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第21章 はじめての
「あっ、あぁんっ、そこ。…いいのぉ…」
「は、ぁ…。いいよ、…木村…」
秘めやかな暗闇の中、甘い男女の絡みつくようなよがり声が絶えず響いてくる。これが自分の部屋じゃなきゃまだ何とか落ち着いて対処できなくもない状況なんだけど。
一体何で自分ちに帰宅しただけなのにこんな場面に遭遇しなきゃならないのか。一瞬何かやばい状況なのか?と焦って全身の血が引いて青ざめたじゃないか。
反射的にだりあの身に何か、よくないことが。と脳裏に浮かんでしまい本気で身構えてしまった。それで思わず真剣に耳を澄ませて気配を読み取った挙句、真面目に聞くんじゃなかった。と次の瞬間心底後悔した。
別に大声で騒いで派手に嬌声を張り上げてるわけじゃない。だけどどんなに両者が頑張って声を抑えようとしてても。抑えきれずに漏れだすものや溢れ出るものが、やけに密やかに部屋の奥から漂ってくるのだ。何というか、…ほんのり湿ったピンク色の空気が。
「んっ、あぁ、やめちゃいや…。もっと、ぉ」
「…は、ぁ。でも。…そんな」
女の声(てか、落ち着いて聞かなくても。最初から明らかにだりあの声)が自制できない。とばかりに切なく絞り出すように囁く。それに対して火照りを隠せないながらも躊躇い混じりにわななくように返すのは、やっぱり聴き慣れた越智の声だ。
「あんま、すごく、すると。…木村が。苦しく、ない?」
誰の声かはっきりとわかった瞬間、あの野郎。ひとの信頼を無碍にしやがって、と一時的にむかっとはなったけど。
台詞の内容的にはだりあを気遣って自分を何とか抑えようとしてる風なので、とにかくここで怒鳴りつけて乱入するのは思いとどまる。ていうか、しろって言われてもさすがにそんなこと。あえてしたいとは思わないけど。
だりあはそんなのどうでもいい、と言わんばかりに熱を込めたのぼせた声でねだった。…どうやらより積極的なのはこっちの方かも。
「うっうぅんっ、そんなのぉ。…いいの、いいから。…思いっきり」
それから玄関先では聴き取りにくいほど、低く掠れた小声でさらに甘く微かに囁く。
「越智くん、なら。…乱暴に、されても。いいの。…ああ、めちゃくちゃに。…してぇ…」
「は、ぁ…。木村。好きだ…」
そしてさっきより一段と激しくロフトの床がぎしぎしと暴れる。まじであれじゃ、終いには底が抜けちゃうかも。
「あたしも。すき…。あっ、ねぇっ、お願い。…木村、じゃなくて。…『だりあ』、って。…よんで…」
はぁはぁ、ぎっぎっ、みしっ、ずしり。とあからさまな音が静寂の中に響き渡る。その手の映画の効果音みたいだ。見たことはないけど。
「あっ、うんっ、だりあ。…すき…」
「あ、…ぁ。勇気…ぃ」
遠慮がちに音もなく袖を引かれてやっと、は。と我に返った。…しまった、奥山くん。
あまりの想定外な事態に動揺というより、呆れ返って毒気を抜かれてぼうっと佇んでしまってたけど。
こんなの暗闇で息をひそめてただじっと聴かされてるの、年頃の男の子にはそりゃつらいよな。多分刺激が強すぎる。
彼はわたしがそっちを気にしたのにすぐ気づいたらしい。ふとやや屈むようにしてわたしの耳の近くに口許を寄せ、ごく小さな声で囁きかけた。
やっぱり、奥で我を忘れてる二人に存在を気づかれたくはないんだろう。こっちに疾しいことは何一つないけど。単純にお互い間が悪すぎる。
「…ここで、こうしててもどうしようもないから。…とりあえず。一旦、出ようか?」
「ん」
わたしの方にも何ら異存はない。ほとんど声を出さずに目で頷いて、奥山くんがそっと背中に手を添えるようにして外に促すのに任せて玄関を出た。
ドアを音を立てずに開閉するのと、静かに鍵をかけるのにちょっと神経を使わざるを得なかったが。…まあ、大概盛り上がって世界は二人だけ、って状態みたいなので。そこまで気遣わなくても多少の物音には気がつきそうにないか。
「…ふぅ」
そろそろと強張った足取りでその場を離れた。アパートを出てだいぶ経ったところでずっと黙って隣を歩いてた奥山くんが、ようやく力を抜いてため息を吐き出した。
それだけ緊張してたんだ。そりゃ無理もないか、と彼の方へと改めて注意を向ける。
「大丈夫?…びっくりしたよね。なんか、悪かったね。あんな場に居合わせる羽目になって」
「いやいや、…ていうか、何で。羽有ちゃんが謝るの?」
「え、だって。…道場が早仕舞いする日だって。ちゃんと確認してなかったし…」
ごもごもとそう説明したけど。実際には二十歳の男の子があんな生々しいの聴かされて、身体がつらくはないのかな、と。…当たり前だけどわたしは若い年頃の男になったことなんかないから。ただの憶測でしかないが。
もしかしたら奥山くんは貴公子だから、性欲なんて下賎なものはほとんど持ち合わせない特殊体質に生まれついてるのかもしれず。だったら別に同情には値しないだろうけど…。
案の定彼は、とんでもない。とでもいうように首を強く横に振った。
「そんなの全然。誰だって普通によくあることでしょう。それにそもそも、それは根本的な問題じゃないよね。予定より早く帰ったからなんて。…あんなことになってるとは、まあ。さすがに思わないよね」
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