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カメラを仕掛けた犯人は広報課の仁科という男で、学校に行く機会があり、その時に仕掛けたのだと署で自白した。
問題は伊藤だ。おそらく彼は仕掛けられたカメラを見つけ、こっそり中のデータを抜き取っていた。データの削除は当然求めるとして、それを事件化するかどうか。
浜北署としては、口頭での厳重注意に留めたい。でも大輝は「絶対逮捕してくれ!」と息まき、結局、説得できないまま釈放された。
土曜日、秋乃翔平は大輝にメールを送ったが、返ってきたのは「俺の気持ちは変わらない。教え子だからこそ、悪事を見逃すわけにはいかない」という頑なな文言だった。それらしい理由にすり替えるくらいには、気持ちに余裕ができたらしい。
秋乃は母校へ行ってみることにした。恩師に相談して、大輝を説得してもらうのだ。昨日、テニス部の顧問が変わってないことを確認した。土曜日なら、テニスコートに行けば確実に会える。
車を降りると、ちょうど隣のデミオから大輝が降りてきた。秋乃に気付かず、迷いのない足取りで旧体育館の方へと向かう。大股で、あっという間に距離が開いた。背中は怒りに満ちている。
「大輝っ!」
秋乃は慌てて追いつき、盗撮犯が捕まったことを説明した。
「お前一人か? 署長を連れて謝りに来い」
「ごめん、でも、大輝の身柄を拘束したのにはちゃんと理由があるし、その……警察権の範疇というか……」
「お前らは袴田事件から何も学んでないんだな」
道場として使われている旧体育館から、「みんな聞いてくれ!」と溌剌とした声が聞こえてきた。大輝の足取りが一層力強く、加速する。眉間には筋が立っている。
「大輝っ」
秋乃は思わずその腕を掴んだ。
「何を……するつもり?」
「離せ。俺は教師だ。悪いことは悪いって、それを教え子に説き聞かせる義務がある」
「また晒し者にするつもりかっ!」
激情が込み上げ、声を荒げた。ホモと揶揄われた学生時代がまざまざと蘇った。片足を体育館に踏み入れた状態で、大輝が振り向く。
「なんだその言い方は。晒し者? 俺がいつ、誰を晒し者にしたって言うんだ」
勇ましい太い眉、鋭い眼光。強烈な自我を目の当たりにし、秋乃は言葉に詰まった。
「俺は、万引きなんかしていません」
その時体育館の奥から声がした。
剣道部員が集まっていて、その前に伊藤が立っている。こちらを向いている彼だけが、秋乃と大輝の二人に気づいた。
「マイノリティの講演会の後、ホームルームで塩谷先生が学生時代のことを話してくれました。俺は、塩谷先生だったら理解してくれるかもしれない、味方になってくれるかもしれないと思って」
「なんの話だよ」
剣道部員がやじった。
「え、つかお前ホモなの?」
「おいっ、黙って聞け!」
「ホモです」
伊藤が認め、一挙にざわめいた。伊藤の顔が紅潮していく。
「塩谷先生に前出ろって言われたのって、もしかしてそのこと?」
別の剣道部員が聞いた。伊藤はこっくりと頷く。
「なに?」
「塩谷先生が伊藤に『前出ろ』って指示したんです。伊藤から話があるからって。それでこいつ、万引きしたとか言い出して……あれ、ホモだって打ち明ける予定だったんだな」
「予定っていうか……あれは急だったから」
「じゃあ、なんも準備してなかったんだ。塩谷先生が指名するとかってのも」
伊藤はキュッと唇を巻き込んだ。涙を堪えるような表情を、秋乃は高校時代の自分と重ねた。そんなことがあったのか。中華料理屋で自分が話したことは、何一つ大輝に伝わっていなかった。
「だから……万引きとか、嘘、ついてしまいました。迷惑かけて、すみませんでした」
伊藤が頭を下げた。薄い肩が小刻みに震えている。水滴が落ちた。誰かが声を掛けなければあのままだ。誰か……秋乃は祈るような気持ちになった。
「な、なんだよー、お前、なんも悪いことしてねーじゃん!」
副部長が前に出た。何度もタイミングを見計らっていたような、ややオーバーに見える仕草で背後から伊藤に抱きつき、わしゃわしゃと頭を撫で回す。
秋乃は詰めていた息を吐いた。
「そういうことならもっと早く言えよー、別にホモとか犯罪者とか、俺ら全然気にしないし、なあ?」
副部長がぎこちない笑顔で、すがるように剣道部員を見やった。その目はすぐさま秋乃と大輝の二人を捉え、驚きに変わる。
「いや犯罪者はダメっしょ」
部員がツッコミ、小さな笑いが起きた。
「お、俺っ!」
