ビッチな彼

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ビッチな彼

 自室にあるのはクローゼットとベッドと勉強机のみ。クローゼットは両開きで、片面の扉には鏡がついている。かれこれ五分。秋乃翔平は鏡の前で薄紺のネクタイと格闘していた。  バタバタと忙しない足音が寮内を駆けていく。その忙しなさが秋乃の不安を煽った。急がないと、やばい。入校前に何度も練習したダブルノット結びは全然キマらない。右隣の部屋からクローゼットを乱暴に閉める音が聞こえて更に焦る。だが上手くいかない。一度作った三角を解いて結び直す。指先が微かに震え、背中に汗が浮かんだ。  左隣、突き当たりの武蔵島心の部屋からもクローゼットに鍵を掛ける音が聞こえてきた。自分だけが取り残される恐怖に、秋乃はたまらず廊下に出た。  ワッと廊下に出た秋乃は武蔵島と向き合う形になる。警察学校に入学して二週間。制服に着られている感じがどうしても抜けない秋乃とは反対に、武蔵島のそれは現場にいる警察官とは確かに違うのだけど、着られている感じは全くない。  剣道有段者とあって姿勢がよく、背も高い武蔵島は、スポーツ刈りの似たり寄ったりの学生の中でも一際目を引いた。スポーツ刈りは坊主よりいくらか長い程度で、高校までオシャレ坊っちゃん刈りを貫いていた秋乃にとっては坊主も同然。初日には「長すぎる!」と教官に怒鳴られ、何度も微調整して今のスポーツ刈りにたどり着いた。当然、そんな風に完成されたスポーツ刈りは秋乃の顔面偏差値を大幅に下げるに至ったが、それでも一週間目には恋愛体質の同期に告白された。  男はスポーツ刈りだが、女は耳上までのベリーショート。どんなに女らしく振る舞っても、ビジュアルが「恋愛には興味ナシ」を演出している。秋乃は自分が告白されたことよりも、警察を目指すような女に恋愛脳があることに驚いた。 「まだ結べないのか」  武蔵島は秋乃を見るなり、なんの躊躇もなく秋乃の手からスルリとネクタイを取り上げた。それだけでタイムリミットなんか忘れて秋乃は安堵し、武蔵島に全てを任せようと顎先を上げた。  武蔵島はスポーツ刈りがよく似合う。警察学校に入学するために刈ったと言うより、ずっとその髪型でいるような馴染み方。形の良い太い眉、厚い唇、滅多に動作しない瞳は精神力の高さを思わせる。なんていうか、今時いない感じ。武士道とか日本男児とか、武蔵島を見ていると敬遠していた言葉が自然と湧いてくる。憧れる。 「人にすんのって難しくない?」 「別に。慣れてるから」  武蔵島の低い声が身体に染み込んだ。珍しく武蔵島が目線より低い位置にいる。器用に指先を動かして、言葉の通り、素早くダブルノットを作り上げた。 「すげえ、ありがと」  なるべく自然に、平静を装う。 「急ぐぞ」  心臓が騒がしいのはタイムリミットのせいだと言い訳しながら、秋乃は武蔵島の背中を追った。追いながら、襟元のこぢんまりとした三角形を何度も撫でた。
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