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薄紅に染まる
投獄されてすぐに誓約書に署名を迫られた。思想を改め、国に忠誠を誓うという内容のものだ。
署名をしてしまえば寺井や仲間との日々を自ら否定するようで、署名しないまま一ヶ月が過ぎた。
毎日殴られていた僕は考える事もできずその日もじっとうずくまっていると、面会だと牢を出された。驚いたことに面会に来たのは倉科だった。
「まだ誓約書に署名していないんだってな。」
僕は俯いてただぼんやりと座っていた。倉科はため息をついた。
「早く署名して出てこい。姉上が待っているんだ。」
僕は顔を上げた。倉科を見つめると相手も見返した。僕は小さく頷いた。
* * * *
その夜、監獄の殺伐とした部屋で僕が横になっていると、壁の一番上にある鉄格子窓から何かが舞い落ちてくるのが見えた。
桜の花びらだ。
近くに桜の木はなかったはずだが。
気がつくと僕は大きな桜の木の根元に横たわっていて、寝そべったまま見上げれば、大きな幹が頭上から天に伸びていく様子が見えた。
明るい空からは無数の花びらが粉雪のような光を撒き散らしながらひらひらと舞い落ちてきて、僕が触れようとするとするりと指の間をすり抜けるのだった。
僕の体は積もった花びらに半分埋もれていて、後からあとからどんどん花びらが落ちて来るので、もうすぐ体すべてが花びらに埋まってしまいそうだ。
ここはぼんやりとして気だるく、生ぬるい。
「薄紅ってのははっきりしない色だな。」
ふいに寺井の声がした。
舞い落ちてくる桜の花びらの向こうに、寺井の姿があった。光を背にして、枝に座っているようだ。
「明日彼女のために署名するのか?やっぱりリーベは飛縁魔だったな。」
「寺井には僕が道を外したように見えるか?」
「ああ。」
「飛縁魔に憑かれた僕より早死にしたくせに。」
僕達は顔を見合わせて笑った。
* * * *
気づくと寺井の姿は消えていた。音も無く降り積もる桜の花を見ながら、僕は桜を見に高校へ来たのだった、と思い出した。
「…美しいな。」
気づくとと僕が見上げている木はいつの間にか櫻子さんの姿に変わっていて、柔らかな表情で僕を見下ろしている。
「一日も早くここを出てあなたを迎えに行きます。待っていてくれますか。」
そっと手を伸ばすと櫻子さんは花が咲くように笑った。
今の僕にはそれで充分だった。
薄紅色に染まった頬を見ると僕は満足して、ゆっくりと深い眠りについた。
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