第一章

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「行かないです」  休憩室で一緒になった理久の声は想像よりも冷たかった。  昼間、晴翔に提案された『ご飯に誘う』という作戦。冬弥は今日、理久とシフトが被っていることを確認し、理久が上がる時間を見計らって自分の休憩を申し出た。  休憩室と更衣室は隣り合っている。着替え終わった理久が帰るには、必ず休憩室を通るのだ。そして今、休憩している人はいない。  つまり、休憩室には冬弥と理久しかいない絶好のチャンス!  だが、冬弥の誘いは一刀両断されてしまった。 「あ、まぁ……そうだよな、急に誘われても……」  うまくいくような気はしていなかった。相手はあの理久だ。野良猫のように誰にも寄り付かず一人で生きていそうな、あの理久だ。  だが、ためらいもなく誘いを断られるというのは、思ったよりも心にくる。  うまく取り繕うことが出来ず、冬弥は自分で作った賄いであるオムライスに視線を落とした。  好きだと自覚したのは今日だ。もしかしたら、あのマネージャー室で寂しそうな顔をしているのを見た日から好きだったのかもしれない。でも、はっきりと自覚したのは今日。  その日のうちに脈なしと突きつけられるのはいささか辛いものがある。  冬弥は落ち込んだ気持ちを飲み込むようにオムライスを口に詰め込んだ。味が一切しないのは、悲しみに鼻が詰まっているからだろうか……。あ、ちょっと視界が滲んできた……。  ズッ、と鼻を啜った冬弥が顔を上げれば、もうすでに帰ったと思っていた理久が立っているのに気が付き思わず肩を震わせる。  声にならない驚きで昂った心臓を落ち着かせながら理久を見つめていれば、理久の視線が冬弥の賄いに向けられていることに気が付いた。 「……た、食べる?」 「いいんですか?」 「そうだよな、いらな──えっ!」  理久の返事に、冬弥は大きな声を出す。てっきり断られると思っていたのに。  慌ててスプーンを取りに行こうとすれば、理久は首を横に振った。かと思えば、机の向かい側から置かれていたスプーンを取って、オムライスを一口すくい口に含む。  小さく開かれた口から見える真っ赤な舌が、オムライスを乗せたスプーンに触れる。  冬弥の使っていた、スプーンが。  制服の白いシャツにつかないかな、大丈夫かな。カーディガンは黒いから大丈夫そう。あ、口の端にちょっとついてる、かわいい。肌が白いから映えるな……あぁ、もしかしてこれもむっつりってことになるのかな。別にいいだろ、かわいいって思うくらい。事実なんだから。 「文月さんの」  混乱した脳みそでそんなことを考えながら理久を見つめていた冬弥は、理久の声で我に返る。  食べ終えたスプーンを置いた理久は、冬弥が視線を向けたのに気が付いたのかゆっくりと視線を合わせてきた。 「文月さんのご飯、気になってたんです。よく、お客さんに『美味しい』と声を掛けられるので」  賄いを作るのは、大体がキッチンの人間だった。たまにフロアの人がキッチン内にあるものを使って勝手に作っていたりするが、それも少数だ。冬弥が作ることも少なくはない。だけど確かに、理久が賄いを食べているのを見たことはなかった。  いつも、賄いを食べずにすぐに帰ってしまうから。 「とても美味しかったです。お客さんが言葉にするのもわかる」  理久に、想い人に褒められ、冬弥は分かりやすく気分が上昇していくのを自覚した。  その表情は女の子に向けた笑みはなかったものの、声色は心なしか優しく聞こえた。 「よ、良かったら今度作るよ。何がいい?」  前のめりになって尋ねた冬弥に、理久は少し考えるようなそぶりを見せた。だがすぐに、顔を上げる。 「オムライス」  理久が口にしたのは、今日冬弥がつくった賄いだった。そして、今理久が一口食べた賄い。  オムライス、好きだったのかな。それとも、今日のが美味しかったのかな。なんにせよ、〝次〟があることに冬弥は飛び跳ねたいほど嬉しい気持ちになった。 「あぁ……あぁ分かった! 約束な!」 「え……」  冬弥が嬉しそうに言って立てた小指を差し出せば、理久の表情は驚いたようなものになった。  あれ、何かおかしかったかな。冬弥は首を傾げる。  話の流れはおかしくないはず。よかったらまた作るよ、と声を掛けリクエストを聞き了承する。それだけ。  嬉しそうな表情が、あわよくばあの女の子に見せていたような笑みが返ってくると思ったのに……。 「あ、ごめん、声……デカすぎたよな。指切りとか、子供すぎ?」 「いえ……」  ハッとした冬弥が謝って手を引っ込めれば、理久はゆっくり首を振る。その間も、理久の表情は浮かないものだった。 「理久くん?」  名前を呼べば、理久は冬弥を見た。  その表情に、冬弥は息を飲む。  あの時、マネージャー室で見た時と同じ表情だった。  泣きそうで、寂しそうで、迷子になって心細い子供のような表情。  冬弥がさらに名前を呼ぼうとすれば、理久は顔を逸らした。 「今日はありがとうございました。本当に、美味しかったです」  ペコリと頭を下げて休憩室から出ていく理久。その背中を、ただ見つめることしか出来なかった。
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