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パシャは海の方へと向って行く。
そして、馬はそのまま、留めてある船の上へと乗り込んでいった。
さっき見た荷を運ぶ船のようには大きくはない。帆のない船だった。
パシャが馬から降りた。
そして、わたしの腰を抱き甲板の上へと降ろす。
船に乗るのだとは思っていなかったから、本当にびっくりした。
きょとんと立ち尽くすわたしをおいて、パシャは天蓋の方へと行ってしまった。
その綺麗な蒼と銀の上着の背を見つめながら、知らず、わたしの足は彼の方へと向かって動き出す。
すると、誰かに袖を掴まれた。
さっきの栗毛の馬に乗っていた男だった。
「ここを動くな」ということなのだろう。
そう思って、わたしはその場に座り込んだ。
わたしを引き留めた男は、急ぎ足でパシャへと近づくと、ごく大げさな身振りで、貴人の蒼い上着の襟元や袖から、砂埃を払い落し始める。
パシャは、家人のしたいようにさせながらも、自分自身は、色とりどりの模様がついた布を敷き詰めた背もたれのない長椅子の上へ、ゆったりと腰かけた。
黒に金の刺繍の幅広の帯を締めた少年が、パシャの手元へ器を差し出す。
遠目にも解る玻璃細工のきらびやかさに、わたしの目は、その器に釘付けになってしまった。
するとすぐさま、あの「小言」を言っていた小柄な家人に、ギョロリと大きな目で睨まれてしまう。わたしは、急いで視線をそらした。
いつの間にか船が動き出していた。
頬に風を感じる。
髪がふわりと、宙になびいていた。
滑るように進む船の上から目をやると、水面は虹色にきらめいていた。
その輝きに惹き寄せられるようにして、わたしは甲板の端から身を乗り出し、水へと手を差し伸べる。
突然に、髪を引き掴まれた。
ガクンとつかえるような衝撃があって、後ろへと引き倒される。
振り返ると、わたしの長い金の巻毛を掴んでいたのは、あのギョロ目のけらいだった。
黒々と大きな目でわたしをねめつけながら、男は何かをまくし立てる。
なにを怒っているのだろう? わたしはひどく不安になる。
戸惑って怯え、ただ瞬くばかりのわたしを見て、彼も、自分の言っていることがまるで伝わっていないと感じたのだろう。
男は、今度は、身振り手振りを交えて話し始めた。
その様子から、わたしにもやっと、黒い大きな目をした男が何を言おうとしているのかが解り始める。
「水面へと身を乗り出したら危ない」
きっとそう言いたいのだろうと……。
怒っていたのではなくて、心配してくれいたのだ。
そう解ると、わたしも少し安心できた。
「ありがとう、気をつけます」と言ってちいさく笑って見せると、ギョロ目のけらいは、いわくいいがたい表情をして頷き、踵を返して去っていった。
指先で髪に触れてみる。
乱暴に引き掴まれたせいで、あちこちが絡まっていた。
自分の髪は、とても好きだった。
「とても綺麗だ」と父さまも母さまも、いつも誉めてくれた。
だから時間をかけて、長く長く伸ばしたのだ。
腰に触れそうな長さの巻毛は、濡れると腿にまで届くほどになった。
わたしは、いつも服の内側に櫛を忍ばせていた。
おかげで、突然にさらわれてしまった後も、身支度のときに、髪だけはくしけずっておくことができた。
胸元から櫛を取り出して、わたしは、ゆっくりと髪を梳き始める。
梳かすたびに絡まりが解けて、ハラリハラリと、海風の中へ金の髪が漂う。
そうやって髪を梳くときにいつも、ふとわたしの口をついて出るのは、とても古い唄だった。
昔、草原に東の民がやってきた時に伝わったものだと。
村の古老が、そう教えてくれた唄。
唄いながら髪をとかすわたしの眼前には、いつの間にか、ある光景が近づいてきた。
両側の陸地が水平線のほうに迫って、海が狭まってくる。
船の周囲を取り巻くのは、たくさんの建物。
そう……。
あまりにたくさんありすぎて、最初は、それが「建物」だとは気づくことができなかったほどに。
そして、いくつもの細い塔。
丸い大きな屋根を持つ建物が、あちらこちらに見えた。それらは周囲の建物より、ずっとずっと大きく、それぞれ、さまざまな色に輝いていた。
と、わたしの肩に、あたたかく大きな掌が置かれる。
知らぬ間に、パシャが隣に立っていた。
低く震える深い声が言う。
「よく見るがよい。ここが、我が国の中心、帝都だ」
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