青に染まる

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青に染まる

 僕は彼女目当てに頻繁に丘へ行った。  彼女は倉科櫻子さんと言って年は二十代半ばくらい。結婚はしていないようだった。いつも丘に何しに来ているのかと尋ねれば、「お墓参りに。」とだけ答えた。会えばたわいない話をし、時が過ぎるのも忘れた。    ある日彼女から贈り物をもらった。上等な万年筆だ。    僕は帰りに早速丸善に立ち寄ってインクを眺めた。しかし桜色の千代紙が櫻子さんにぴったりだったのでそれを買うと、インク代は足りなくなった。  しかたなく店を出ると、路面で男がものを売っている。見ると万年筆のインクも並んでいた。丸善の十分の一の値段だったので驚き、僕は三瓶も買った。    僕が寮の部屋で千代紙を便箋に入れていると、同室の寺井が部屋に入ってきた。    「気色悪い事しやがって。それに薄紅ってのははっきりしない色だな。俺は好かん。」   「つっかかるなよ。お前も恋人を作ったらいい。」   「性悪め。」    寺井はがたいの良い無骨な顔をした男だ。本人は、"自分の顔については諦めているし女にうつつを抜かす暇はない"とよく言っていた。   「よくもまぁ、一人の女性をこれほど賞賛できるな。」    寺井は顔をしかめて僕の書き散らした櫻子さんにまつわる詩や文章を眺めた。   「寺井は櫻子さんを見たことがないからな。見ればわかるさ。」   「こりゃ相当いかれてる。今に獣に変えられるぞ。」   「高野聖か。」    僕は思わず笑った。高野聖は泉鏡花の作品で、美しい女が言い寄る男を次々に獣に変えてしまう話だ。   「櫻子さんには魔性のカケラも感じられないよ。」   「ほれ見ろ、もう毒されているぞ。女はみんな魔さ。ほら九州の方では飛縁魔というのがいてな、美しい姿で男に近づき、血を啜って殺してしまうというぞ。」   「飛縁魔?初めて聞いたな。西洋で言う吸血鬼じゃないのか。」   「吸血鬼とはまた違うのさ。飛縁魔とは丙午に通じ…まぁ女にほだされて道を外すなという仏教の訓戒さ。君のリーベはだいぶ年上だそうだがいくつだ?」   「今年で数え二十五と言っていたな。」   「二十五?丙午は明治三十九年だろ…。まさに丙午じゃないか。」    ふと目を落とすと、万年筆のインクで僕の指は青く染まっていた。  * * * *    櫻子さんと会うようになって数ヶ月が過ぎた。その日も丘を登って行くと倒れ込む櫻子さんの姿が見え、僕の横を見知らぬ男がひどく慌てた様子で走り去った。男の手には櫻子さんの巾着が握られている。   「待て!」    男はそのまま走って行ったが、少し先で木の根につまづいて派手に転んだ。巾着が斜面を転がる。僕はすぐに巾着を取りに走った。男は振り向きもせずに逃げて行った。   「櫻子さん、巾着は無事です。」    急いで櫻子さんに駆け寄る。しかし彼女はうずくまったままだ。   「大丈夫ですか?」    僕が肩に手を置くと、顔を上げた彼女の口元から一筋血が流れ出た。僕は慌てて手拭いを渡す。櫻子さんは無言で口に手拭いを当てるが、血はどんどん流れてくる。   「…抵抗したら頬をはたかれて。」    櫻子さんは言ったが、僕は違和感を覚えた。はたかれたくらいでこれほど血が出るだろうか?   「私を家まで送ってくださらさない?」    僕は櫻子さんを背負い、家まで送り届けることにした。   「私、昔から血が止まりにくいのよ。」    道中、櫻子さんが言った。小さな傷でも塞がるのに時間がかかり、大量の血が流れ出てしまうのだそうだ。薄暗くなってきた道には蕾の膨らんだ桜の木が並んでいる。   「だから私、人から血をもらわないと生きていかれないのよ。」    僕は一瞬背筋がぞくりとした。背中の櫻子さんを振り返ろうとすると、じんわりと生温かいものが僕の肩に染みた。   「ごめんなさい、血が。」    染みたのは櫻子さんの血だった。   「ああ…。」    僕は何を驚いているんだ。それよりもこんなに出血していては病院へ連れて行ったほうがいいんじゃないか。僕が狼狽していると、   「姉上!」    突然声がした。向かいから若い男が走ってくる。そういえば同じ高校に通う弟がいるって言っていたっけ。弟らしい人物は僕を思いきり睨みつけ、僕から櫻子さんを引きはがした。僕をよく思っていないのは明らかだ。   