた。この少年はアインシュタイン以来の天才らしい。アインシュタインは残念ながらユダヤ系ドイツ人だが、この少年は金髪碧眼で純血のアーリア人だとヒトラー閣下が喜んでいると調書に書いてあったから、本物なのだろう。惜しむらくは同性愛者であることだが、アインシュタインと同程度の頭脳で、しかも非常の整った容姿をしているのだから、それぐらいの欠点には目を瞑っても構わないのでは? と思う。案外、総統閣下は、この少年を異性愛者にしたくて、この同性愛者矯正施設を建設したのかもしれない。  そんなことを考えながらタイピングする私に、ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーは話しかけてきた。 「タイプは終わりましたか? 次の話題に移りたいのですけど」  私は慌てて頷いた。ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーはプレアデス・メルセデスを見つめた。 「治療効果の持続性に関して、思うことがあります。異性愛の洗脳……と言ってしまいますが、異性愛を最善とする風潮に、我々同性愛者を染める、そういう取り組み、それ自体が、永続するかどうか、僕は疑問に思うのです」  プレアデス・メルセデスは尋ねた。 「同性愛者の矯正政策が、一過性のもので終わるということ?」 「そうでもありますが、ナチス・ドイツという国家体制が終焉を迎えるかな、と思うのです」 「それは、どういう意味?」 「同性愛者の矯正政策をゴリ押しする総統閣下アドルフ・ヒトラーが、高転びに転ぶときが近づいていると、私は予想しています。要するに、ナチス・ドイツが滅亡するときです」  私は息を呑んだ。この部屋には隠しマイクが仕掛けられていて、親衛隊本部が盗聴記録を残している――ついでに言うと、ゲシュタポの同性愛者担当課も独自に盗聴器を設置している――わけで、そういった状況下で、この発言は極めて危険だ。だからといって、天才少年ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーに口をつぐむようアドバイスすることはできかねる。私は、ハラハラしながらタイピングする以外になかった。 「私が言えるのはナチス・ドイツの崩壊に伴って、刑法百七十五条が廃止される可能性がある、ということです。それが何年後になるか、預言者ではないので私には分かりません。他に、はっきり言えることは、そうですね……少々、申し上げにくいことなのですが」  ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーは悲しそうな表情になった。 「プレアデス・メルセデス先生。刑法百七十五条が撤廃されるとき、あなたの研究は、非人道的な犯罪行為だと認定されるでしょう」  いつも穏やかな美人女医の顔色が変わった。 「私が犯罪者になる、と仰りたいの?」  切れ長の目をした美人に睨まれ、天才少年は瞳を伏せた。 「申し上げにくいことですけど、一種の未来予測として聞いていただければ」  プレアデス・メルセデスはハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナーに対し、ご自慢の治療法をそれ以上勧めようとはしなかった。少年が部屋を出た後で、私は彼女に尋ねた。 「先生、お疲れでしょう。今日はここまでになさいますか?」  美人先生は首を横に振った。 「予定では、もう一人の面接があったと思います。予定通りやりましょう」  私は名簿をチェックした。畜生、もう一人、確かにいやがるじゃねえか! お互いに仕事とはいえ、ご苦労なことである。働き者のプレアデス・メルセデスの後に続いて、私は部屋を出た。廊下をしばらく歩くと、壁がコンクリートから石組みに変わった。この同性愛者の矯正施設は、ナチスの保養所を改造したものだが、保養所になる前はルネサンス様式の城塞だった。石造りの廊下の壁は、その名残りだ。廊下のガラス窓から外の景色が見えた。ドイツ南部の山岳地帯の空を、猛禽類のような翼が舞っている。餌を探しているのだろう。自由に空を飛ぶのも、それほど楽ではなさそうだ。  プレアデス・メルセデスは石の階段を降り始めた。私は、ここまで来たことがない。