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ウィルとミシェルの不在から三日目の朝。早々に目を覚ました楓人が身支度を整えていると、出勤前のアレシアが食事と新たな本を持ってくる。彼女と他愛もない会話をしてから静寂が戻り三十分。また階段を下る音が響く。性懲りもなく顔を出すのはアーサーくらいしかいない。
訪問を楽しみにしていると思われるのは癪なので、扉には注目せずに背を向けて寝た振りをすることにした。向こうから話しかけてくれるまでは絶対に口を開かないと心に決める。
「……楓人!」
名前を呼ばれて背中がびくんと跳ね上がる。からかうために放たれる重低音ではない。
「寝ているのか? 楓人。顔を見せてくれ」
そう切なそうに語りかけながら、施錠をカチャリと外す金属音がした。おそるおそる姿を確認すると、そこには待ち焦がれていた人物が立っていた。銀髪猫耳に見慣れた狩衣の男──ウィルだ。
「いけません! 王が自ら牢屋に入るなど──」
「言うな、ミシェル。我は楓人を、冷たく寒いこの場所から連れ出したいだけなのだ」
二人の会話が耳に届き、楓人は今度こそ上半身を起こした。身を屈めて牢屋の鉄格子を潜ったウィルの姿が目に飛び込む。たった数日離れていただけなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろうか。
「ウィル!!」
「楓人……すまなかった。我が不在になったせいで、このような仕打ちを……」
「ううん、ウィルは悪くないよ」
ベッドに膝をついたので抱擁を交わしていると、牢屋の外にいるもう一人の美形がゴホンと咳払いをした。存在を忘れていたわけではないが、恥ずかしくなったのでそっと離れようとするも、ウィルがそれを許さない。
「そうですよ、ウィルフリッド様に落ち度はございません」
ウィルの胸元からひょいと背後を窺うと、案の定、仁王立ちしていた金髪美形の額には青筋が浮いていた。怒り心頭とした様子が緊迫した空気から伝わってくる。
「出掛ける前に釘を刺しましたよね? どうして不在した早々に騒ぎに首を突っ込むんですか、まったく」
「ご、ごめんなさいっ」
「あなたが幽閉されたと、アーサー様の伝書鳩から一報が届いた際は頭を抱えましたよ」
「すみません……」
「ウィルフリッド様はすぐに帰るとおっしゃって面倒でしたし、現場は揉みくちゃで大変疲れました。とりあえずこれ、お土産です」
言いたいことをすべて吐き出すと、ミシェルは手に持っていた紙袋を掲げて見せた。中身が気になるので鉄格子の扉から出ると、ミシェルの手から受け取る。中には、温かくて茶色の物体がいくつも収められていた。
「え、これって大判焼き? なんであるの!?」
「帰る前に焼き立てをもらったんですよ、お土産にどうぞって」
応接間でお茶にしませんかと誘われ、楓人は大きく頷いた。選手交替とばかりにその場から去ろうとしたアーサーを引き留め、四人で茶を啜りながら束の間の休息を味わう。
割れた鏡の件は、楓人が犯人という証拠はどこからも見つからず、冤罪だったとウィル自らが御触書を出した。当然といえば当然なのだが、犯行を働いた者が誰だったのかは結局のところ判明せず、釈然としない「経年劣化」という結果に終わった。
棟の一階には、宝物庫で埃を被っていた別の鏡が固定されることになった。
***
「それでは楓人さんは、あちら側をお願いしますね」
水がたっぷり入ったジョウロを受け取ると、ずっしり重くてよろけそうになる。四日振りの屋外はとても気持ちがよく、迷惑をかけてしまったお詫びに手伝いを買って出ていた。
午前中は、ミシェルの小言を耳にしながら、不在時にアーサーが散らかした応接間の清掃に勤しみ、午後からはアレシアと共に古城周辺の花壇に水やりをする。薔薇の庭園はアレシアに任せ、それ以外は楓人が撒いて歩く。
藤紫色のアガパンサスや、山吹色のカザニア、桃花色のグラジオラスが咲いており、目にも色鮮やかだ。指示された通りに複数の花壇に水をたっぷりやる。ジョウロの水が足りなくなったので、また汲みに行こうとすると。
「キャアアアアア!!」
薔薇の庭園から金切り声のような悲鳴が上がった。十中八九、アレシアに違いない。滅多に取り乱すことのないシルフィードの彼女が、叫ぶのはよっぽどのことだ。ジョウロを掴んだまま走った。足が縺れて転びそうになっても構わない。
「どうしたんですか!?」
