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桜染め
全国各地で多くの社会主義者が検挙されたのは昭和三年の三月の事だった。
事件すら知らない僕は相変わらず漫然と日々を過ごしていて、"本ばかり読む変わり者"と呼ばれて友達もいなかった。
その日もいつも通り川辺に寝そべって本を読んでいると、帰郷したらしい従兄弟の啓兄がやって来た。
「毎日そうしてるんなら、お前もうちの高校に来いよ。桜が物凄く綺麗だぞ。」
啓兄は三年前から官立高校に通っていて、その近辺は桜の名所と聞いたことがあった。
「桜かぁ。」
将来のことなど考えこともなかったし、新しい母親と折り合いの悪かった僕はその一言で進路を決めた。
もともと勉強はできたので、翌年には啓兄と同じ高校の寮に荷物を入れていた。
高校のそばには小さな丘があって、そこに生えている木はすべて桜の木だった。合格して寮に入った時には桜は散っていたので、そんな事はすっかり忘れていたのだが。
入学式では先輩が、「自分の背丈ほど本を読め」と訓示を垂れた。
僕は前以上に本を読んだ。周りは博識ばかりでそうしないと話についていかれなかったのだ。誰と話してもつまらないと感じていた僕には世界が開けたようだった。
* * * *
読み上げた本が腰あたりになった頃、桜の丘は紅葉で真っ赤に染まっていた。
この丘は散歩に持ってこいで、僕は天気の良い昼下がり散歩に出かけた。
坂を登っていくと一人の女性の姿が見えた。彼女は淡黄色の着物を着ていて、僕はすぐに「桜染めだな。」と思った。
僕の実家は染め物屋で、幼い頃から藍染や桜染めの反物を見ていたのですぐにわかった。
桜染めは十二月頃から開花直前の枝を使う。蕾が開く直前であるほど濃い色が出るという。
幼い頃、枝の煮汁が薄紅色に色づいていくのが、まるで血が滲み出ているように見えた。それに桜染めは新鮮なうちに使うほど綺麗な色味がでるため、枝は切ったら時間をおかずにすぐ煮出す。それもなんだか桜の枝が植物よりも血の通った生物に近い気がして、不気味に思った。
きっと桜はちょうど今頃から準備を始め、最後の葉が落ちた瞬間から染めの素になる何かを体内に溜め始めるのだろう。
と、女性がふいに振り返った。目が合うと彼女は柔らかく微笑み、僕には粉雪のような光が舞ったように見えた。僕は一瞬で恋に落ちた。
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