伊藤が声を上げ、笑いがピタリと止んだ。
「俺……塩谷先生にムカついて……し、塩谷先生を陥れるようなこと、しました。それで塩谷先生……逮捕されて……」
副部長が「おま……」と絶句する。しん、と水を打ったように静まり返った。俺の出番が来たな、とでも言うように、大輝が一歩、前に出る。
「あははっ!」
不意に、一人の部員が声を立てて笑った。連鎖するように部員が一斉に笑い出す。
「塩谷をハメるとか、お前最高だわ」
「やるじゃねえか」
「やっぱあいつひでえよなあ。お前、別にみんなにカミングアウトしたかったわけじゃないんだろ?」
「気にすんな気にすんな。犯罪でも、塩谷をハメる犯罪なら大歓迎。俺ら二年はみんなアイツの事嫌ってるから」
伊藤は忙しなく涙を拭う。部員らは伊藤を励まし、本人がいるとも知らずに大輝を罵った。副部長が一人でアワアワしている。
大輝は踏み出した足を引っ込め、踵を返した。秋乃をギロリと睨みつけるが、そこに普段の激しさはない。自信を失ったように、彼はすいと顔を背け、去って行った。
秋乃はじゃれ合う剣道部員に視線を戻した。一緒じゃないな、と口の中で呟く。あの中に、昔の自分と重なる者はいない。
副部長と目が合った。昨日、彼とは気の利いた会話が出来なかった。照れ臭かったが、うまく微笑むことができた。彼は恥ずかしそうにはにかみ、ペコっと頭を下げた。自分は大人で、彼は子供なのだと改めて認識した。
秋乃もその場を後にした。駐車場に行くと、コンパクトカーのPCが入って来た。制服警官が降りてくる。懐かしい人物に秋乃は目を丸くした。
「田淵っ!」
警察学校の同期だ。卒業後はシフトの関係で休みが合わず、個人的に会ったことは一度もない。
「おー、秋乃じゃん。なんでこんなとこいんだ?」
内勤ではない田淵は、秋乃が浜北署に派遣で来ていたことを知らないのだろう。
「ここ、母校なんだ。田淵は?」
「盗撮犯が他にもカメラを仕掛けたって言うから、回収してこいって駆り出されたんだ」
田淵は校舎を見上げた。
「へえ。ここ、秋乃の母校なんだ。キレイなとこじゃん」
「うん……田淵、浜北にいたんだね」
「ああうん。もう二年経つかな。結構良いとこだよな。ラブホとパチンコいっぱいあるし」
ヒヤリとした。田淵は清瀬の元セフレだ。
「だ、誰と行くのさ」
みっともない声が出た。
「ええ? 誰って、看護師? コンパ好きの先輩がいてさ、しょっちゅう誘ってくれるんだよ。よっぽど変なこと言わなきゃ大体お持ち帰りできるぜ」
田淵は屈託なく歯を剥いた。大丈夫かもしれない……秋乃は踏み込んで聞いてみた。
「清瀬とは何もないんだね?」
「清瀬? あるわけないじゃん」田淵は即答し、「ああ、お前知らないの?」
「し、知らない……なに?」
他に男がいるのかと思った。
「あいつ、最初の配属先で洗礼受けたんだよ。ゲイだって公言してるのキモいっつって、仮眠室の空調消されたりさ。まあ保守的な人間が集まってるからな。そんですっかり弱気になっちまってさ。休みが同じなのに一度も会ってくれなくて」
「え?」
胸がざわついた。
「休みが同じって? だって清瀬は俺と……」
「ああ、これ口止めされてるんだった。悪い、あいつには黙っといて」
「どういこと? 田淵は清瀬と同じシフトだったの?」
「そう。あいつが嫌がるから一度も会えなかったけどな」
背筋に悪寒が走った。お互いに休みだと思っていた。でも清瀬は非番だった。最初の配属先は交番だ。八時に出勤し、翌朝八時までの二十四時間勤務。清瀬はそれから自分と会っていたのか。
どうしてそんな嘘を……休みが合わなければ、会えないと思ったのだろうか。たしかに彼が非番と知れば、無理して会おうとはしなかった。自分が非番の日なら、無理して会おうと考えたかもしれない。でも清瀬は嘘をつき、秋乃にその選択肢を与えなかった。自分ばかりが無理をして、疲れを溜め込んで自爆した。
「田淵っ、行くぞっ!」
急かす声が聞こえ、田淵は「じゃあ」と去って行く。
秋乃はその場に立ち尽くした。嘘つきな男にも、気づいてやれなかった自分にも腹が立った。自分はちゃんと愛されていた。なのにあくびを噛み殺す姿がその証拠だなんて夢にも思わず、傷ついていた。
頭がくわんくわんと鳴って、形容し難い感情が涙となって溢れた。部活動の掛け声やボールを打つ音が、意識の外で、賑やかに響いていた。
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