怯えているアレシアの前に割り込むと、身を守るように背中に隠した。そんな彼女の視線の先には──。
「……そ……そんな……ッ」
薔薇の庭園の奥から何者かが姿を現せる。その姿を視界に入れた途端、楓人は自分の両目を疑った。いるはずのない人物がそこにはいるのだ。
視線がかち合うと同時に、向こうから薄汚れた男が走ってくる。背後にいたはずのアレシアは既にいないため、危害を加えるならば楓人しかいない。そこだけは不幸中の幸いだが、逃げたいところをぐっと堪えて踏ん張ると、かつての恋人──高城誠一郎と対峙した。
「どうして、こんなところにいるのッ!」
そう叫ぶと一歩、また一歩と距離を縮められる。楓人は一歩ずつ後退りする。
「出て行った日から一ヶ月以上、ずっと探してたんだぞ!?」
「そ、それがなに? 今更なんの用があるって言うの」
「――――俺と一緒に帰ろう、楓人」
「ハァ? 嫌に決まってるでしょ!」
腕を掴まれ引き寄せられる。手を払いたいのに力を込められ、なかなか解けなかった。
まさか人間界からわざわざ探しに来るとは。そこまでの熱量があるのなら、邪険には扱わなかったはずだ。いなくなってから説得されても、はいそうですかと納得できるはずがない。
「いいから俺と帰るんだ!」
「やだッ!」
何度目かはわからない押し問答を繰り返していると、背後からすっと腕が伸びた。楓人の手首を掴む誠一郎の腕を捻り上げ、誠一郎は苦痛に顔を歪める。
「楓人から手を離せ」
「……クッ!」
アレシアがウィルを呼んで戻り、一対一ではなくなった。ウィルのお陰で解放されたので、ありがとうと傍に近寄る。
「我の伴侶にいきなり乱暴するのはよせ。人間よ」
「……伴侶……だと?」
「ああそうだ。楓人は我のものになったのだ」
まだ保留にしていたはずのことを誠一郎に漏らされてしまった。楓人は反応に困ってしまう。かつての恋人に知られたくないわけではない。自分を裏切り、他の人間を選んだのだから、後ろめたさを感じることもない。けれど胸中は複雑だった。
「……………………」
急に黙り込む誠一郎が怖くなり、顔を覗こうとするとウィルに止められた。不必要な接触は許可しないと注意を受ける。
「誠一郎とやら。本来ならば不法侵入者は即刻退去処分にしている。だが、そなたは楓人の知り合いだ。三日間の滞在を特別に許可しよう」
「…………ありがとうとうございます」
「で、そなたを敷地内に招いたのはどこの誰だ?」
「よ、よくわかりません。俺は気付いた時には既に、この庭園にいたんです」
「……ふむ、そうか。では、客室は係りのものが案内をするから、設備や見学などはそれから聞いてくれ」
ウィルがそう告げてから指を鳴らすと、どこからともなくエルフの少女が飛んで来る。紅色の生地に、桜が描かれた和風柄のワンピースを身に纏っている。その妖精にウィルが耳打ちすると、大きく頷いた彼女は誠一郎に優しく語りかけた。
「初めまして。私が城内をご案内しますので、ついてきてください」
とりあえず誠一郎のことは彼女に任せ、楓人はウィルに連れられ城内に戻った。水やりが途中で終わってしまったことが悔やまれる。ジョウロに水を汲んで再開しようとすると、ウィルが引き留めて阻止するので仕方ない。
同じ城内にいるはずの誠一郎は、今のところ、表立って接触するつもりはなさそうだ。そう簡単に諦めるはずがないので、明日からも滞在期間中は用心することにした。
「二人揃って神妙な顔つきだな。なにかあったのか? ウィル」
茜色の艶のある長い髪を、珍しく頭上で括っている男が二階から降りてくる。格好はいつもの本紫の羽織りと、男性用チャイナ服だが、今日は漆黒のチャイナ服だ。同じ衣服を複数所持するウィルとは違い、どうやら定期的に色を変えてお洒落を楽しむタイプのようだ。
「アーサー。そなたが異国の住人をここに招いたのか?」
「排他主義で慈悲がないこの俺が、自分にとって利点がないことを率先してするように思えるか?」
「ああ、そうだな」
「だろ。なにがあったのかは知らねェけど、周囲にはくれぐれも気をつけることだな」
「……わかっている」
そんなやり取りを間近で聞いてしまうと、不安を掻き立てられるだけだ。隣で眉根を寄せていると突っ込まれる。
「ほらほら隣にいるお姫様が心細そうにしているぞ。マーキングでもしてやったらどうだ」
「そうする」
「ちょ、ちょっとウィル!」
有言実行とばかりに寝室に連れ込まれないとも限らないので抗議すると、アーサーは愉快そうに嗤いながら立ち去った。微妙な空気のまま二人きりにされ、ウィルから執拗にアプローチされてミシェルから絞られたのでこっそり恨んだ。
