第二章

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 母との約束を破れば、その後どうなるかなんて冬弥が一番わかっている。家に乗り込んでくるならまだしも、あの母は学校やバイト先にまで乗り込んでくる。それをされたらたまったもんじゃない。  冬弥は土曜日の朝一で実家へと顔を出した。早く行けば早く帰れる、という確証はないが、昼前に顔を出すよりは朝一の方が早く帰れる可能性は高くなる。  持っていた鍵を使って玄関を開ければ、待ってましたとばかりに母が出てきた。冬弥の背中を押してリビングへと連れて行った母は、そのまま冬弥をソファへと座らせる。 「おかえり冬くん! 疲れたでしょう? ゆっくり休んでね。あ、朝ごはんは食べた?」 「食べてきた。母さん、俺今日……」 「冬くんちょっと痩せた? ちゃんとご飯食べてる? やっぱり心配だわ、今作るから待っててね」 「あ、ちょ……」  早めに帰る、と伝えようとした言葉を遮られ、母は足早にキッチンへと消えていった。  冬弥の話も聞かない母に、冬弥はソファの背もたれにもたれかかる。こうなることは分かっていた。帰るたび同じようなことをしていれば想定できることだろう。  そしてキッチンから漂ってくる匂いに、冬弥は速攻帰りたくなった。来て数分も経たぬうちに、十二時間バイトしたときと同じ疲労を感じている。 「お待たせ。冬くんカレー好きだったわよね? 昨日のうちから仕込んでおいたの。あ、ちゃんと甘口だから安心してね」  戻ってきた母が持ってきたカレーに、冬弥はすべての感情を飲み込むことしか出来なかった。  朝一にカレーは少々きついものがある。さらに、冬弥は嘘ではなく、ちゃんと朝を食べてきた。 「あぁ……ありがとう」 「いっぱい食べてね。足りるかしら……おかわりもあるからね」  ここで食べなければ『体調悪いのか』という尋問が始まるのは目に見えている。冬弥は置かれたカレーをゆっくりと口の中へと運んだ。  甘口だと言っていたカレーは、少し物足りないような感じもする。決してまずくはないが、いつも食べているカレーより食べ応えがないのは己の我儘なのだろうか。 「冬くん、最近どう? ちゃんと自炊してる? コンビニ弁当ばかりじゃダメよ? 栄養が偏っちゃう。でもバイトもしてるものね。眠れてる? 睡眠不足は健康を……」  カレーを食べ終わった後もあれこれと世話を焼く母から聞かされる小言に、冬弥は耳を塞ぎたくなった。  帰ってくるたびに聞かされるし、なんなら電話やメッセージでも言われ続けていること。こんな話を聞くぐらいなら、晴翔の中身のないくだらない話を聞いていた方がまだマシだ。 「バイトするくらいなら、一人暮らしなんてやめて帰って来なさいな」  そう言った母に、冬弥はうんざりした。その後に続く言葉も、もう何百回と言われている。 「心配過ぎて、母さん身体がどうにかなっちゃいそうだわ」  ほらやっぱり。冬弥はため息を零した。  小言よりもずっと聞いていた言葉だ。電話をする度、切る間際に大体言われるのがこの言葉だ。「帰ってきなさい」とセットで言われるこの言葉を、冬弥は鬱陶しいと思っていた。  過保護な母は、冬弥に対して健康を第一にというくせに、当の本人は息子がいないと健康を害してしまうらしい。 「つっかれた……」  ボフン、とベッドに倒れこんだ冬弥は、真っ暗な部屋でそう声を漏らした  朝一で行ったのに、解放されたのは終電間際。泊まっていきなさいと言う母を何とか説得してやっとの思いで帰宅した冬弥の体力はもうゼロに近かった。 「理久くんに連絡……あ、いや、でも寝てるかな……」  鉛のように重たい腕を伸ばして取ったスマホ示すのは、深夜の一時すぎ。高校生である理久はもう夢の中かもしれない。なら、明日の朝連絡した方が……。  ぼんやりとしていた思考が霞がかっていくのを、冬弥は自覚できなかった。  