第一章

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第一章

 ざわざわと賑わう客席。注文を受けた魚をさばきながら、冬弥は客席を見る。 酒が入って楽しそうな客の中に、理久の姿はあった。  バイト着である黒いTシャツから伸びる腕は白く細くて、帆前掛けが腰の細さを強調している。男にしては華奢な体つきの理久は無駄な動きなど一切なく、てきぱきと働いていた。  先輩風を吹かせてやろうとしたあの日。結局何も言えず、会釈だけして帰って行く理久を見送ることしか出来なかった。だけどその日から、冬弥は理久のことが気になって仕方がなかった。 「文月さん、帆立」  目の前にずい、と差し出されたボウル。我に返って伝票を見れば、確かに帆立の刺身が注文されていた。 「あ、ありがと」  お礼を言って受け取れば、理久は無表情のまま次の仕事へと移っていく。近くの席にいた酔っ払いに絡まれても、理久の表情はそのままだった。  そう、理久はずっと無表情だ。話しかけても「はい」か「いいえ」で返事されるのがほとんど。  接客業なんだから、もう少し笑顔で話せばいいのに。いや、酔っ払いはそんなこと気にしないからむしろ居酒屋で働いているのは正解なのかもしれない。  なんて思いながらも、冬弥は注文された帆立の刺身を作り上げた。身体が覚えているらしい。 「理久くん! 帆立刺し……」  そう顔を上げた冬弥は、思わず言葉を切った。  理久はレジで対応をしていた。珍しく小さな女の子を連れた家族連れ。ざわついている周りの声にかき消されて何を話しているかは分からなかったが、女の子が何やら興奮しているのは分かった。  そんな女の子の目線と合わせるようにしゃがんでいる理久の表情は、微かに微笑んで見える。  あんな表情が出来たのか。だって、いつもはあんなに無表情を貫いているのに。  現に、女の子たち家族を見送って振り返った理久の表情は、いつも通りの無だった。 「すみません、これどこですか?」 「え、あ、25……」 「はい」  渡そうと思っていた帆立刺しが理久の手に渡る。そのまま持っていこうとした理久は、一度止まってこちらを振り返った。 「さっきの女の子、魚苦手だったのに食べれたみたいです。美味しかったって言ってました」  あぁ、あの女の子はそれを興奮気味に理久に伝えていたのか。咄嗟のことで反応しきれなかった冬弥は、曖昧に頷いた。 「文月さんの料理がおいしいってことですよね」  そう言った理久は、本来の業務を果たすためにお客様の元へと歩いて行く。  その背中を見送った冬弥は、空いた口がふさがらなかった。  他人への興味を一切省いたような人間の理久に、そんなことを言われるとは思わなかった。 「あー、恋ね、恋。そりゃ恋だわ」  居酒屋とはまた違った賑わいを見せる、大学の食堂。昼食であるラーメンをすすりながら、晴翔はのんきにそう言った。 「真面目に相談してんだけど」 「オレだって真面目に答えてっけど」  ラーメンに入っていたメンマを箸で掴んだ晴翔は、冬弥に見せつけるように掲げた。 「目が離せなくて? その後もその子のことを考えちまう? そりゃ恋以外にないだろ」  な? とメンマを差し出してきた晴翔は、そのまま冬弥のラーメンの中にいれた。 「安直すぎだろ……」  晴翔が入れてきたメンマを追い出すこともできず、冬弥は小さく呟いた。  ここ最近の出来事を、冬弥は晴翔に相談した。昨日の褒められたことも含めて。  名前も伏せて、相手が理久だとわかるような詳細も省いてした相談は、お気楽な晴翔にとっては一つの答えしか導けなかったらしい。 「でもお前も自覚してっからオレに言ってきたんじゃねーの?」 「わかんないから相談してんだよ」 「オレから言わせてみれば、そりゃ恋だって」 「あのなぁ」  相手は男だぞ、言いかけた口を閉じた。晴翔には相手の性別も伏せている。そんなことで晴翔が引くような奴ではないとはわかっているが、念のため、だ。  