階段の電球が薄暗く、足元が見えにくくて危ない。換気をするための窓が見当たらないせいで、風の流れはあっても息苦しくなってくる。改造されてはいるものの、ここはかつて地下牢だったそうで、それも納得である。こんなところにこもるのが好きな人間は、同性愛者という変わり者の中でもとりわけ変人といえよう。そんなことを思いながら地下道を進んで行くと、突き当りに到着した。  木製の分厚い扉に取り付けられたドアノッカーを、プレアデス・メルセデスが二度三度と叩いた。 「カール・ヨーゼフ・ライトライヒナー、起きている? 起きていたら返事をして」  中から声が聞こえた。私には、獣の唸り声にしか聞こえなかった。 「入るわよ」  扉を開けると、ムキムキマッチョ、超マッチョな男が巨大な鉄アレイを使って肉体を鍛え上げていた。男は私たちを見て言った。 「トレーニング中なもので、手を離せないんだ。茶は出せないが、それでもかまわないか? それならいいんだ。そこらへんに座ってくれ」  バーベルやら何やら、私には名前の分からないトレーニング用具の間に腰を下ろしたプレアデス・メルセデスと私は、カール・ヨーゼフ・ライトライヒナーの筋トレを眺めた。それにしても凄い筋肉美である。ボディービルの大会に出場したら、優勝しそうだ。私のところで雇っても良いだろう。この体を拝むために金を払う者は、絶対にいる。 「前にお話しした、同性愛者のための矯正治療の件なのだけれど」  プレアデス・メルセデスは他の同性愛者に話した治療法の説明を、ここでも繰り返した。後でタイプライターを使い、その記録を残さなければならないが、この部分は複写で大丈夫だろう。  カール・ヨーゼフ・ライトライヒナーは鉄アレイを床に置いた。タオルで汗を拭く。 「その件は、俺も色々、考えた」  部屋の隅に置いてある壺から木のコップに何かドロッとした液体を注ぐ。変な臭いが、こちらの方まで漂ってくる。これは、ゲシュタポの資料に書いてあった、アレか。カール・ヨーゼフ・ライトライヒナーは健康のため、北海やバルト海の漁師が獲った鮫の肝油を取り寄せて愛飲している、とのことだった。いくら何でもトレーニーすぎるだろ……ってか、健康オタクにも程があるぜ。  トレーニーな健康オタク、カール・ヨーゼフ・ライトライヒナーは牛乳でも飲むかのように左手を腰にして鮫の肝油を一気飲みして、言った。 「俺が同性愛者である理由の一つは、異性愛では男性掘るオン、間違えた、男性ホルモンが得られないのではないかと考えるからだ」 「……それは、どういう意味なのかしら?」 「奮いつきたくなるような美人、そうだよ美女先生、あんたみたいな女でも、女は俺に男性ホルモンを供給してくれない。俺は筋肉を増強させてくれる男性ホルモンを欲しているんだ……俺は心の底から、自分を高めてくれる男のエキスを求めているんだ」  医者であるプレアデス・メルセデスは、同性愛によって男性ホルモンが補充されることはないと力説したが、カール・ヨーゼフ・ライトライヒナーは取り合わなかった。 「学会では証明されていないと、美女先生、あんたは言うね。もしかしたら正しいのは、あんたなのかもしれない。そうさ、正しいのは異性愛で、同性愛は誤り。きっと、そうなのだろう。異性愛は健康的で、同性愛は不健康。異性愛は祝福され、同性愛は処罰される。それが世の中、それが今の世の中だ。それでもね、美女先生、あんたがお勧めの治療法は、俺には無用だ。俺は俺の美しさに殉じるよ。その覚悟はできている」  それで話は終わった。私とプレアデス・メルセデスはカール・ヨーゼフ・ライトライヒナーの部屋を出た。地下道を通り抜け、石造りの階段を登る。私の先を進む美人女医の尻が、白衣の下で左右に揺れている。私は彼女の尻に自分の顔を埋めたくなった。それをやったら、私は破滅する。我が身を滅ぼしてもなお、美女の尻の中に魂を沈める覚悟が私にはあるか、と自問自答し、その設問の馬鹿々々しさを心中で嘲笑う。 05 南米ラプラタ川流域、再び  最後通牒から五分経過した。白黒混血(ムラート)の男が腕時計を見て、混血(メスティーソ)の男に目で合図した。混血(メスティーソ)の男はトランシーバーで攻撃開始を命じた。おんぼろの木造教会を包囲した男たちは一斉に銃撃を開始した。銃撃音が大平原に木霊(こだま)する。風は無いが、教会の壁がビリビリ震えた。