前編 Get-well bouquet give to you

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『花言葉』  会社から電車に揺られ、約二十分。そこから、駅を出て徒歩三分という立地に、その花屋はある。一見こじんまりとした店はしかし、隅々まで綺麗に整えられていて、ガラス越しから覗く店内からは、艶々とした華やかな花々が窺えた。  そんな店の前まで近付いた所で、俺は、己の掌に大量の汗が滲んでいることに気付き、乱雑に裾で拭い取った。まったく、もうすぐ師走に差し掛かる頃だというのに、情けない。  それから二、三度深呼吸をして、気を取り直した後。よし、と店の自動ドアを潜った。  店内に一歩足を踏み入れると、すぐに、店の奥から甘く低く響く声が掛かった。 「いらっしゃ――、ああ、また来てくれたんですね。いらっしゃい、紫葉さん」  花の世話をしていたらしいその声の主は、俺の姿を見つけるや途端嬉しそうに顔を綻ばせ、ゆうるりと蜜色の瞳を細める。その声に、微笑みに、折角落ち着けた俺の心臓は忙しなく脈打ち始め、咄嗟に胸を押さえる。 「ぅっ、……あ、ああ。……いつものを、頼めるか?」 「? はい、お見舞い用のお花ですね。ちょっとだけ待っててください」  俺の様子に、彼は初めこそ不思議そうに首を傾げていたけれど。続けた俺の言葉に、気を取り直した様子でまた、にこりと笑みを浮かべ、店の奥へと引っ込んだ。  その後ろ姿を眺めながら俺は、彼との距離が離れた事で訪れた安堵と、顔が見えなくなったことによって生じる悄然とした思いに、一人頭を悩ませたのだった。  蜜色の眼をしたその男は、名を一ノ瀬葵(いちのせあおい)といって、この花屋を一人で経営している青年だ。イタリア人である祖父譲りの体格のせいか、非常に上背があり大人びているものの、齢はどうやら俺と同じらしい。とはいえ、本当にそうなのかと疑いたくなるほど一ノ瀬の醸し出す空気は落ち着いていて心地良かった。    本人にその事を伝えたら、『来年にはもう三十路になるんですから、これが普通だと思いますよ』なんて言われてしまったが、どう考えても世の三十路男性と比べ、一ノ瀬の物腰は柔らかい。同じ齢ではあるものの俺には真似できんと告げれば、紫葉さんには紫葉さんにしかない格好良さがありますよ、と微笑まれてしまった。この気配りの良さだぞ、真似できるか。  同い年なら敬語はいらないと言ったのに、貴方は客だからとそれは曲げず、芯もしっかりしている。公私混同はしない性質なのだろう、他の客に対しても対応は変わらず、だからこそ好感を持った。  そして最後は、仕事の手際の良さだ。初めて此処を訪れた時の、丁寧且つ手早い仕事ぶりは、見ていて爽快さを与えてくれた。最後に向けられた満面の笑みを見た頃にはもう、俺はこの一ノ瀬葵という男に心底陥落させられており、こうして足繁く店に通っている始末である。  まったく、何が鬼の人事部長であろうか。 「紫葉さん?」  不意に、名前を呼ばれハッとする。顔を上げれば、なぜか一ノ瀬が、奥からまた不思議そうに顔を覗かせていて、どうかしたのかと口を開く。 「な、なんだ?」 「あ、いえ、用意するのに少し時間が掛かるから、前みたいに奥の方で待っていてくれていいですよ?」  そう言って一ノ瀬は、きょとりと目を瞬かせた。  そこで俺は、ようやく自分が入口に突っ立ったままだった事を思い出す。 「あ……ごほん。そうだな、わかった」  気恥ずかしさから一つ咳払いをし、了承の旨を伝え店の奥へと足を伸ばす。すると、俺の様子を見て一ノ瀬は柔く微笑んだ後、『すぐ作りますね』と言って作業へと戻った。  レジ横に置いてある簡素な丸椅子に腰掛け、改めて店内を見渡す。  ここはさほど大きい店ではないものの、活けられている花は勿論の事、床や窓硝子、カウンターに至るまで、一目見ただけで隅々にまで手が行き届いていることがわかる、良い店だ。