3

2/2
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 ゆっくりと、時間を掛けて二人の関係が変わっていく。  何度もキスを繰り返せばその内、肌に触れたくなった。そう思っているのは宮内だけではないようで、ある晩秋本の寝室に誘われる。恋人になってから同じベッドで眠るのは初めてだ。そもそも同じベッドで眠るというのは、つまり『そういう事』なのだろう。  秋本も自分と『そういう事』をしたいと思ってくれている、という事実は宮内を歓喜させたが、同時に不安も残る。これまで秋本は女性としか付き合った事が無いと言っていた。秋本からの好意や愛情と言った物は痛い程感じるが、それと性的興奮はまた別の話だろう。柔らかさの欠片も無い、骨張った身体。確かに肌は白い方だが、抱いて気持ちの良い物でも無いだろう。果たして秋本は本当に自分と『そういう事』が出来るのだろうか――。  そんな緊張した宮内の肌に秋本は優しく触れ、溶かし、全ての不安を丁寧に払拭した。そうして数度目の同衾で晴れて二人は身体を重ねる。女性の高い声しか耳にした事が無いであろう秋本に、だらしのない男の声を聞かせる事に躊躇いはあったが、何度も「声を聞かせて欲しい」と懇願され、また過度な快楽で宮内の唇は解けた。それに秋本は微笑みながら、何度も宮内に「可愛い」「好きだよ」と囁いてみせる。重ねた身体は確かに興奮していて、こんな身体でも秋本を喜ばせる事が出来るのかと、宮内は胸が熱くなった。  いつも余裕のある大人と言った体の秋本が、男の自分に興奮して腰を振っているという事実に、宮内もより一層昂り互いに達する。そうして初めての性行為は終わった。  慎重に二度目を過ごし、衝動的に三度目をこなし、四度目、五度目のセックスはもうなし崩しだった。良い歳なのにこんな快楽に飲み込まれてしまうという事実は宮内に背徳感を植え付け、やがてそれを快感と混同させる。  もう何度目か覚えていない程、二人は互いの身体に夢中になっていった。     開いたままの窓から風が吹き込む。春らしく温かく柔らかな風だった。 「こっちもう終わったぞ」  自室だった部屋から顔を覗かせた秋本に、丁度良かったこれ動かすの手伝ってくれますかとテレビラックの端を掴みながら言う。片方ずつ持ち上げ移動させればフローリングの色を変える程の埃が溜まっていた。 「うわ、埃すごいな」 「……もしかしたらここに越して来てから掃除してないかもしれません」  えぇ、と眉を顰める秋本に「という訳でここお願いします」と使い捨てシートのパックとモップを渡す。シートを引き出しモップにセットしながら「業者は何時に来るんだっけ」と彼が口を開く。 「十四時の予定ですけど、ちょっと遅くなるかもしれないってさっき連絡がありました」 「そっか。じゃあこれが終わったら昼飯買いに行こう」 「せっかくなんで食べに行きませんか」  おっ良いなぁ。そう笑いながらモップを掛ける秋本は随分と手慣れている。  アパートの更新を何度か経て、もう少し会社に近い場所で暮らした方が良いのではないかという結論に至った。互いに良い歳だ。せっかくならマンションを買おうと方々を見て回り一つの物件に決める。  名義は共同で、契約書に並んだ名前を見て秋本が相好を崩す。二度目の不動産購入でも浮かれるのか、と思った宮内の視線に気付いたのか「いや、実は」と胸の内を吐露した。  わざわざ変える必要も無かったのでアパートの契約者はずっと宮内のままだった。それがヒモのようで嫌だったのだと言う。家賃も光熱費も、毎月秋本はきちんと半額、宮内に送金していたのにも関わらず、だ。 「だからヒモじゃあないでしょう」 「うん……でもそこはほら……気持ちの問題というか……」 「――そんな風に思っているのなら、もっと早く引っ越しても良かったのに」 「いや、ここはここで思い入れがあったから」    そう言いながらリビングを見渡す。