「姉上、僕が背負いますから、さぁ。」    しかし櫻子さんは存外しゃんと立ち、   「ここからなら歩けるわ。」    と裾を直した。見ると櫻子さんの家は立派な洋館で、お金持ちだろうとは思っていたが想像以上で僕はたじろいだ。弟は僕を振り返りもせず家に向かい、櫻子さんは口元を押さえつつ、お礼を言って立ち去った。    * * * *  櫻子さんはしばらくするとまた元通り丘に現れ、僕らは逢瀬を重ねた。  僕の書き物は座卓を越えるくらいの高さになった。毎日書くせいで僕の指は常に青く染まっている。  ある日しばらくぶりに従兄弟の啓兄が寮の部屋にやってきた。僕が声を掛けようとするより先に、啓兄が心配そうに駆け寄ってきた。   「おい、ずいぶんやつれたんじゃないか。身体悪いのか。」   「書き物のしすぎで寝不足なんですよ。」   「いや、そんなやつれ方じゃないぞ。一度病院に行ったらどうだ。」    僕はどきりとした。確かに近頃ひどくだるい。   「心配入りませんよ。この不況で寮の食事も粗末でしょう?そんな顔しないでください。」    僕は誤魔化した。    * * * *  早朝うとうとしているところを激しく揺り起こされた。目を開けると怒り狂った様子の櫻子さんの弟…倉科の顔があった。僕は胸ぐらを掴まれて身体を起こされた。   「この投書は貴様か!」    倉科は僕に一枚の紙を突きつけた。突然のことで何がなんだかわからない。寝ぼけた頭で紙に書かれた字を見ると、どうやら小説の一節を書き写したものらしかった。  突然このように起こされるのは不愉快だし、最近特有の目覚めの悪さもあったので、僕は紙を突きつける倉科の手をぐいと押し返した。   「色白が力むと顔が真っ赤になるな。」    僕は枕元の眼鏡を取ると立ち上がった。倉科は表情を変えず睨み返し、   「質問に答えろよ。」    と言った。僕は立ち上がったことで少し頭が冴えてきたので、倉科から紙を取り上げた。さっと目を通すとすぐに相手が怒る理由がわかった。   「櫻子さんを褒めるんなら、もっと別な言葉を使うよ。」    僕が言うと、倉科はしばらくじっと僕を睨んでいたが、   「お前じゃないならいい。」    僕から乱暴に紙を奪い取り、力任せに扉を閉め出て行った。    紙に書かれていたのは昨年出版された梶井基次郎の「桜の木の下には」という小説だった。 「桜の木の下には屍体が埋まっている!」そんな唐突な書き出しで始まる短編小説である。    桜の木があんなに美しく咲くのは、その下に埋まった屍体から何かを吸い上げているからだ、といった内容だったと思う。  櫻子さんの名前と桜をかけたのだろうが、誰が何の目的で送ってきたのだろう。僕は嫌な気分になった。      朝からそんな事があったために朝食の席でもひどい気分だった。   「おい、随分具合が悪そうだが大丈夫か?精気を吸い取られたような顔をしてるぞ。」    僕は思わず顔を上げた。心配そうに僕を見つめる先輩の顔があった。   「馬鹿な事言わないでください!」    怒鳴り返した拍子になぜだか視界が反転し、気付くと床に倒れていた。急に周りから音が消え、グラグラ揺れる意識の中で先輩が慌てて人を呼んでいるが見えた。     * * * *    気づくと学校の医務室のベッドにいた。白いカーテンがふわりとふくらんだ。しばらくぼんやりとそれを眺めていると、バタバタと慌ただしく寺井が入ってきた。   「おい!おい…なんだ起きてるじゃないか。気分はどうだ?」   「倉科のやつに起こされてから、ずっと気分が悪い。」   「いや、本当はもっと前から悪かっただろう。」    そう言ってポケットから小さな瓶を取り出した。   「これ、お前も使っているインクじゃないか?」    手渡されたものを受け取ると、確かに僕が安く買ったインク瓶と同じものだった。僕が頷くと、   「今すぐ全部捨てろ。何年も前に禁止された毒性の材料が使われていたんだ。手の小さな傷から少しずつ身体に入ったんだろう。」    僕は自分の手を見た。カサカサと荒れた指先はいつものように、インクの青で染まっていた。……インクのせいだったのか。僕は一人苦笑した。  その後しばらく病院に通うことになり、二週間もするとあの特有のだるさが消え、身体も幾分か元に戻った。
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