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 上司である秋本がここ最近結婚指輪を着けていない事に、宮内は数日前から気付いていた。自らから気付いた訳ではなく、女性社員がそう言っているのを耳に挟んだのがキッカケだ。女性というのはこういう所にやけに目敏い。別に指輪を外したい気分の日もあるのだろう――独身の宮内には分からないが。  しかし二日経っても三日経っても秋本の薬指に見慣れたプラチナの輪が戻ってくる気配は無い。外回りのついでに外で昼食でも、と入った蕎麦屋で思い切って尋ねる。 「指輪、どうしたんですか」  宮内の言葉が意外だったのだろう、秋本が驚いた表情を浮かべた。普段からあまり雑談を好まない宮内の発言にしては俗な物だったからか、言い辛い内容だったからなのか秋本の唇は一向に動かない。流れた沈黙に、立ち入った事をすみませんと会話を切り上げようとしたが、目の前の上司は困ったように微笑み「いやぁ」と薄い唇を開く。 「実は離婚したんだ」 「えっ」 「ははは、驚いただろ……俺もだよ」  そう言って壁に視線を向ける。老舗の壁は手入れされてはいたが、見つめて面白い物でも無いだろう。いつも柔和な瞳は珍しく悲しげで憂いを帯びていた。 「それは……その、すみません」 「いや、どの道言おうと思ってたから良いんだ」    宮内雅樹(みやうちまさき)は今年30歳になるサラリーマンだ。世間からは『一流』とか『上場企業』と呼ばれる商社の社員で、卒業した大学も国立の中では上位の偏差値を誇る物だった。自身の外見にそこまで頓着している訳では無いが側から見れば『眉目秀麗』の顔立ちで、立ち振る舞いには品がある。  一応身に付ける物には年相応気を使っているし、身なりは小綺麗にしているつもりだ。180を越える身長、柔らかな栗色の髪の毛、少し中性的な雰囲気だが骨張った手首や指、細い首にしっかりと浮き出た喉仏。もちろん給料も悪くない。  そんな彼は異性からの引く手数多だった。歴代の恋人は全て女性側から告白されて付き合っていたし、その辺りを歩いているだけで声を掛けられる事もある。しかし社会人になってからそういう類の付き合いは全て断っていた。  異性にさ程興味が無いのは学生の頃からだったが、最近では他人に対して興味が無い。さすがに仕事をスムーズにこなす為に最低限の交流はしているが、不要な付き合いはしたくなかった。礼節を弁えてはいるが誰も彼もが宮内に対して『素気ない』という印象を持つ――そういう男だった。  そんな宮内が唯一と言って良い程に心を許し、尊敬しているのが上司の秋本だ。    秋本肇(あきもとはじめ)――宮内の七つ歳上の男性だ。宮内とは正反対で柔らかい空気を纏い、愛想の良い手本通りの『良い人』だった。上背は宮内よりやや大きいらしいが、少しだけ猫背なため威圧感は無い。部長という肩書きを持ち、他の役職者からも取引先からも部下からも信頼されている。普段職場ではスーツなので分かり辛いが、私服のセンスは少しだけ悪い。  秋本は宮内が入社した時から既婚者だった。わざわざ既婚者だと彼の口から告げられた訳では無いが、薬指の銀色が愛する女性がいる事を教えてくれる。どこからともなく流れて来た噂で伝え聞いた話によると、相手は取引先の女性らしい。それに対して特別な感情も無いまま業務をこなしていれば、程なくしてその女性と宮内が遭遇する事になった。  取引先なのだから当然だろう。    大人しそうな、人の良さそうな女性だなというのが第一印象だった。綺麗と言うよりも可愛いタイプ。その場には秋本もいたが何も知らなかった宮内はそのまま仕事の話を始めた。秋本という苗字も珍しい訳ではないから、偶然同じ姓の女性が担当になったのだろうと思っていただけだ。  