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白が基調となっている病室で、冬弥は椅子に座っていた。目の前で眠る母の腕には、点滴が刺さっている。
冬弥が呼んだ救急車でこの病院に運ばれてきた母は、命に別状はないと診断された。
過度なストレスによる胃潰瘍一歩手前だったらしい。そのためご飯を食べることもできず、軽い栄養失調にもなってしまっているのだという。歩くだけで胃が痛んだだろうという医師の話を聞いて、冬弥は思わず母の手を取った。母の手は冷たく、記憶よりもずっと細い気がした。
完全に、冬弥のせいだ。
冬弥がメッセージを返していれば、母はこんなことにはならなかっただろう。悔やんでも悔やみきれないことに、冬弥は自分の手を強く握りこんだ。
母は何度も「心配で身体がおかしくなりそう」と口にしていた。それは冬弥への当てつけだと思っていたが、まさか、本当にこうなるとは。
母は鬱陶しかった。母から逃げるために、一人暮らしだってしたのだ。だけど、いざ失うかもしれないと思ったら、何も考えられなくなるほど怖くなった。
虫のいい話だ。結局、当たり前だと思っていたことに甘えていただけなのかもしれない。
「冬弥!」
静かな病室でただ母に寄り添うことしか出来なかった冬弥は、駆け込んできた晴翔に顔をあげる。走って来たらしく肩で息をする晴翔は、椅子に座り込む冬弥を見て、ベッドで眠る母を見た。
「大丈夫なのか?」
先ほどよりも声のトーンを落とした晴翔が、冬弥の横へとやってくる。この時期なのにも関わらず汗をかいているのは、本気で走ってきてくれた証拠なのだろう。ご自慢の赤髪も風に靡いたままだった。
「電話で言った通り、命に別状はないってよ」
「そっか……」
母の診察が終わった後、冬弥は晴翔に連絡を入れた。今の現状を自分一人で抱えられる自信がなかったのもあるが、理由はそれだけじゃなかった。
「……どうすんだよ、デート」
そう、もう一つ晴翔を呼んだ理由はそれだった。
冬弥は握り締めていたスマホを見た。そこに示されているのは、十九時過ぎ。すでに、待ち合わせ時間から二時間が経過していた。
「……遅れるって、連絡したんだけど」
理久からの返事はなかった。既読もついていない。電話も出てくれなかった。
そもそも、冬弥が連絡を入れたのは一時間前。救急車を呼んだり、検査に付き添ったりで、スマホを見る時間がなかったのだ。混乱したままひっつかんできたウエストバッグに入れたまま放置していたスマホに気が付いたのは、すでに十八時を過ぎたころだった。
その時にも、理久からのメッセージは一つもなかった。
「おばさんは任せとけって」
スマホを見つめていた冬弥の背中を、晴翔が強く叩いた。
「そのために呼んだんだろ?」
歯を見せて笑う晴翔に、冬弥は深く頷いた。
ベッドで眠る母は、未だに目を覚まさない。本来なら、息子としてここにいるべきだ。デートになんて行ってる場合じゃないって怒られるかもしれない。薄情だ、と罵られるかもしれない。
だけど、それでも、冬弥は理久に会いに行きたかった。
会いに行かなきゃ、ダメだと思った。
「ありがとな、セリヌンティウス」
「おう! 何があっても止まんじゃねぇぞ、メロス!」
病室にはそぐわないであろう挨拶を交わした冬弥は、笑顔で見送る晴翔に母を任せて病室を飛び出た。
改札を飛び出た冬弥は、急く気持ちのまま辺りを見渡す。すっかり暗くなった改札前にいる人は少ない。
そこに、理久の姿も無かった。
前回のデートで待っていた柱にも、ベンチにも、どこにも理久の姿はない。
待っていてくれている可能性はゼロに近かった。もう待ち合わせ時間から三時間が経っているのだ。
冬弥は握っていたスマホを見る。何件か送ったメッセージに、まだ既読はついていない。そのまま通話ボタンをタップしても、理久が出る様子はなかった。
何度かけても、何分待っても、応答されない通話。その間も、冬弥は辺りを見渡し続けていた。
不意に、視界の上部が色鮮やかなことに気が付く。
見上げてみれば、先週来た時よりもさらに華やかになったイルミネーションが燦々と輝いていた。
「……理久くん」
耳にあてたままだったスマホを離して、冬弥は吸い込まれるように遊園地へと向かっていった。
遊園地内は、前回よりも人であふれていた。
カップルや家族連れ、理久のように制服姿で来ている学生グループなどでにぎわう園内は、ため息が出るほどきれいな色でライトアップされていた。
色鮮やかな明かりが照らす道を、冬弥は駆けていった。いる可能性は低い。だけど、冬弥は迷うことなく走っていた。せっかくセットした髪が乱れても、せっかく選んだ服が汗で濡れても、呼吸で喉が痛んでも、気にする余裕なんてない。ただただ一点を目指して、冬弥は走り続けた。
楽しそうに歩く人々の横をすり抜けて走っていけば、開けた場所に出た。そこは、今まで通ってきた園内の中でも、特にイルミネーションが綺麗だと感じた。
それもそのはず。この場所は、園内で特に人気スポットである観覧車があるエリアなのだ。
先週来た時よりもさらに賑わっているその場所で、冬弥は辺りを見渡した。
賑わう観覧車の列。仲睦まじげなカップルが目立つその列の中に、一人で並ぶ背中を見つけた。
その背中を見つけた瞬間、冬弥は再び駆け出した。
疲れすぎて足がもつれそうになるが、冬弥は前だけしか見ていない。ただ、早くその背中に触れたかった。
「理久くん!」
勢いのまま掴んだ腕を引けば、その背中は振り返った。
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