ハッと目が覚めた冬弥は、起きた瞬間に血の気が下がっていくのを感じた。  枕元に置いてある時計が指すのは八時半。 「やば……」  冬弥の家から待ち合わせの駅までは約三十分。すでに電車に乗っていないと間に合わない時間だ。  急いで連絡をしようするが、触れたスマホは何の反応もない。昨夜充電しないまま寝落ちしてしまったらしい。アラームが鳴らないのも当然だろう。  慌てて着替えようとした冬弥だが、着ているのが昨日の服のままだということに気が付いて絶望した。お風呂にも入らずベッドに倒れこんでしまった自分が憎い。  時間はないが、このまま風呂に入らずに行くのも不潔で不快な思いをさせてしまうかもしれない。  迷っている時間はない。冬弥はバスタオルと服をひっつかんで風呂場へと駆けこんだ。  その際に充電しておこうなどという冷静な判断も、一切できなかった。  充電が切れてただの鉄の塊となったスマホを持ったまま、冬弥は汗だくで待ち合わせの駅へとついた。一応お風呂に入ったはいいものの、セットしている時間なんてない。なんせ、時間はもう十時を回ろうとしている。  待ち合わせ時間から一時間過ぎようとしているのだ。  とにかく駅までいって、理久を探そう。でももう一時間も経っているからいないかも。そしたら、コンビニで充電器を買って連絡を試みよう。返事くれるかな、無視されたらどうしよう。無視されるようなことをしているとわかっていても、めちゃくちゃへこむかも。  なんてぐるぐる考えていた冬弥は、急いでいた足をぴたりと止めた。  いた、待っていた。  改札から少し離れた場所にある柱。そこで、理久が待っていた。スマホを握り締めたまま立っているその姿は、間違いなく理久だ。 「ッ、理久くん!」  周りを気にすることもできず、冬弥は理久の名前を呼んだ。  ハッとして振り向く理久の表情は、何度も見た、あの寂しそうな、泣きそうで悲しそうな表情。  だけど、目が合ったその瞬間、理久の表情が変わった。  怒ったようなものでも、呆れたようなものでもない。無表情でもない。 「……文月さん」  安堵したように、笑ったのだ。  へにゃりと音がしそうなほど下がった眉が、理久を幼く見せる。今までに見たことのない、表情だった。  汗も拭わず、息を整えることも忘れた冬弥は、理久のそばに駆け寄った。 「ごめん、昨日寝落ちしちゃって、スマホも充電なくって、いや、ごめん言い訳だよね、ほんとごめん」  頭を下げ、冬弥は何度も謝った。忘れていたわけじゃないと言いたいが、今何を言っても言い訳になってしまうような気がする。とにかく謝りたい気持ちでいっぱいだった。  罪悪感も死ぬほどあるが、それよりも。  冬弥を見つけた時の理久の表情に、胸が張り裂けそうになった。  迷子になっていた子供が、親を見つけた時の表情に似ている。  嬉しくて、でも寂しかったという複雑な表情。いっそ、泣いて怒ってくれればよかったのに。 「文月さん」  理久に名前を呼ばれ、冬弥は顔を上げる。見えた理久の表情は、心なしかいつもよりも柔らかく感じた。 「すごい汗。走ってきたんですか?」 「ぅわ! ごめん! 汗臭い!?」  理久に指摘され、冬弥は勢いよく距離を取った。感情のままに駆け寄ったが、今の冬弥は真夏並みに汗をかいている。家を出る直前にお風呂に入ったとはいえ、汗をかけばそれは意味がなくなってしまう。  自分の匂いを嗅いでいた冬弥の腕に、理久がそっと触れる。 「いいえ。……ありがとうございます」  一瞬、理久の言葉が理解できなかった。  冬弥は遅刻してきたのだ。それも、一時間も。むしろお礼を言うのは冬弥の方ではないのだろうか。『待っていてくれて、ありがとう』と。 「モバイルバッテリー、持ってるので使ってください」  混乱して何も言えなかった冬弥に、理久はカバンの中からモバイルバッテリーを差し出してきた。
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