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12月1日【タングステン・フィラメント】
どちらを向いても墨のような真っ暗闇が続いていたので、実浦くんはずっと立ち尽くしていました。
ずっとというのは本当にずっとのことで、多分、実浦くんは冬を何度も迎えたはずです。それでも実浦くんが動かなかったのは、あんまり周りが暗いせいで、実浦くんと真っ暗闇との境目がなくなってしまっていたからです。だから本当のところを言うと、実浦くんは動かなかったのではなくて、動けなかったのでした。
どれほどの時間が経ったのか、実浦くんには分かりません。
しかしふいに、実浦くんは足を踏み出しました。最初に動いたのは右足で、それは椎の実くらいに小さな手形が、右足のくるぶしあたりにぴかぴか光ったせいでした。
光の手形はたちまち実浦くんに輪郭を与え、実浦くんはありがたくそれをいただくことにしたのです。
実浦くんは大きく背伸びをしますと、「あのう」とどこかへ呼びかけました。手形の持ち主が、まだ近くにいると思ったからです。
「あのう、ありがとう。おかげでようやく動けます」
そうしますと、実浦くんの肩の後ろあたりから、ふつふつ笑う声が聞こえました。
「そうして、ようやく動けるのね。びっくりしたわ。真っ暗闇が動くなんて、思わなかったわ」
実浦くんが声の方へと手を伸ばしますと、指の先が何か温かなものに触れました。触れるやいなや火花を発し、まるで線香花火の燃え上がる瞬間のようにして、そこに現れたのは小さな女の子でした。
女の子はそれはもう小さくて、可愛らしいハイヒールの靴をはいていましたが、それでも頭の天辺からかかとまで、実浦くんの手のひらに収まってしまうほどでした。「ずいぶん小さな女の子だなあ」と実浦くんが考えていますと、女の子はしっかりそれを見抜いたようで、「小さいけれど、ここでは一等目立つのよ」と胸をはりました。
確かに、女の子はフィラメントのように赤々と光っていますので、誰よりも何よりも目を引く存在です。実浦くんは「そうだね」と同意して、改めて女の子にお礼を言いました。彼女が実浦くんの足に触れてくれなければ、実浦くんはこうしてお喋りをすることも出来なかったのです。
「私は、ちょっと疲れたので休憩しようと思って、寄り掛かるのに丁度良いものを探していただけなのよ。そうしたらあなたの足があったので、私、手をついたのよ」
真っ暗闇が突然人間の姿になったので、彼女も驚いたことでしょう。
女の子が疲れていると言ったので、実浦くんは右の肩を彼女に貸し出すことにしました。女の子は実浦くんの肩の、ちょうど鎖骨のつなぎ目の上あたりに腰掛けて、ふうっと一息つきました。
「ああ、足が疲れたわ。それに、羽の付け根だって」
女の子がそう言いましたので、実浦くんは横目でちらっと彼女の方を見ました。すると彼女の言う通り、女の子の背には羽があるのでした。
「その羽はなに?」と実浦くんが尋ねますと、女の子はつれない調子で「羽は羽よ。飛ぶためのものよ」と言いました。そしてつまらなそうに、足をぶらぶら揺らしました。
「ねえあなた、こうして私を運んでいってくれないかしら。ずいぶんあちこち飛び回ったせいで、羽が千切れて落ちてしまいそうなの」
「羽が千切れて落ちてしまうと、どうなるの」
「どうなるって、飛べなくなるのよ。足をなくしたあなたが、たった一歩も歩けなかったように、どこにも飛んで行けなくなるのよ」
「それは困るね。良いよ、ぼく、きみを運ぼう」
女の子がどこへ向かっているのか、実浦くんは何も知りませんでしたが、そうした方が良いような気がしたのです。女の子は光っているし、また懐炉のように温かかったので、そばに居るととても心地が良いのでした。
「ありがとう。そうしたら私、少し眠るわね」
女の子は、実浦くんの肩に寝そべりました。
「どちらへ行けば良いだろう」
実浦くんが困って尋ねましたら、女の子は早速夢うつつの声で「どちらへでも行けば良いわ」と答えました。
どちらへでも、と言われてしまって、実浦くんはいよいよ困ってしまいました。どちらと言っても、底なしの真っ暗闇の中では、前も後ろも右も左もありません。実浦くんが二本の足で立っていますので、ようやく上と下とが分かるのです。
実浦くんは何度かぐるぐる首を回して、やっと観念して歩き始めました。とにかく、つま先の向いている方へ行ってみることにしたのです。壁に当たったら、左へ曲がってみよう。次に壁に当たったら、今度は右に曲がってみよう。そういうふうに決めて歩いていたのですが、いつまでたっても壁には当たりませんでした。
(こんな広大な闇の中を飛ぶのでは、確かにこの女の子の羽は、きっと疲れて落ちてしまうだろう)
肩の上で眠っている女の子が急に気の毒に思えてきて、実浦くんはなるたけ体を揺らさないようにしてそっと歩きました。
女の子は安らかな寝息を立てていて、その呼吸に合わせて、フィラメントの光がゆっくりと明滅します。実浦くんはじっと黙って闇を歩きながら、女の子の名前を訊いておくんだったと考えていました。
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