しかし段々と言葉を交わしていく内に違和感を覚える。秋本も女性もプライベートの会話を口にした訳ではなかったが交わす視線は親しい間柄のそれだ。もしやと思った宮内に気付いた秋本は、会議を終えエントランスでエレベーターの到着を待っている間にようやく「実は、妻なんだ」と紹介した。頭を下げよそよそしい挨拶を交わす宮内と妻を秋本は可笑しそうに見つめてた。  直接会ったのはその一度きりだったが、二人が仲睦まじいのだろうという事は鈍感な宮内にでも分かる。  それなのに、なぜ。    当然離婚した経験など宮内には無いし、周囲でそういう選択をした人間もいない。こんな時にどんな言葉を掛けるのが良いのか分からず黙っていると「あ、気を遣わないでくれよ」といつもの人の良さそうな表情で微笑まれる。それがより一層、宮内の良心を蝕む。 「不躾な、質問でした」 「良いんだよ。大丈夫だ」 「マンションは…………奥さんが、出ていかれたんですか」  一昨年ローンを組んでマンションを買ったと言っていた事を思い出し、そう尋ねる。笑いながら首を左右に振って「いやぁ」と歯切れ悪く答えられた。 「マンションは売る事にした。とは言っても彼女が出る準備を終えてからだけど」  その言葉に秋本が出て行ったのだと知る。けれど彼の郷里は四国だと言っていた。頼れる実家も遠く、唐突に家を追い出された彼は今どこに帰っているのか。宮内の疑問が伝わったのか苦笑される。    注文したざる蕎麦と天ざるが来たので一旦会話が止まった。妙齢の女性店員が新規の客に応対しながら慌ただしくテーブルから去っていく。どうにも話の腰を折られたような気がして宮内から口を開く事が出来ない。  箸袋から割り箸を取り出し割れば綺麗に二つに割れたが、秋本のそれは片方だけがやたらと大きくもう片方は尖っていた。何だかついてないなぁ。そう苦笑しながら蕎麦に手を付けたのでそれに倣う。暫く無言で蕎麦を啜った。やがて秋本がぽつりと呟く。  「今は……マンスリーマンションで寝泊まりしてるんだ」 「えっ」  早く住まいを決めたいんだけれど最近忙しいだろ。なかなか不動産屋にも行けなくて、その……仕方なく。  そう言いながら舞茸の天ぷらを摘んだ秋本を、宮内は驚愕に染まった表情で見つめた。確かに部長である彼は金に苦労しないだろうが、無限に湧き出る物でも無い。まぁ、仕事がひと段落すれば休みの日に行けるだろうから、と薄く笑う。複数のプロジェクトを抱えた秋本が言うひと段落とはいつの事なのだろうか。宮内はそう思いながら箸を持ち直した。  ここの蕎麦美味いなぁ。呑気にそう呟く秋本の顔を見つめながら口を開く。殆ど無意識に言葉が溢れた。 「秋本さんさえ良ければ、うちに来ませんか」  駅から歩いて15分。ギリギリ徒歩圏内の物件は間取りの割に家賃が安い。2LDKの間取りは一人暮らしだと持て余すかとも思ったが、オフシーズンの衣類や家電を押し込んだりスーツケースのような嵩張る物を収納するのに使っている。別に収納スペースが足りない訳ではないから、そこさえ片付ければ人一人寝泊まりさせるくらいのスペースは出来るだろう。  最初は宮内の申し出を断っていた秋本だったが、やはり本音はこのまま割高なマンスリーマンションで寝泊まりをするのは良しと思っていなかったのだろう。最終的に宮内が迷惑でないのなら、と頷いた。  宮内自身、世辞や建前を口にするタイプではない。物の弾みで飛び出た言葉だったが、秋本を案じる気持ちは本心だ。勿論です、何ヶ月だっていて頂いて結構ですよ。そう返した宮内に「本当にすまない……家賃もちゃんと払うし何でもするから」と秋本が頭を下げる。そんな彼の頭頂部を見つめながら、宮内は自身の口元が珍しく緩むのを感じた。      秋本肇という男性は仕事も出来て温和な完璧な人だった。