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居酒屋としては繁忙日ともいえる金曜日。大学の講義がないこの日、冬弥は朝の時間帯からシフトに入っていた。
無心で仕事をする冬弥は、時間が経つに連れ集中力を欠いていく。
理由は至極単純。十七時から、理久が入っているからだ。今日は十八時までなので、一時間だけ理久と被る。
理久に彼女がいると店長から聞かされたあの日、冬弥は灰のようになりながら朝の五時までを過ごした。少しでも風が吹けば、飛ばされそうなほど無気力で。
理由を聞いた晴翔はただただ大爆笑していた。あの時は何もできなかったが、今思い出せば腹が立ってきた。人の不幸を笑いやがって。晴翔が嫌いなピーマンだけでオムライス作ってやろうか。
切れかかっていた集中力が怒りに変わってきたその時、キッチンに入ってくる足音が聞こえてきた。
「おはようございます、本日も一日よろしくお願いします」
振り返ると同時、聞こえてきた声は小さくて凛とした声だった。理久だ。
(あれ……)
緊張で一瞬体を強張らせた冬弥は、しかし首を傾げた。
小さくぺこりとお辞儀をしてフロアに戻っていった理久の表情は、いつも通り無。だけど、それだけじゃない。
何処か、元気がないようにも見えた。
「理久く……」
「冬弥君! 今日二十一時まで伸びて!」
反射的に話しかけようとしたその時、店長がシフト表をもって駆け寄ってくる。
この店長、シフト組み下手すぎるのにも程がある。
「俺、朝九時からいますけど……」
「十二時間なんてよくあるじゃん~、賄い、豪華なのにしていいから、ね?」
可愛くもないお願いを半目になって受け流そうとした冬弥は、シフト表を見る。キッチンは二十一時まで二人。フロアは理久を含めて高校生二人と大学生三人の五人。理久の上がり時間は、二十一時だった。
「引き受けましょう」
「ホント!? ありがとう~! 助かるよ!」
シフト表をもってマネージャー室に戻っていく店長を見送った冬弥は、深く息を吐く。
いや、別に理久と上がり時間が一緒だからとかそんな理由じゃない。キッチンの二十一時までのラインが店長と新人の二人のみだったからだ。金曜日で、さらに夜の忙しい時間帯にこれは厳しいだろう。キッチンだけでなく、フロアの子たちにも迷惑がかかる。もちろん、理久にだって。わんちゃん一緒に帰れるとか、うん、思ってない。思ってないぞ。
誰かに言うわけでもない言い訳を脳内で繰り広げた冬弥は、フロアに視線を向けた。
まださほど賑わっているわけでもないフロアにいる理久は、いつも通り手早く中間バッシングをしている。だけどその表情は、やはりどこか浮かないようにも見えた。
これでもし彼女と喧嘩した、とかだったらどうしよう。素直に大人なアドバイスをしてやれるだろうか。それだけじゃない。話の途中でのろけとか聞かされたらどうしよう。彼女の誕生日が近いんです、とかの悩みだったら軽く失神できる。そして顔も知らない彼女に嫉妬してメンタルがヘラる可能性もある。そうなった場合、まず真っ先に問題視するのは晴翔の存在だ。あいつは親身になって寄り添ってくれるタマじゃない。むしろ全力でネタにして百年先は引きずられる。聞かない方が自分のためでは……。
そこまで考えて、冬弥はため息をついた。
どんな理由であれ、やはり元気のない理久に知らないふりはできなかった。
「理久くん」
キッチンから声をかけてみるものの、視線がこちらに向けられることはない。聞こえなかったか、と再び声をかけようとすれば、来店のベルが鳴った。それに対応しに行く理久を見送れば、冬弥の方にも注文が入った音が聞こえてきた。
また時間を見て声を掛ければいい。そう考え直し、冬弥は自分の仕事に向き合った。
二十時。冬弥は立て続けに頼まれる料理に没頭しながら絶望した気分になっていた。
店内は満席で、注文もそこそこ入る。まだ新人の子に料理を教えながらピーク時を過ごすのは、勤務十時間越えの身体には厳しいものがある。結局店長もほぼキッチンに顔を出さなかった。
それだけじゃない。
理久がすべての対応を無視してくるのだ。
たまっていた注文の最後の品を出し終えた冬弥は、汗を拭ってフロアを見る。フロアの方は料理も出し切って落ち着いているのか、埋まっている客席の割には穏やかに見える。大学生三人も楽しそうに話しているし、切羽詰まったようには見えない。
冬弥はフロアを見渡し、隅の方に立っている理久を見つけた。
いつも何かしらの仕事をしている理久は、珍しくぼうっと突っ立っている。
その表情は、前にも見たことがあるものだった。
声をかけても、理久は無視するだろう。もう二回無視されている。これ以上されたら、向こう一か月は立ち直れないかもしれない。
だけど、今の理久を放っておくことも、冬弥にはできなかった。
どうしたものか、と考えた冬弥の耳に、新たに注文が入ってくる音が聞こえた。その料理名を見て、冬弥は声をあげる。
「理久くん! 帆立一個ちょうだい」
理久は返事をすることも、頷くこともしなかった。だけど、その足はしっかりと帆立のある場所まで動いていた。
いつもよりも少しだけ時間をかけて帆立の入ったボウルを持ってきた理久に、冬弥は小さく声をかけた。
「すぐ作るからそこで待っててくれる?」
返事こそなかったものの、理久はその場から動かなかった。効率を考えて冬弥の指示を聞くらしい。冬弥は調理に取り掛かりながら、理久の表情を窺った。
来た時から変わっていない。
店長と言い合いをしたあの日と、同じ表情だった。
「なんかあった?」
料理をする手は止めず、冬弥は理久に尋ねた。返事は返ってこない。予想していたとはいえ、ここまで露骨に無視されると悲しい。
好きな子なら、なおさら。
「……今日二十一時上がりだよね。俺も一緒。賄い、食べる? つくろっか」
触れてほしくないことなのかもしれない、と直球に聞いてしまったことを反省して、冬弥は他愛もない話に切り替えた。これで乗ってくれたら痛んだ心は少しだけ回復する。
だが、それに対しての返答も無かった。
「……これ、お願い」
出来上がってしまった料理を差し出せば、理久は冬弥の顔も見ずに料理を受け取って客席へと提供する。その時の表情は柔らかいものの、どこか愁いを帯びているようにも見えた。
──嫌われた……?
理久は冬弥の顔を見ることも無かった。しつこすぎたのかもしれない。他人の問題に首を突っ込んでくる奴なんて嫌だよな、わかる。
冬弥は自己嫌悪に苛まれながら使った調理道具を片していった。
「……俺、あと三十分で上がりなんで、その前に休憩行っちゃってください」
「はい! ありがとうございます!」
二人でキッチンのピークを乗り越えた戦友に声をかけ、嬉しそうに賄いを作り去っていく背中を見送る。その間も手を止めずに片していくのは、何かをしていないと気が落ち着かなかったから。
理久に嫌われているかもしれない。その事実だけで、冬弥の未来への希望は絶たれたも同然。誰だって、好きな人には嫌われたくないだろう。
いや、それよりも彼にはすでに彼女がいる。同性である自分に、もともと希望なんてなかったのかもしれない。
あぁ……何も考えられないくらい飲み明かしてしまいたい。
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