ビッチな彼

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 通常点検は校舎前のアスファルトで行われる。各クラス三列で校舎を向いて整列し、号令台に乗った教官の指示で行進や装備品の点検動作を行うのだ。  寮を飛び出して校舎前に向かうと、既に整然とした隊列ができていて、武蔵島と秋乃の二人に「急げ!」と隊列から叱責が飛んだ。  隊列の中に紛れてすぐ、アルミ製の号令台に教官が登壇した。各クラスを受け持つ教官よりも一つ位の高い警部である。  各隊列の先頭に立つ学生が順に、号令台に立つ教官に向かって人数を告げていく。 「初任科長期過程第98期第2学級、総員29名、異常なし!」  足先を45度号令台に向け、教場当番が叫ぶように言って敬礼する。4月に入校した大卒組と高卒組は合わせて250人。大卒組を短期課程、高卒組を長期課程と呼ぶのは、大卒の訓練期間が6ヶ月に対し、高卒は10ヶ月と長いからである。  申告が終了し、通常点検に移った。  各クラスの教官が列の前を強面で歩いて服装をチェックする。革靴は磨かれているか、ズボンのセンタープレスはついているか、全てのボタンは止められているか、ネクタイは美しい三角形か。姿勢を正し、教官が通るのをビクビクしながら、それでも顔は無表情を意識して、秋乃は教官のチェックをクリアした。 「田淵っ! 口を閉じろぉっ!」  警察官にとって笑顔は禁物。口を開けたアホ面も注意の対象だ。  田淵ヒカルの場合、突き出た前歯のせいでしっかりと口が閉まらない。田淵が叱咤されるのは秋乃にとってはどうでも良いのだが、その理由が「口が閉まらない」という本人の意思ではどうにもならないものだと気の毒になる。 「なんだその顔はっ! 口を閉じろと言ってるだろうっ!」  無理やり口を閉じた田淵は、口呼吸ができずに鼻息が荒くなる。その隣に立つ秋乃は、必死な田淵の姿に笑いを堪えた。  十歩行進、右向け右、少しでも動作が遅れると教官の怒号が飛ぶ。 「田淵ぃっ! また口が開いてんぞっ!」  もう許してやってくれ。笑いを堪えながら秋乃は願った。再び口を閉じた田淵は、慣れない鼻呼吸で騒がしい。堪えきれずに「ふふっ」と小さく肩を揺らすと、教官の怒号が秋乃に飛び火した。 「秋乃、俺のこと笑ったろ」  点検を終え、校舎の四階を目指す中で田淵が言った。 「だって、教官に集中攻撃されてるから」  必死な田淵の呼吸を思い出して自然と笑いが溢れた。田淵は不満げに唇を尖らせて、「しょうがねーだろ」と呟いた。  気分を害しているようだが、田淵は秋乃の隣から離れない。田淵は同班であり隣室の住人だ。この二週間、秋乃が一番距離を縮めた相手が田淵だった。 「つか、今日帰れるとかヤバくね?」  田淵の口からはそればかりが放たれる。一週間前には「あと一週間で帰れるんだぜ? ヤバくね?」で、それがカウントダウン形式になって今日まで続いていた。 「地獄の二週間がやっと終わるな」  入学して最初の二週間は缶詰状態。今後は一週間に一度、金曜日に帰宅を許される。 「この日が来るなんて夢みたいだ。一生来ないと思ってた」 「ははっ」  そりゃ来るだろ。とは応えなかった。秋乃自身、外出が許される今日が来ることを心待ちにしながらも、そんな夢の日は一生訪れないような絶望感を抱えながらこの二週間を過ごした。人生で最も濃密な二週間がやっと終わる。75分一コマの授業を6回終えて、15分の掃除さえすれば、一生訪れないと思っていた夢の時は向こうからやってくる筈だった。
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