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「彼女さんをあなた色に染め直してください」
病院で医師にそう言われた僕は、思わず「はぁ?」と素っ頓狂な声を出してしまった。
午前中に彼女であるりんちゃんが事故に遭ったと連絡が来て、僕が病院に着いたのが数分前。彼女は天涯孤独であったため、病室では僕も一緒に怪我の症状についての話を聞くことになった。
幸い彼女は頭を軽く打った以外ほとんど外傷はなく、今はすやすやと眠っていた。
そこまでは何もおかしいところはなかった。はず。
「染め直して、ってどういうことですか」
「あなたも見てわかるでしょう、彼女の顔の様子」
何も不思議なことはない、という風に彼が言う。僕はりんちゃんの方に目を向けた。
彼女の顔には、文字通り何も浮かんでいなかった。いや、何もというと嘘になる。顔のパーツが薄い薄い絵の具で書いたかのように、ほとんど見えなくなっているのだ。
本当は病室に入ってすぐに気づいていたのだけど、あまりに目の前の光景が信じられなくて、きっと包帯で真っ白に見えるだけだろうとか、自分を誤魔化していた。
「……のっぺらぼうみたいになってますね……」
「まあのっぺらぼうとは違ってちゃんと目とか鼻が存在してはいるんだけどね。
これは事故の衝撃で、自らのアイデンティティが消えかけていることによるものではないかと思うんです」
「えっそんなことってあります?」
「症例は少ないけどね」
「治す方法はあるんですか……?」
あまりにも予想外の事態に、頭がうまく回らない。こんな奇病、果たして治るんだろうか。どんな薬を使えばいいのか、全く想像もできない。
僕が尋ねると、医師はまるでいたずらっ子のようにニヤリと笑った。患者やその親族を気遣う様子はなく、僕は少し苛立つ。
「だからさっき言ったでしょう、彼女をあなた色に染め直してくださいって。
人は他人から愛されながら自己を確立していくものなのです。否定ばかりされていたら、心が壊れてしまう。そして、彼女を一番愛している人間はあなたのはずだ。だから、あなたが彼女を再び愛で染め上げれば、アイデンティティは復活し、顔も元に戻るでしょう」
「そういうものなんですか」
医師の言っていることには抽象的だしあまりにも非科学的だ。
愛ってなんだよ。具体的にどうすればいいんだよ。
「この症状にはそれが一番効くんです。それでは他に異常はないようですから、そろそろ行きますね。頑張ってください」
「待っ」
医師は僕の制止も虚しく、病室から出ていってしまった。
この病院は近所で一番大きいけど医師のレベルは最悪だな、もうここに来るのはよそう。
僕は深くため息をついて、りんちゃんの方を見やる。彼女の目はぼんやりとしかわからないけれど、どうやら閉じているみたいだ。
これから一体どうしていけばいいのだろう。どうしたらりんちゃんは元に戻るのだろう。もくもくと煙のように不安が胸から立ち昇った。
翌日、僕は念の為一日入院していたりんちゃんを迎えに行って、僕らの家に戻った。
「ごめんね、迷惑かけて」
隣を歩くりんちゃんは、怒られた子犬みたいにしゅんとして俯いていた。表情はわからないけれど、ひどく落ち込んでいるようだ。
彼女はこんなに弱々しい子だっただろうか。これも事故のせいなんだろうか。
「ううん、大丈夫だよ。気にしないで」
僕は努めて優しい声で返す。
医師の言う「愛で染める」という言葉の意味は、一晩考えてもわからなかった。だから、ひとまず僕は今まで以上に彼女に優しくすることにした。
りんちゃんは今の状態で仕事にはいけないので、一ヶ月休職することにした。僕は小説家としての仕事は相変わらずほとんど来ないので、いつも通りだ。
ひとまず僕らは、二人の思い出の場所を回ることにした。彼女がアイデンティティを取り戻すのに、今までの記憶をたどるというのも有用な気がしたからだ。
初デートで行った赤レンガ倉庫、初めて泊まりがけで行った京都、去年行った仙台。
アイデンティティを失くしかけても記憶はちゃんとあるようで、りんちゃんは「懐かしいね」としきりに言っていた。
僕はといえば、美味しそうなものや可愛い土産物があったら彼女に買い与え、夜は毎晩のように彼女を抱いた。彼女の荷物は持ってあげて、家事も手伝った。
しかし、それでも彼女の顔はほとんど治らなかったし、俯いたままだった。
事故から四週間が過ぎた。りんちゃんの休職期限もあと少しだ。僕はいつでも休職中のようなものだけど。
しかし、彼女は相変わらず治らなかった。まだ顔のパーツは薄い薄い絵の具で描いたように見えづらいままだ。僕は前と変わらないくらい、いやもっと彼女を愛そうとしているのに。
どうしてだ、何がいけないんだ。
そもそも、僕は事故の前までどう彼女に接していたっけ。
「ねえ、りんちゃん」
居間のソファに腰掛ける彼女に声をかけた。僕はそのまま彼女の隣に腰掛け、小さな手を握る。
その時、細い手首に無数の傷が見えた。
「え、これって……」
おそらく、リストカットの跡だ。情報収集のためにTwitterを見ていた時に、写真で見たことがある。傷口は最近のものではなさそうだ。
りんちゃんは驚いてさっと手を引っ込めた。
「何も、言わないで」
「でも……」
「いいから。何か言うくらいなら無視して」
リスカって、いわゆるメンヘラがやることだろ。どうして、りんちゃんが。
りんちゃんは元々、気が強くてしっかりしててメンヘラとは対極にいるような子だったのに。
事故の前の傷だろうか。彼女にとって、リスカしようと思ってしまうくらい辛いことがあった? 事故は表に出るきっかけだっただけで、アイデンティティを失くしそうだったのはもっとずっと前からだったんじゃないか。
僕は事故に遭う前のりんちゃんとのやりとりを思い出す。
「お前本当使えないな、女のくせに家事もやらないの?」
「そっちの方が仕事もなくて暇なんだから、ちょっとはやってよ」
「は? 愛想も悪いとか、本当いいとこなしだな」
「私を否定、しないでよ。いつもそういうことばっか言って」
「僕はりんちゃんのためを思って言ってるんだよ?」
「…………わかった」
「よかった。僕もちょっと言い過ぎたかな、ごめんね」
自分が正しいと思っていたし、これが僕なりの愛し方だった。間違っている時は教えてあげることが、僕の理想の女の子の姿に導いて自分色に彼女を染め上げてあげることが。
でも、それが間違っていたのだろうか。僕が彼女を傷つけていたのだろうか。
僕は、何も言えなかった。僕が愛だと思っていたものが否定されて、何を愛と呼んでいいのかわからなかったから。
愛ってなんだよ。具体的にどうすればいいんだよ。
医師のニヤリと笑った顔を思い出す。彼はこうなることがわかっていたのだろうか。「どうせお前には正解はわからないだろうけど、せいぜい頑張れ」とか思っていたのかもしれない。
りんちゃん、教えてよ。君はどんな愛が欲しいの? どんな愛なら正しいの?
頭の中がパンクしそうになって、僕はりんちゃんを抱きしめた。そっと触れた彼女は前よりも痩せていて、骨張っている。
彼女を染め上げることは、僕には不可能だ。何色にすればいいかわからないから。
それでも、この腕の中には愛に似た何かがあるような気がした。
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