赤に染まる

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赤に染まる

 米国での株価暴落を皮切りに起こった世界恐慌によって、世の中は不況の嵐だった。  街中は職のない労働者で溢れ、やっと見つけた仕事も、劣悪な環境に過酷な労働、おまけに賃金は少ない。病気になる者や自殺する者も少なくなく、農村部は特に困窮し身売りする娘も多かった。  同室の寺井は農村部出身だった。マルクスの資本論を愛読し、「青年の力で国を変える」が口癖だった。  僕は自分と同じ年の人間がこれ程情熱を持って、国を変えるなんて大胆な発言をする事に衝撃を受けた。  僕は皆に比べれば裕福で毎日ぶらぶらしていたし、世界の大きな出来事はいつも遠い場所で起きていた。僕は対岸から見聞きするだけでそれを自分の力で変えるなど考えた事もなかった。  しかし、寺井といるとそれも可能かもしれないと思わずにはいられなかった。寺井はそういう男だった。    彼の影響もあって僕は二年次の夏、プロレタリア文学に心酔していた。  僕らは毎晩社会のあり方や国の行く末について語り合い、ついに学内で社会研究会を発足させた。  もちろん学内での思想活動は禁止されていたし、社会主義者は世間から「アカ」と呼ばれ、政府に見つかれば検挙される。  僕らは秘密裏に会員を募り、秋には学外のメンバー、高校OBも合わせ二十四名の仲間を集めていた。    社会研究会、略して社研は高校近くの温泉街裏にある古小屋を合宿所とし、会合を開いては議論した。  僕は主にビラ作成を仕事とした。ビラの最後には「文書の始末は確実に」と必ず一文を添えた。  会には熱い人間が多く、メンバー同士ぶつかり合う事もあったが、僕は今まで感じたことのない充足感を覚えた。  日本にそぐわない部分もある社会主義理論を改良し、新たな社会理論を打ち立てる。それが僕等の目標だった。    風向きが変わったのは、寺井の出身地の労働団体と交わるようになってからだった。  その労働団体の指導者は寺井の叔父で、工場へのストライキを計画していた。寺井はストライキ活動にも加わると言った。社研のメンバーは農村出身者が多く、ほとんどのメンバーがストライキに協力する事になった。  社会学的議論を純粋に楽しんでいた僕は、活動の方向性に違和感を覚え始めていた。    その日も合宿所で会合を開くことになっていたので、僕はみんなより少し遅れて古小屋を訪れた。僕が小径を登っていくと、OBの笹賀さんが出てくるのが見えた。   「おう、遅刻か。」   「笹賀さんは今日は出て行かれないんですか?」    僕が聞くと、笹賀さんは力なく笑った。   「俺は今日で会を抜けるよ。」   「え…。」    僕は言葉を失った。   「会社にアカだと密告されてな。上司が俺を買ってくれていて、すぐに会を抜ければ周りには黙って今まで通り働かせてくれると言ったんだ。俺には女房も子供もある。」   「その家族の幸福のために、僕たちは活動してるんじゃないですか!」    僕は思わず食いかかった。尊敬する先輩がこんな形で会を抜けるのがショックだったのだ。   「そんな事わかってる!」    いつもは穏やかな笹賀さんが声を荒げた。笹賀さんは顔を歪めて悔しさを身体中から滲ませた。しばらく僕達は黙って足元を見つめていたが、やがて笹賀さんはゆっくりと僕の両肩を掴んだ。   「しがらみもなく自由に考え行動できるのは若者の特権だよ。俺は大きな力に負けたんだ。俺の分まで頼む。」    最後に僕の背をぽんと叩いて、笹賀さんは立ち去った。僕は震える拳を握りしめた。    櫻子さんの秘密を知ったのはその頃だった。いつものように櫻子さんと落ち合った時、僕はお墓参りの同行を申し出た。櫻子さんは一瞬戸惑った表情をしたが、頷いた。  一緒に行くと、お金持ちの櫻子さんの家のものとは思えない小さな墓だった。櫻子さんはそっと花を手向け両手を合わせた。   「これは…どなたのお墓なんです?」    僕が尋ねると、櫻子さんは答えた。   「私のせいで亡くなった方なの。」    * * * *   「私、十四の時に事故にあったのよ。お母様はその時亡くなったわ。私は助かったのだけど傷がひどくて。ね、私の血は止まらないでしょう。お父様がお金で人を買って、私に輸血を施したの。」    輸血法が成立してから十年以上経つが、今でもまだ輸血は世間で受け入れられていない。輸血に応じた人間は勿論貧しい者だろう。栄養状態が悪いと輸血で亡くなることは少なくない。  この時になってやっと、倉科が投書にあれほど怒った理由がわかった。僕はそっと櫻子さんの手を握った。   「貴女の過去も、贖罪もすべて僕は背負います。だからどうか、僕と生きてくれませんか。」    櫻子さんは驚いた顔をした。   「ね、櫻子さん。僕の好きな作家の言葉があります。"私は未来ある男が好きで、過去のある女が好きだ"。今の僕達にぴったりではないですか?」   「随分自信家ね。」    櫻子さんは笑った。しかし僕は自分の言葉に心が重く濁るのを感じた。僕達「アカ」に未来なんてあるんだろうか?     * * * *    ストライキ決行を二週間後に控えた会合時、その男はいた。熊田という労働団体のメンバーで、学はあるが過激な性格の男であった。熊田は向こうで他のメンバーと話をしていた。   「だいぶ前の話だが、倉科の家に投書をしてやったんだ。」    倉科という名前に僕は思わず耳をそばだてた。   「知ってるか?うちの工場の経営権はあの家が持ってる。我々の敵さ。俺ァやつらブルジョワジーに嫌味のひとつでも言いたくて考えたんだが、一昨年刊行された雑誌にいい小説があってな。“桜の木の下には”という短編だが、お前は知ってるか?桜の木の下には屍体が埋まっている!なんて一文で始まるのさ。なかなかセンセーショナルじゃないか。倉科の娘は櫻子というんだ。やつらが我々プロレタリアートの屍の上で悠々生きているのを思い知らせたくてな。なかなか粋な趣向だろう。」    そう言って笑う熊田を、僕は無意識のうちに殴っていた。  突然の事にその場にいた全員が黙り込んだ。   「この野郎っ!」    喧嘩はからきしだめな僕は、一回り以上でかい熊田に散々殴られた。この事件をきっかけに、会の方向性に違和感を持っていた僕は社研を抜けた。     * * * *  それからしばらく寺井とも話さなかった。寺井の労働者達を思う気持ちは知っていたし、彼も僕に会へ戻るよう強要する気はなかった。    そしてそれは突然起きた。ストライキ決行の日、寺井が死んだのだ。騒ぎの中、工場の鉄パイプの下敷きになったのだ。寺井らしい行動だが、倒れかかるのに気付いて下にいたメンバーを庇ったらしい。話を聞いて駆けつけた僕は呆然と死んだ寺井を見下ろした。   「なんだよ、傷なんてほとんどないじゃないか。馬鹿野郎…。」    事件をきっかけに僕ら社研の存在が警察に知られ、警察は寮の畳下に隠していた僕等の新しい社会理論を書いた紙を持ち出した。社研は脱退していたものの、それを証拠に僕は検挙された。
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