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序章
何が相手を傷つけてしまうかなんてわからない。自分が好きなことでも、相手にとっては泣きたくなるほど嫌なことかもしれない。
何気ない、些細なことでも、人を傷つけている可能性は十分にある。
日が沈むにつれて賑やかさが増していくのが居酒屋。それは、文月冬弥が働く居酒屋でも変わりなかった。海鮮がウリであるこの店のキッチンは、ほかの店と比べたら複雑な手順が多いように感じる。だからこそなのか、一緒に働くアルバイト勢とはより親密になれるような気がしていた。
一緒に航海をする船員、みたいな。
「なぁ冬弥、今度飲みいかね?」
比較的落ち着き始めたキッチン内で話しかけてきたのは、同じ大学に通う足達晴翔。『髪色自由』だったという理由だけでこのバイト先を決めた晴翔は、目にも鮮やかな赤髪だった。
「また店長の愚痴か?」
「いいだろぉ、お前も溜まってんじゃねぇの?」
ちょいちょい、と肘でつつかれ冬弥はちらりと視線をずらした。
オープンカウンターになったキッチンから見える、マネージャー室。客席と面した小さな扉からは、明かりが漏れていた。
微かに言い争うような声が聞こえるのは、気のせいじゃないだろう。
「くそ忙しかったのに出て来やしねぇ」
「出てきたところで邪魔なだけだろ」
「わははッ! 冬弥も言うようになったなぁ!」
楽しそうな晴翔の声を聞き流せば、マネージャー室から店長が出てくる。その表情は何とも拗ねたようなものだった。
そのままキッチン内に入ってきた店長は、これ見よがしにため息をついてくる。
「……なにかあったんすか?」
横から晴翔が鼻で笑う声が聞こえた。『お節介が』とでも思っているのだろう。確かにそうだ。別に気になっているわけじゃない。ただ聞いてほしい、というのが見え見えだったから聞いたまでだ。
だけど店長は純粋に聞いているように受け取ったらしく、意気揚々と話し始めた。
「もう、聞いてよ~。理久君に今月もっと入ってって言ったら『嫌です』の一点張りなの。ボクは良いよ? でも他のアルバイトが大変になるっていうのにさぁ」
「あぁ……理久くん」
水瀬理久。高校二年生でフロア業務の子。肌は白く、丸く大きい目は透き通っていて、薄い唇から発せられる声は凛としている。首元まで伸びている黒髪は、染めたこともないのか絹糸のように綺麗だ。一言でいえば、そう、綺麗な子。
だが、愛想はあまり良くない。仲間と一緒に和気あいあいと働くうちの居酒屋では少し浮いた存在だった。
未だに話す店長の言葉を聞き流しながら、冬弥は再びマネージャー室を見た。
まだ明かりの漏れている扉から、人影が見える。
言い争っている声がしたのに、出てきたのは店長一人だけ。ということは、理久はまだあの中にいるのだろう。
冬弥は注文が来ていないことを確認して、隣で完全に店長の話を無視している晴翔の肩を叩いた。
店長の相手は任せた、と視線で訴えてキッチンを出れば、「薄情者っ!」という声が聞こえてくるが無視。どうせ二人きりになってもうまく躱せるのが晴翔だ。
理久はどこか頑固な部分がある。店長との言い争いを目撃するのも、今日が初めてではない。あまり関わったことも話したことも無いが、同じフロアの子からの話だと曲がったことが嫌いな節があるんだとか。
無理にこの店のノリに付き合うようなことはしなくてもいいが、もう少し気楽にいけばいいのに。そしたら、ここで働くのももう少し楽になるのではないか。
そう、少し、先輩風を吹かせてやろうと思っただけだった。
「理久く……」
少し開いていたマネージャー室から覗いてみた先に、理久はいた。
だけど、その表情はいつもの無表情じゃなかった。
まるで親とはぐれた子供のような、泣きそうで、寂しそうな顔をしていた。
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