時計の針が深夜の二時を回ったところ。物音で目を覚ましてしまった楓人は、隣で寝息を立てている猫姿のウィルの頭をそっと撫でた。ふわふわでさわり心地のよい毛並みは、何時間でも触っていられる。猫アレルギーではないことを神に感謝したくらいだ。
コンコンコン。
気のせいかと思われたが、扉をノックする音がまたしたので、キングサイズのベッドからゆっくり降りると素足で扉前まで近付いた。
「……どちらさまですか?」
ウィルを起こさないように細心の注意を払いながら尋ねると、すぐさま返事がくる。
「楓人……大事な話があるから出て来てくれ」
「…………誠一郎?」
「ああ、俺だ」
また昼間のように腕を掴まれることはないだろうか。躊躇しそうになるも、三階にはウィル以外にミシェルやアーサーの寝室もある。楓人が異変を察知して叫べば、きっと助けてくれるだろう。
「……誠一郎。みんな寝ているから、騒いだり、乱暴したりしないって約束してくれるならいいよ……」
「もちろんだ……さあ、早く! 三階にいることがばれたら処罰される」
これ以上、騒がれても困るので施錠を外して話を聞いてみることにした。
廊下に出ると誠一郎は、用意してもらったらしき浴衣を着用している。西洋の館内では浮いているが、楓人もシャツにハーフパンツ姿なので人のことは言えない。階段の踊り場まで移動すると、誠一郎は手にしていたスマートフォンの液晶を点灯させた。
「これを見てくれ」
「……ん?」
画面を覗くとそこには、信じがたいものが写し出されていた。喫茶店かどこかで、誠一郎と二人で紅茶を飲んでいる写真。そこに写し出されている人物を目にして絶句した。
「なに……これ」
「驚くだろ?」
「ご、合成でしょ?」
「違う。俺ですら間違えて番にしたくらいだ」
楓人そっくりな人間と、誠一郎が仲睦まじげにしている写真を複数枚見せられる。よくよく目を凝らして見れば、写真のそっくりな男は右目の下に泣き黒子がある。楓人にはない。
そこでとある出来事が脳裏をよぎった。誠一郎との別れを決めた日のことだ。誠一郎の住むマンション前で見知らぬ男性に放たれた言葉。
『──ああッ! また勝手に抜け出したんですか!? あと数日で発情期が来るから、部屋からは出ないでって誠一郎様から言われているでしょう?』
当然ながら言われたことはない。
『それになんだかいつもより地味だし、珍しく首輪もしてるんですね』
首輪は常にしているし、誰かの前で外したことは一度もない。
『誠一郎様と番になってから二ヶ月以上経つのに、久しぶりに見ましたよ』
番になるような行為すらまだしていない。一方的に投げ掛けられた言葉の意味を、今更ながら理解した。
「双子なんだろ? どうして黙ってたんだ」
「…………知らない。僕は知らない!」
「向こうは知っていた口振りだったぞ、お前のこと」
「……え?」
そう質問されても記憶がないものは記憶がない。名前すらわからない、自分と瓜二つのドッペルゲンガーのようなものを見せられても、楓人はなにも思い出せない。
「名前は椛だ。間矢部椛」
「ううっ……!」
名前を耳にした途端、頭がズキンズキンと痛んだ。写真を目にしても痛まなかったが、名前に反応するということは、やはり血縁者であることは間違いないと楓人自身が訴えているような気さえしてくる。
「俺は楓人と椛が双子じゃないかと睨んでる」
「わ、からな……わからないッ」
「なあ、会いたくないか? 兄弟に。俺のマンションにいるから、一緒に人間界まで帰ろう」
幻獣王の嫁候補として古城に留まることを許可されたのに、そんな自分が人間界に戻っても許されるのだろうか。
「…………帰るもなにも、どうやって人間界に戻るのか、僕は知らないよ?」
戻る気はなかったので疑問にすら思わなかった。ウィルやミシェル、アーサーと会話していても、そんな話題は一度もしたことがない。永住するかどうかまでは考えていなかったにしろ、自分の居場所をくれたウィルを失望させるようなことはしたくない。
「それは明日調べようぜ。とにかく、向こうに帰ることを考えてくれよ」
「……わかった」
五分ほど不在にして急いで戻ると、ウィルは数分前と変わらず寝息を立てているのでホッとする。どうすればいいのか。動揺を落ち着けるためにウィルの頭を撫でているうちに、いつの間にか楓人も眠りに落ちていた。
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