木製の壁が弾痕で見る見るうちに穴だらけとなっていく。  白黒混血(ムラート)の男は攻撃の一時中止を命じた。混血(メスティーソ)の男が命令をトランシーバーに向けて復唱すると、銃撃は止まった。白黒混血(ムラート)の男は前進を命じた。混血(メスティーソ)の男がトランシーバーで包囲陣に指示を伝達する。それから火炎放射器を背負った男に対し、自分の後に続くようにと言った。トランシーバーを腰のホルターに差し、代わりに自動小銃を手にして小走りに教会へ向かう。重い火炎放射器を背負った男が後を追う。  包囲していた男たちが体を低くして教会の近くまで接近していた。割れた窓ガラスから建物の内部を覗く。暗くて何も見えない。用意していた懐中電灯で中を照らす。壊れた椅子やテーブルが見えた。穴だらけの家具が他にもある。遺体は見当たらない。混血(メスティーソ)の男が教会の正面入り口から中へ入った。数人の男が後に続いて教会内へ足を踏み入れる。壊れた祭壇の前に、汚いマットレスがあった。自分たちが追っている脱走者たちは、ここで寝ているのだろうと襲撃者たちは考えた。祭壇の裏手に台所や洗面所があった。そこにも誰もいなかった。逃げられたのかと、そこにいる誰もが思った。混血(メスティーソ)の男は、内部の捜索を打ち切ることを決めた。全員に外へ出るように命じる。そのときだった。教会の外で車のエンジン音が鳴り響いた。一人が割れたガラス窓から外を見た。教会に隣り合った掘っ立て小屋の中に停められていた車が急発進している。外に待機していた男たちが疾走する車に向かって発砲した。それでも車は止まらない。教会の敷地を示す木の柵を突き破り、荒地へ向かってひた走る。  携帯式のロケットランチャーを持った男が、逃げる車めがけてロケット弾を発射した。黄色い炎を吹きながらロケット弾は真っすぐに飛翔し、目標の車に命中した。軍用の装甲車さえ破壊するロケット弾の直撃を受けて、普通の車が無事であるはずがない。凄まじい爆発音と共に、赤い炎を巻き上げながら車の残骸が宙を舞う。それを見た男たちは歓声を上げた。混血(メスティーソ)の男は冷静に言った。 「気を抜くな。あの車に乗っているのが全員とは限らないぞ」  白黒混血(ムラート)の男が助手席に乗り込むと車は発進した。燃え上がる車の残骸へ向かう。それほどの距離があるわけでないので、ドライブはすぐに終わった。遺体の確認をしたいが、この炎が鎮まるまで待たなければならない。白黒混血(ムラート)の男は煙草に火を付けた。  混血(メスティーソ)の男は、炎上を続ける車へ向かって全体の中から半分の車を差し向けた。それから火炎放射器を持っている男に教会を焼き尽くすように命じた。言われた男は、黄色い炎が先端でチラチラ揺れる火炎放射器の筒先を、わざわざ燃やすまでもないほど壊れた教会へ向けた。 06 本作品について  ナチス・ドイツの無条件降伏により第二次世界大戦のヨーロッパ戦線における全戦闘が終了した後、ドイツの戦争指導者の責任を訴追して処罰するために国際軍事裁判が開かれた。開催された都市の名前からニュルンベルク裁判と呼ばれるこの戦犯裁判において、ナチス・ドイツの悪行三昧が露見したわけだが、筆者にはどうも分からない点がある。同性愛者に対する虐殺の責任は問われたのだろうか? 筆者には、これがどうもはっきりしないのだ。ユダヤ人の大量虐殺は人道に対する罪に該当すると思う。ロマ(当時はジプシーと呼ばれていた)に対する大虐殺もそうだろうし、スラブ人の犠牲者もナチスの戦争犯罪によるものだろう(スターリンも色々やっているが)。  しかし同性愛者の虐殺は罪に問われたのだろうか? あるいは身体障碍者や精神障碍者に対する殺戮は? 何度も繰り返すが、筆者には分からない。調査が足りない、または勉強不足と言われれば、それまでだが――戦勝国である連合国側がその罪を問わなかった理由は察しが付く。似たようなことを連合国側もやった、あるいはやろうとしたからだ。  色々と調べてみたが、それでも分からなかったと開き直らせてもらう。幸いなことに言い訳はできるので、やる。資料が乏しいのだ。例えば身体障碍者や精神障碍者に対するジェノサイドは、全部が全部ナチスの指導によるものではなく、治療側が勝手に安楽死させた部分がある。極限状態でのトリアージが末端で行われた結果、全国規模のデータは揃えられなかった、ということなのだろう。