第一章 千の栞

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 その病院は、療養で入院している人も多いが、末期の緩和ケアの人も多いらしい。そして、その病院の下あたりが、釣りの穴場で二人はよく行くという。 「穴場でも、ちゃんと釣りをする時は、料金を支払っているよ」  そこは、公務員と会社員なので、ルールを守っているという。 「海の向こうから、日が登る。海面が薄っすらと白くなった瞬間かな……仕事の疲れも吹っ飛ぶ」 「そうそう、自然は大きく、俺は矮小でただ生きているだけだ」  そして、人が多くなってくる前に車に戻り、早朝でもやっている温泉に入ると、仮眠してから帰る。 「それは、百回以上は繰り返している、日課のようなものだ」 「毎回、感動するけど、変わらない日課だ」  二人の口調からすると、その繰り返し行っているルーティーンの日課に、変化が入ってしまったのだろう。 「はいはい、何か困る事があったわけね」 「…………そう」  素直に返事をされてしまうと反論できず、続きを聞かなくてはならない。 「その日は、大漁で……」 「これは、魚を持って水瀬の所に行くかと考えていた」  朝と言っても日の出前で、大漁だったので早めに切り上げたらしい。 「車に移動していると、声がした」 「周囲は真っ暗で、足元を照らしていたライトで周囲を見たが、誰もいない」  声は、それでも続いていた。 「声はか細い女性の声で、しっかりと日本語を話していた。駐車場に近付いていたので、道路の方角かとも思ったが、誰もいなかった」 「周辺は背の低い草地しかなくて、その向こうには畑があった。だから、見通しが良かった」  木が生えている箇所もあったが、かなり遠く、そんなに離れていたら、か細い声は聞こえないだろうと判断した。
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