ソファーは布が破れ掛けていたので処分してしまった。カーテンも安物だったし新居の窓のサイズが合わなかったので捨てた。ローテーブルやキャビネットは午後から来る業者に運んでもらう為に部屋の隅に寄せてある。それだけで随分とガランとした印象を受けた。  「まさかこんなに長くここに住むなんて思いませんでした」  ぽつりと宮内が呟く。最初にこの物件を選んだ時、長くて五年程しかいないだろうと思っていた。引っ越しは手間だが別に思い入れのある場所な訳でも、会社に近い土地でも無い。一人きりで暮らしていたら、恋人が出来なければ、秋本と――恋人になっていなかったら、何の躊躇も無くここを去っていただろう。 「確かになぁ」  モップを片手に秋本が頷く。辛うじて残っているレースのカーテンが風に膨らむ。 「明後日の出勤の事を考えると気が滅入ります」  今日、明日は互いに有給を取って部屋の掃除に励んでいる。二日分の溜まった仕事を片付けるのが億劫だが、それ以上に気掛かりな事が宮内にはあった。その言葉を受けて秋本が笑う。 「ははは、宮内は確かにそうだろうな」 「いや、秋本さんだってきっと面倒な事になりますよ」    恋人になってからもう随分と長い歳月が流れた。そろそろ良い機会だろう、と三ヶ月前新居を決めた日にベッドルームで渡された小箱の中身は今、宮内の左手の薬指で光っている。  何で俺のしか無いんですか、秋本さんのも同じ店で買いますよ、それまでは絶対に受け取りませんと言い、完成した指輪を送り合ったのが昨日だった。明後日、これを着けて出勤したら目敏い女性達に質問責めに合うのだろう。考えるだけでゲンナリする。 「それでも着けてくれる宮内部長は可愛いなぁ」 「……秋本本部長程じゃありませんよ」  昨年の人事異動で互いに昇進した。慣れない肩書きと、次から次へと舞い込む仕事、部下のマネジメントに、取引先との会議――。そんな事に翻弄される毎日だった。  特に宮内は部下とのコミュニケーションの取り方に難儀していた。秋本から充分そういう事を教わったつもりでも、見ているのと実践するのではまた違う。秋本に尋ねればどういう方法が良いか、自分ならこうすると教えてくれるのだろう。けれどそれでは意味が無い。今の彼らの上司は秋本では無く、宮内なのだ。秋本もそれを分かっているのか、仕事の事には口を出さない。どうにもならなくなった時にだけアドバイスを貰いたい。そう宮内は考えている。  シンクの掃除をしながら秋本が呟く。 「しかしまぁ、十年前にはまさか宮内とこんな関係になるなんて思っていなかったよ」 「そうでしょうね、俺もです」 「離婚を突き付けられた時の俺に言ってやりたいよ」  これから先の人生、良い事もいっぱいあるって。そう笑った秋本の目尻に寄った皺が愛おしい。共に過ごした年月の長さを物語っているようだった。 「あの時、本当に宮内に救われたんだ」 「俺だって――言っていないですけど、秋本さんに何回も救われましたよ」  入社し仕事を教わりながら、他人との関わり合いを教えて貰った。良い社会人とは、上司とは、そして恋人とは。人を愛するという感情を教えてくれたのは他の誰でもない秋本だった。  秋本が宮内を変えた。三十年間培った常識や当たり前だと思っていた事を覆して大きな変化と共に宮内を救ってくれた。    え? いつだ? いつの事だよ、俺は何もしてないぞ。そう驚くような表情を浮かべる秋本に笑う。教えませんよ、という言葉に不貞腐れた表情を寄越されたが、別に今じゃなくても良いだろう。二人の時間はまだたくさんある。  薄く微笑みながらカーテンの隙間から漏れた光をそっと掬った。 
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!