話を聞くところ、店の裏では実際に数種類花を育てているらしい。  本当に、この店のことも、花のことも、大好きなのだろう。彼の言動の端々からは、花に対する愛情が感じられる。  あまり花屋に馴染みのない俺でも分かるのだ、元来の花好きにはより一層伝わっているのだろう。この一週間、馴染み客だろう客を頻繁に見かけるから、比較的繁盛もしているようだ。  一ノ瀬は、花の選別に専念している。そんな彼を横目に、少し手持ち無沙汰になって、傍にあった黄色や薄桃色の小さな花に触れた。  五弁に分かれた花弁の内二枚は濃い斑が入っているソレは、公園や町中やらでも見かけるそこそこ見慣れたものだ。ちらり、と白の立て看板に目をやると、丁寧な文字で『ゼラニウム』と書かれてあった。ふむ、そんな名前だったのか。 「尊敬・信頼・真の友情」  その時、突然そう声を掛けられ、思わずびくりと肩が揺れた。  咄嗟に顔を上げると、気付けば俺のすぐ傍に数本花を抱えた一ノ瀬がいた。花束の目処が立ったのだろう。俺の視線に、一ノ瀬はにこりと笑って、急にすみませんと言葉を続けた。 「花言葉です。その花の」  両手が塞がっている為、目線で俺の手元を指した一ノ瀬の言葉に、ああそうか、と得心する。 「そういえば、花にはそれぞれ意味があると言っていたな。そういう事か」  俺の言葉を聞き、『覚えていてくれたんだ』と一ノ瀬は嬉しそうに笑った。それは何処かあどけない、ふとした時に見る営業用とは違った自然な笑みで、思わずどきりと心臓が一際高く脈を打った。  そんな俺の様子には気付いていないのだろう、一ノ瀬はそれから、ちなみに、と話を続けた。 「花言葉って、実は色によっても意味が変わるんです。そこにある桃色だと、『決心』や『決意』の意味。黄色だと『予期せぬ出会い』ですね」  一ノ瀬の笑顔の破壊力に逸る心臓を落ち着けるべく、内心瞑想をしている最中。そう語られた一ノ瀬の言葉に、俺は少し驚いてそうなのか、と零す。  花に意味がある事にも驚いたが、まさか色によっても変化するとは……。少し興味深く思い、つい先程まで触れていた花へと視線を落とす。  薄桃色と黄色の可愛らしい花々を眺めていると、不意に一人の男の顔が頭を過った。それは、その可憐な黄色い花が、誰かの瞳を思わせたから。  ――――……予期せぬ出会い、か。  ああそうだ、確かにこの出会いは、俺にとって予期せぬものだった。  そんな事を、ふと考えてしまったせいだろう。気付いた時には、俺は無意識に目の前の黄色い花を一本手に取っていた。  すると、頭上で不思議そうに自分の名を呼ぶ声がして、それに反応するように顔を上げる。そのまま、一ノ瀬がもう一度俺の名を呼ぼうとする気配を察し、遮るように口を開いた。 「一ノ瀬、これも一本貰えるか」 「へ? あっ、は、はい」  予想外の言葉だったからか、一ノ瀬は一拍間の抜けた顔で声を漏らしたが、すぐに気を取り直し返事をした。  それから、手に抱えたままの花々を落とさぬ様注意しつつ、慎重に俺の手から花を抜き取った一ノ瀬は、そのままカウンターへと回り込む。 「丁度お見舞い用の花も選び終わったから、すぐ纏めますね。あ、このゼラニウムは自宅用で整えて大丈夫ですか?」 「ああ、頼む」  簡潔にそう答えると、一ノ瀬は手際よく花を包んでいった。俺が手に取った花は一本と少ないものではあったが、それでも見栄えが悪くなるなんてこともなく、一ノ瀬の手によって丁寧に包まれ、俺へと手渡された。  一ノ瀬から今日の会計金額を告げられ、促されるままに財布を取り出し、支払いを済ませる。その後、花束を受け取ろうとすると、一ノ瀬がカウンターから出てきて、『出口までお持ちしますね』と言ってにこりと笑った。  一ノ瀬は毎度、購入後はこうやって入口まで出迎えてくれる。それが何だかむず痒いような心地になるのだが、サービス精神が旺盛なのは良い事だと思い直し、その件については特に何も口を挟まなかった。  ……別に、俺自身が一分一秒でも長くこの男といたいから、などという下心なんてものはない。そう、微塵も。  そうして入口まで付き添われた後、何気なく今日用意してもらった花束を見て、ふと、目に留まった花があった。それも、今日俺が手にした花と同じように、よく町中で見かける花だ。 「一ノ瀬、この桃色の花の名は何だったか?」 「え?」  俺の言葉に反応して、一ノ瀬は手元の花束を覗き込んだ。俺の指した花を見た瞬間、一ノ瀬の眼が少し泳いだような気がしたが、それはすぐに消え、次いでああ、と得心した声が耳に届く。 「これはスイートピーです。本来なら春に咲くお花なんだけど、ちょっと最近この花の事を思い出して、入荷したものだからつい」  そう言った後、一ノ瀬は小さな声で『……まぁ、本当は白が欲しかったんですけどね』と零した。その言い方が何やら引っかかって聞き返そうとしたところ、あっ! と大きな声が飛んできて口を閉ざす。 「でも違うんですよ! 確かに入荷した理由は私情だけど、お見舞いの時にもよく贈る花だから!」  だから安心してくださいと、先程の空気を掻き消すよう満面の笑顔で親指を立てられてしまえば、何となく聞き返せず。結局最後には、吃りながらそうかと返すことしかできなかった。 「にしてもなるほど……そうだ、そんな名だったな。名前を聞くと思い出せるんだが、花の名はどうにも覚えられん」  喉まで出かかってはいたが、結局一ノ瀬から聞くまで思い出せなかった花の名を聞き、何だか少し悔しくなって思わず眉間に皺が寄る。すると、隣からくすくすと笑い声が落とされる。 「ふふふ。まぁ、僕みたいに好きでこうしてお世話をしている訳ではないんだし、男の人で、それほど詳しくなろうとしなくてもいいんじゃないでしょうか?」  柔らかい微笑みを浮かべながらそう言った一ノ瀬は、次いででも、と言葉を続けた。  ――――その言葉に、俺は思わず言葉を詰まらせる。 「でも、花言葉と合わせて贈り物なんてしたら、すっごく素敵だとは思いますけどね。女の子ってこういうの、結構好きだし」  一ノ瀬の口から異性を匂わせる言葉が紡がれ、ぎしりと胸が軋む。  そうだ。こんな時には、嫌でも気付かされる。自分も一ノ瀬も同じ男であって、本来であれば恋愛対象になり得るのは女だという事を。それもそうだ。なにせ、俺だって元々同性が好きな訳ではなかった。一ノ瀬にしても、ここ数日話をした限りではあるものの、至って普通の感性の持ち主なのだろうことには気付いている。  こういう時、そもそもスタート地点にすら立ってすらいないのだと理解させられて、年甲斐もなく落ち込んでしまうものだから情けない。  そんな俺の挙動に何を思ったのか、一ノ瀬は『大丈夫ですよ、紫葉さんはそのままで充分すぎるくらい格好良いから、花言葉なんて知っていなくても大丈夫』などと、声を掛けてくれて。その見当違いな励ましに、余計に胸が苦しくなった。  格好良いなんて言われても、想いを寄せている奴に好意を持ってもらえなければ、見目なんて関係ない。  そんな一ノ瀬の言葉は聞いていたくなくて、病院の面会時間を理由に俺は、足早に花屋を後にした。……正直、最後の方は一ノ瀬がどんな顔で話しているのか見たくなかったものだから、途中から殆ど下を向いていたような気がする。  だからその時、俺は一ノ瀬がどんな目で俺を見つめていたのか、気付いていなかった。 「……花だったら、簡単に想いを乗せて渡せられるのになぁ」  俺が去った後、一ノ瀬はそうぽつりと呟いた後、店先に置いてあるスイートピーを一撫でする。  ――――二人で会えるこの些細な一時が、僕にとっては言葉で言い表せないくらい、幸せなんだ。  小さな薄桃色の花に乗せられた想いを俺が知るのは、もっと後になる。
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