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わたしはパシャの腕に抱えられ、一瞬のうちに馬の背に座っていた。
目の前に見える貴人の蒼い上着は、艶々と滑らかに光っていて、その美しさに、思わず息を飲む。
そんな上等の練り絹を、間近で見たのは初めてだった。
村では皆、普段は麻か毛の荒い織物を身にまとっていたから。
異国の身分の高い男性……というだけではなくて。
男のひとの傍に、こんなにも近づいたのも初めてのことで、わたしの首筋は熱を帯び、鼓動が早まった。
パシャから、ふわりと涼しい匂いがする。
それはジャスミンとバラのコロンヤの香りだったが、それももちろん、その時のわたしが知る由もないことだった。
なにがなんだか解らないうちに、馬が歩き始めた。
わたしは、どこかにしがみつきたいような気持ちをグッとこらえて、両手を握る。
ふと気づくと、後ろから栗毛の馬がついてきていた。
その馬上にある小柄な男が、しきりとパシャに向かって話しかけている。
言葉は、まるで理解できなかったけれど、その必死さは、わたしにもひしひしと伝わってきた。
なのにパシャは、片手でわたしの身体を支え、もう片方の手で手綱を取りながら、背後から投げかけられる言葉には、まったく知らん顔のままだった。
栗毛の馬を駆る男は、パシャの背に向かって語り続けながらも、大きな黒い瞳で、わたしのことをギラギラと睨みつける。
それがひどくいたたまれなくて、わたしはパシャの大きな背の陰に隠れるようにしてうなだれた。
すると、蒼い衣の貴人がちいさく笑う。
そして、「気にするな、あれはわたしの家人だ。『市にも出る前から直に、道端で奴隷を買うなど、身分にふさわしからぬ振舞いだ』と小言を垂れているだけのこと」と、わたしにも解る言葉で言った。
言葉は解ったけれども、パシャの言ったことの意味が、わたしには良く解らない。
……身分の高いひとは、自分で買い物をしないものなの?
うつむいたまま、わたしは、ひとつ瞬いた。
すると、パシャはわたしに、
「おやおや、あやつは『せめて、賤女は馬から降ろして歩かせろ』とも言っているな。どうだ、お前は歩きたいか?」と尋ねる。
なにをどう答えたらいいのか、すっかりと困り果てたわたしは、ついに勇気を振り絞って顔を上げた。
顎を深く引いて視線を落し、わたしを見つめていたパシャと、目と目が合う。
そのひとは、わたしがいままでに見たことのない顔立ちをしていた。
うっすらと日に焼けた肌の色。
艶やかな黒髪、凛々しい眉。
髭のない顎はすっきりと整い、纏っている長上着の色と同じくらい蒼く涼やかな色の瞳をしていた。
口はすこしだけ大きめかもしれない。
でも、くちびるは、とても綺麗な色……。
そして。
実は彼もまた、かの帝国においては、元々異邦人であったことを、わたしは、ずっと後になって知る――
どうだ、歩きたいか? と、パシャは重ねてわたしに訊いた。
気づけば、わたしはちいさく、だけどはっきりと首を横に振っていた。
長旅で、身体はすっかりクタクタ。
その上、履いていた靴は旅のさなか、いつの間にかどこかにいってしまって、わたしは裸足だった。
このひとが、どれほど遠くへと行くつもりなのかは解らない。
けれど、速足する馬の後を追って裸足で走るなんて、ほんのわずかな距離であっても、今のわたしには、とてもできそうになかった。
遅かれ早かれ、足をもつれさせて転び、道の上を馬に引きずられていくことになるに違いないのだ。
もちろん、馬から降りられれば、隙をみて逃げ出すこともできるかもしれない。
けれど……。
逃げ出したからといって、どこへ行ったらいいの?
住んでいた村が、どの方向にあるのかさえ、もうまるで解らないのに。
――自分は、この貴人に買われたのだ。
「売られた」と思うのは、とても悲しい。
まるで、牛や鶏や麦わらになってしまったみたいで。
でも、今、わたしにできるのは、ただひとつ。
このひとに連れられて、どこかへ行くことだけだ……。
突然に色々なことが起き、混乱しきってしまった頭でも、それはすぐに解ることだった。
わたしを抱くパシャの腕の力が、さらにきつくなった。
どうやらこのひとは、家人の小言を無視したまま、わたしを馬に乗せて行くつもりのようだ。
一体、これからなにが起きようとしているのか、まるで訳が解らないことに変わりはなくとも、わたしの気持ちの方は、段々に落ち着きを取り戻しつつあった。
馬上から周りの景色をみる余裕も、すこしはうまれるくらいに。
港に並ぶ船に、荷が積み込まれていく。
とても大きな船だと思った。わたしが見たことがあるのは、湖や川を渡る小船だけだった。
……あれらはどこにいくのかしら。
そんな風に、船の行く先に思いをはせていると、蒼の長上着の貴人が、またわたしに問いかける。
「故郷に夫はいたのか?」
最初は、何かを聴き間違えたのかと思った。
でもすぐに、わたしは大きくかぶりを振る。
その様子が可笑しかったのだろう、パシャは低く、でも、とても快活な声で笑い始めた。
それとともに、彼の身体に触れている腕を通して、その逞しい胸とお腹の筋肉が動く様子が直に伝わってきたから、わたしはまたしても、耳朶を熱くしてうつむいてしまった。
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