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1、狂家
叡山電車の二ノ瀬で降りたのは、私と御鈴、将大の三人だけだった。
二両編成の車両に満員の人たちは皆、この先の貴船口か鞍馬まで行くのだ。
空はどんよりと曇っていた。滴るような濃い緑から、ひぐらしの声が降り注ぐ。でも息苦しいほどの蒸し暑さは健在で、二軒茶屋を過ぎたあたりから、異界の森に迷い込んだような心地になっていた私は、何とはなしにほっとした。
「白川御典さんで?」
椛の巨木を背景に、まるでツリーハウスのような駅舎で、東谷は私たちを待ち構えていた。中年太りの身体に、三条工務店の刺繍が入ったグレーのつなぎをきちんと着込み、ハンカチでしきりに首筋の汗を拭いている。
「想像よりお若いのでびっくりしましたよ」
仕事着のパンツスーツに薄くメークをしても、年齢は誤魔化しきれていないようだ。だがまさか高校三年生だとは思っていまい。
「出町柳まで、お迎えに上がれたらよかったんですが。申し訳ありません」
「いいえ。久しぶりに叡電も、いいもんですね」
名刺を交換しながら、将大がいつもののんびりとした口調で言う。
ノスタルジー溢れる駅舎や景色に目を輝かせ、「典ちゃん、見てみ!」と何度も人の肩を叩き、もみじのトンネルで野生の鹿に大はしゃぎしたことは言わなかった。
流石に仕事で来ていることは、わきまえているようだ。
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