物資が極端に不足した戦時には、どこの国でも起こりえる話だ。今でも、これからも。  さて、資料に乏しいとは書いたが、それでも記録は探せば出てくる。本作品の中盤にある、男の手記がそうだ。数々の事業を手広く展開していた青年実業家で、ナチスと協力関係にあり、さりとて一心同体とは言い難く、雇用している者たちの命を救うために悪戦苦闘する名無しの男は、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』の主人公オスカー・シンドラーに似ていなくもない……がまったくの別人だ。何しろ名前も何も分かっていない。この手記があるだけだ。それも途中まで、尻切れトンボで終わっている。詳細不明もいいとこだ。  そうなのだけれども、これが続きではないか! という文書はある。スペインはバルセロナ、混雑するライエタナ大通りを抜けて大聖堂(カテドラル)の裏手にあるカトリック教会の古文書館で、筆者はその記録に目を通した。あれはバルセロナ五輪より前だったと思う。その古文書館に同行していた友人が亡くなったのは、一九八六年の四月、そのスペイン旅行から戻って間もなくだったのは覚えている。その時の冬にバルセロナを訪れたのも、はっきりしている。ただ、その文書を読んだ正確な日付は不明だ(亡くなった男は几帳面だったので、日記に書いているかもしれない)。  バルセロナのカトリック教会古文書館へ出向いた理由は当時の私が、ピレネー山脈南側の僧院で生涯を終えた戦国時代の九州出身の侍について調査していたからだ。キリシタンとなった彼は関白豊臣秀吉の禁教令にて出国を余儀なくされた正直者のイエズス会士に付き従い日本を離れ遠くスペインの地で死んだと聞き、その終焉の地とされる僧院へ出かけたが何の資料も残されておらず、僧院長の言葉によればバルセロナには記録があるかもしれないとのことで出かけたが、紹介された古文書館の学芸員たちからは「そんなものは知らない」と言われ、日本からわざわざ行った私と友人はギャフンだった。  落胆の色を隠せない私たちに同情してくれたのか、学芸員たちは古文書館の中を丁寧に案内してくれた。興味のある資料は好きなだけ見て構わない、とまで言ってくれた。それなら例の九州侍について調べてみようと思い、【未整理】と油性ペンで記された箱を引っ搔き回していたとき、その文書が出てきた。スペイン内戦の資料を収納した箱の中に紛れ込んでいたのだ。その文書は英語で書かれていた。私には、誰かに宛てた手紙のように思える。その内容は、こんな感じである。  親愛なる(宛名は不明。黒い液体のようなもの、恐らくは血で汚れていて読めない)  深い悔悟の念を抱いて、私は今、この文章を綴っている。  私は自分の黒い欲望を抑えられなかった。  アメリカから来た、あの美人女医プレアデス・メルセデスの気を引くためなら、どんなことでもやってやる……そんな思いに囚われてしまったのだ。  要するに私は、あの女の正体を見抜けず、その邪悪な企てに手を貸してしまった。アメリカでは不可能だった人体実験の手伝いをしてしまったのだ。  貴方は私に忠告してくれた。我が身を滅ぼしてもなお、美女の尻の中に魂を沈める覚悟があったとしても、それを本当にやったら身の破滅だから絶対にやるな、絶対にやるなよ! と。おお、それを私は誤解してしまったのだ――あ、これはやれってことなのかな、と!  プレアデス・メルセデスの人体実験は、不思議な作業だった。矯正施設の次席研究員ヴィルヘルム・フォン・エッヘンバッハッハは脳手術と肉体改造によって同性愛者を異性愛者へ生まれ変わらせようとして失敗し、異形の怪物たちを生み出したが、彼女は言葉だけで同性愛者を別の何かへ変貌させた。それはまるで、魔法の呪文だった。あの女性が魔女だったと言われても、私は信じるよ。  そう、彼女は本当に魔女だったのかもしれない。プレアデス・メルセデスから秘密の名を教えられ、その名を阿呆のように繰り返しながら、彼女を抱きしめた夜を思い出す。私は完璧に、彼女に魅了された(筆者注。ここから数行はペンで何度も線が引かれ、読めない)  戦局が悪化したスターリングラードの戦い以降、矯正施設の閉鎖は何度も取り沙汰されたが結局、終戦の直前まで存続した。