途中で黙った冬弥に視線を投げてきた晴翔は、再びメンマを一つ掴んで掲げた。 「オレが今からする質問に素直に答えろよ?」  晴翔はそう言って、そのメンマを再び冬弥のラーメンへと入れた。そして、もう一つのメンマを箸でつまむ。 「気になっちゃうんだろ?」 「気になる」 「目で追っちゃうんだろ?」 「気づいたら追ってる」 「考えちゃうんだろ?」 「……そうだな」 「ほら、証拠はこんだけあんだよ」  質問に答えていく度、晴翔はメンマを冬弥のラーメンへと入れていった。最初よりも増えたメンマに、冬弥は押し黙るしかない。  理久のことをそんな風に見たことはなかった。シフトが被ることはあれど、所詮アルバイト仲間。大学生と高校生、キッチンとフロア。冬弥と理久の共通点なんて無いに等しいのだ。 「お前は、その子のことが好きなんだろ」  晴翔が再びメンマを箸で掴んでそう告げた。それは質問というよりも、確信に近い言葉。何も言わない冬弥に、晴翔は満足そうに笑ってメンマを冬弥のラーメンへと移す。  晴翔のラーメンに入っていた、最後のメンマだった。  理久のことが、好き。好き、なのか、自分は。  冬弥はぐるぐると巡る思考の中、最初よりも二倍に増えたメンマを見ることしか出来なかった。気になって、目で追ってしまって、挙句の果てにはバイト以外でも理久のことを考えてしまう。そうだ、そこだけ聞けば、冬弥は完全に恋をしていることになるだろう。 「冬弥クンにもついに春が来るとは……」  ようやく自覚して体温が上がっていく冬弥は、晴翔のその声が揶揄っていることなどどうでもよかった。  晴翔がラーメンをすする音を聞きながら頭を抱えた冬弥は、上がっていく体温がどうにか下がってくれないかと願うばかり。いい年した男が赤面なんて滑稽極まりないだろ。  ……いや、いいだろ別に恋してんだから。 「恋……してんのか……」  己の思考にさらに深く頭を抱えた冬弥に、晴翔は「わははっ!」と愉快な笑い声をあげた。 「で? どうすんの?」 「……どうするとは?」 「バカお前、恋してんだってわかったらアタックのみだろ。告白するのか?」  肩を組んで距離が近くなった晴翔にささやかれ、冬弥は勢いよく顔をそちらに向けた。 「しねぇよ! 早すぎだろ!」 「えー、恋に早いも遅いもないじゃーん」 「互いに名前知ってるくらいだって言っただろうが!」  声のボリュームが上がってきていることに気が付いた冬弥は、咳ばらいをして気持ちを落ち着かせる。肩に回っていた晴翔の腕も払い落とせば、隣から残念そうな声が聞こえてきた。 「お前はその子とどうなりてぇの?」  不貞腐れたような声を出した晴翔に、冬弥は「どうなりたい……」と繰り返した。  理久と、どうなりたいのか。  冬弥が知っている理久は、バイトでの姿のみ。あとは、行き帰りで見る制服姿くらいだろう。基本無表情で、会話も業務連絡のみ。雑談している姿はほぼなく、理久という人間がどういう子だというのは全く知らない。少し頑固で、生きづらそう、という印象のみ。  そして、子供には優しく、微笑んで……。 「ぅわーッ!」  理久の笑みを思い返した冬弥は、食堂であることも忘れ叫んでしまった。 「びっっっくりした……なに、何事?」 「すまん。ごめん。我を忘れないとやばかった」 「あー……冬弥ってむっつり?」 「…………知りたくなかった」  冬弥が叫んでしまったことで周りの目が気になり始め、早く退散すべく伸び始めているメンマたっぷりのラーメンを急いで啜った。食器を片して次の講義に向かっていた途中で、閃いたように晴翔が声を上げた。 「飯誘えば? その子のこと」  名案、とでもいうような得意げな顔をする晴翔は、続けてこう言った。 「今はどうなりたいかって分かんなくても、その子のことは知りたくない? なら飯だよ飯」  一理あるな、と冬弥は晴翔の提案に頷いた。
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