第三章

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「前の彼女にされたのが久しぶりでした。……まぁ、それ以前に誰かと約束すること自体避けてたんですけど」 「彼女だったら、デートの約束とかするもんな。……久しぶりってことは、その前にも?」 「……本当は、わかってたのかもしれないです」  冬弥の質問に合わない答え方をした理久は、手のひらを見つめながら遠い目をしていた。まるで、今この瞬間ではなく、もっともっと前の記憶を見ているような目。 「今度買ってあげる、とか。今度行こう、なんてその場しのぎだったんですよね」  理久が言うには、小さなころに言われた記憶を覚えているらしい。『今度』という言葉を聞くたびに期待して、覚えて、でも叶うことはなかった。  理久は何度も『果たされなかった約束』を経験した。そうして見えない場所に見えない傷を負って、約束をするのが怖くなった。  冬弥がデートの約束をする度、理久は果たされないであろう未来を想像してしまっていたのかもしれない。  それはきっと、冬弥が思っているよりもずっとしんどいものだろう。 「……待ち合わせ時間を過ぎても催促の連絡をしないのは、諦めてたから?」  理久は待ち合わせ時間を過ぎてもメッセージを送ってこない。普通、『今どこ?』とか、『まだ?』とか連絡を入れてもいいはずなのに。 「帰って、来ないんです」 「え?」 「帰、って……来ないんです……」  同じ言葉を繰り返した理久の目は、涙は浮かんでいなかった。だけど、今にも零れ落ちそうなほど涙の膜が張っている。 「……かえってこないって、返信が?」  尋ねた冬弥に、理久はゆるりと首を横に振った。その振動で、涙の膜が揺れる。 「お母さんが、帰ってこなくなったんです」  こらえるようにそう言った理久の声は、いつもの凛とした声じゃなかった。震えて、掠れて、すぐに切れてしまう糸のようにか細い。  そんな理久の横顔を見つめることしか出来なかった冬弥は、小さな口がまた開いたことに気が付いた。 「俺のお母さんは、俺が小さなころからずっと、俺よりも外を好む人でした」  理久は自分の過去の話をしてくれた。  母子家庭で育った理久は、家に一人でいることが多かったという。母親はたまに帰ってきても、少し理久と話しただけでまたどこかへ行ってしまう。  だけど、理久が小学校に上がって間もない頃、母が遊園地に誘ってくれたらしい。  初めての母からの誘い。珍しく上機嫌で帰ってきた理久の母は、遊園地のチケットを持っていたという。  それが、理久にとって初めての母との約束。 「嬉しかった。すごく。もう、眠れないくらい嬉しかった」  嬉しいと話しているはずの理久の声は、涙をこらえるように震えていた。真逆の感情が走っているようで、冬弥は思わず理久の横にぴったりとくっつく。肩が触れ合っても、理久は何も言わなかった。 「……嬉しかったのは、俺だけだった」  約束の日、理久は眠ることもできずに朝を迎えたという。だけど、母はいなかった。そのまま昼まで待っても、夕方になっても、暗くなっても、母は帰ってこなかった。  帰ってきたのは、閉園時間をとっくに過ぎたころ。楽しみだった理久は、何度も母を責めたという。  なんで帰ってこなかったの、楽しみだったのに、約束したじゃん。  そんな理久を、母は怒鳴りつけた。うるさい、耳障りだ、身勝手だ、と。 「……その日から、お母さんは帰ってこなくなった」  話を区切った理久は、深く息を吸い込んだ。その拍子に、大粒の涙が一つ、頬をすべる。冬弥は思わず手を伸ばして、その頬に触れた。 「俺が、せっついたから。だから、帰ってこなくなった。約束したって、それは絶対じゃないんです」  冬弥の手が触れることも気にせず、理久は話し続けた。  その声を聞きながら、冬弥は鼻を啜る。  自分が考えていたよりもずっと、理久には深い深い傷があった。  冬弥が寝坊して遅れてしまったあの日。理久はスマホを握り締めて一時間も待っていた。きっと、あの時の理久は母親との苦い記憶を思い出していたのかもしれない。そんな不安の中、待つことしか出来なかったのだろう。  いつまで待てばいいかわからない中、自分から聞くこともできない。聞いてしまったら、母親と同じように怒られてしまうかもしれない。もう会えなくなるかもしれない。そんな思いをさせてしまったことに、冬弥は何も言えなかった。  何かを言っても、理久の傷を埋めることはできない。 「文月さん」  まっすぐ前を向いていた理久が、冬弥の方を向いたことに気が付く。その目からは、静かに涙が流れている。相も変わらず、苦しそうな呼吸だ。  声にならなかった返事をすれば、理久は嬉しそうに微笑んだ。  あの小さな女の子に向けていたような、優しい微笑み。  ずっとずっと、向けてほしかった笑み。 「来てくれて、ありがとうございます」  そう言われた瞬間、冬弥は無意識に理久を抱きしめていた。  無邪気な子供のような声を出す理久は、本気でそう思っているのだろう。  来てくれてありがとう、なんて言わせたくない。だって、約束していれば来るのは当たり前なんだ。そのための約束なんじゃないのか。 「怒ってもいいんだよ。理久くんには、その権利があるんだ」  冬弥は震えた声でそう伝える。  怒ってもいい。待たされたら、怒ってもいい。少なくとも、冬弥はそれで怒鳴り返すことも理久の前から消えることもしない。  肩口がじんわり熱くなるのを感じながら、その後頭部を掻き撫でた。
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