それは首席研究員プレアデス・メルセデスの功績と政治力の賜物だった(次席研究員ヴィルヘルム・フォン・エッヘンバッハッハは既にこの世のものではなかったが、彼の努力もまた矯正施設の生き残りに大きく貢献した)。  プレアデス・メルセデスのおかげで、矯正施設にいた同性愛者たちは収容所送りにならず生き永らえることができた、それは衆目の一致するところだと思う。そして同性愛者たちは矯正施設の実質的な支配者が好む、ピュアきゅんBLな生活を送ることができたのだ。  しかし、それは大きな代償を伴った。異形の怪物となる、あるいは、見かけは以前と変わりないが中身はまったく違う生き物となる、といったほかに(筆者注。ここから数行はべっとりとした血の跡で判読不能だ)  ナチス・ドイツが崩壊したとき、矯正施設の住人たちに与えられた選択肢は限られていた。一つは西側、米英へ逃れる。二つ目はアルプスを越え、スイスへ逃亡する。三つめは東、ソ連へ逃げる。四つ目がピレネー山脈を越えイベリア半島へ、そしてスペインかポルトガルから南米へ向かう。五つ目が、ナチスの残党と共に月の裏の秘密基地へ旅立つ。最後の選択肢は、プレアデス・メルセデスと一緒に、新たに建設された<施設>に向かうことだった。  矯正施設の住人たちは自分の信じた道を、思い思いの進路を進んだ。プレアデス・メルセデスは全員が自分と共に新天地である<施設>へ行くものと確信していたようだが、彼女が思い描いた理想とは程遠い参加者しか集まらなかったよ。そうそう、貴方は覚えているだろうか? クリスティアン・ウーデ、オットー・フランツ・ボルマン、ハインリヒ・ゲオルク・クラウゼナー、カール・ヨーゼフ・ライトライヒナーという四人の名前を。彼ら四人は一緒に行動する未来を選択した。ピレネー山脈の南へ向かいイベリア半島で新たな身分証を手に入れて、そこから南米へ渡ったのだ。  皆、頑張れ、達者で暮らせよ! で良いだろうと私は思うのだが、プレアデス・メルセデスはそう思わなかった。自分から離れていった者たちを裏切者と罵り、様々な手段で自分の元へ集めようとした。例の魔術的な言葉で呼び寄せようとしたり、暴力的な手段を講じたり(筆者注。ここから数枚は凝固した血が多すぎて、紙がべったり付着し、剥がそうにも剥がせない)  何があっても、私はプレアデス・メルセデスの味方であろうとした。愛しているから、それは当然だ。だが彼女は、私ほどの愛を持ち合わせてはいなかった。彼女の心には、別の男がいたんだ。誰だか分かるかい? 教えてやるよ、それは貴方だ。あの魔女は、貴方を愛していたんだ。初めて会ったときから、ずっと好きだったんだとさ。夕陽に染まった職員用食堂のテーブルで、ピュアきゅんBLとは何かを延々と語り合った日から、ずっと。その事実を知って、私は自分が愚かで、情けなくて、恥ずかしくて、いたたまれなくなった。もう<施設>には居られない、と思った。だから、脱走しようとしたんだ。私は、私を慕ってくれる数人の仲間と(筆者注。ここから先は破られている)  この文章は、筆者の亡くなった友人が写真に撮影しておいたものに基づいて綴ったものだ。この内容に間違いがあったとしても、それは私の旧友のせいではなく、すべて私の責任である。 07 南米ラプラタ川流域、三たび  遠い、遠いアンデスの向こうに、娘の魂は飛んで行ったのだろうか?  ラプラタ川の河口を望む丘の上の墓地に立ちながら、ロドリゴ・フェルナンデス・ペルティアの心は海でなく山脈へ向いている。考えるのは亡くなった娘のことだけだ。娘の魂はアンデスの空を飛んでいるのか、その思いだけが心の中でグルグル回っている。それは、餌を探してアンデスの空を舞うコンドルの姿に酷似している、と言ってよいだろう。ちなみに、アンデス山中をトレッキング中に何者かに惨殺された彼の娘の死体は、コンドルの群れについばまれ原形をとどめていなかった。まるで鳥葬みたいだな、というのは、あまりにも残酷すぎる。それでは、男手一つで育てた一人娘を失った彼に、何を言えば良いのか?  まずは、お悔やみの言葉だろう。  ロドリゴ・フェルナンデスの娘ナタリアの墓前に供える白い百合の花束を携え、東洋人の男が夕陽を背にラプラタ川の河口を望む丘を登る。 (筆者注。ここから先は時間切れだ)
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