肇という名に相応しく先陣切って取引先に乗り込み、クレームも、役職者の面倒な小言も、競合他社との契約の奪い合いも、彼がいればどうにかなった。もはやこの部署は……いや、会社は、秋本がいなければ機能しないと言っても過言では無い。つまり彼の両肩にのし掛かるプレッシャーは宮内が想像するよりも何倍も強く、大きい物なのだろう。  にも関わらず秋本は常に飄々としていて余裕があった。新人がどれ程大きなミスをしようとも、事務が桁数を間違えて見積もりを先方に送ってしまっても、面倒な顧客からの後出しの依頼にも、イラつく事など無く「困ったなぁ」「弱ったなぁ」「厳しいなぁ」と少しもそんな事思っていないというような声で返すだけだ。  宮内自身、仕事は人一倍こなしているという自負がある。元々物覚えも悪く無いし、何事にも効率を求めるタイプなので回ってきた仕事は誰よりも早く片付けられる。けれどどれ程早く正確に仕事をこなしても、秋本のように方々から慕われるような人間にはなれないだろうと理解してはいた。性格と言うか、持っている武器の違いというか、とにかく宮内と秋本ははあまりにもタイプが違う。そしてそんな秋本の事を宮内は尊敬していた。    元々宮内はあまり人好きするような性格では無い。歯に絹着せぬ物言いは敵を多く作るし、愛想も無く、だらだらと人付き合いをするタイプでも無かった。正直この会社に入れたのも学歴と、見本のような志望動機と、ペーパーテストの結果が良かったからだろう。人柄など一つも考慮されていないと思う。  とにかくそんな宮内だったが、初めて秋本と会った時には少し疑心を抱いていた。社会人になって初めての直属の上司が秋本で、配属先に連れていかれた人事に紹介される。他人の口から語られる秋本の経歴は輝かしく、それでいて腰は低かった。人事ともソツなく雑談をして見せる秋本を見つめながら宮内はぼんやり考える。  あまりにも完璧過ぎる。裏があるのではないか、腹の底では何を考えているのか分からない、誰にでも良い顔をする八方美人な性格――そんな印象を受けた。別に嫌いな訳ではないが、少し苦手なタイプかもしれないとすら思う。そんな宮内の胸の内が伝わったのか、よろしくなと手を差し出した秋本は、少しだけ困ったように笑った。    ほぼ出席が強制された同期との飲み会で、上司や仕事の愚痴が飛び交う。別に仕事の内容に不満も不平も無い宮内は、ただ黙ってジンジャエールに口を付けるばかりだ。酒が苦手な訳ではない。人並みには飲める。けれどこういう場所で勢いに任せてアルコールを摂取するのは、面倒事に繋がるような気がして気が進まないだけだ。 「良いよなぁ、宮内は。秋本さんが上司で。良い人だし仕事も出来んだろ」  この飲み会を企画した同期がそう言葉を向ける。それに「あぁ」とだけ返せば「えっ実際は違うの?」と食い気味に尋ねられた。 「いや、良い上司なんだろうな……多分」 「多分、って」 「確かに仕事は出来るけれど、いつもニコニコしていて……本心が分からない」  そう零せば「充分だろ〜」と茶化される。 「いつも不機嫌で当たり散らされるよりはずっとマシじゃん」 「……それは、まぁ。勿論そうだが」 「それにさぁ、上司なんて一緒に仕事するだけの仲なんだから本心なんて分からなくて良いんだよ」  そう返され、それもそうかと納得する。所詮は職場での付き合いだ。仕事に誠実で、表面だけでもニコニコとして、当たり障りの無い耳触りの良い言葉ばかりを並べるだけでも良いのだろう。同期の言うように本心を知る必要も無い。  そんな風に考えていた矢先、大きなトラブルを起こしてしまった。一人で仕事を任されるようになって半年、入社して一年、少し気が緩んでいたというのもある。小さなミスは新人時代に何度か起こしてしまったが、今回のミスは規模が違う。  そんな久しぶりにやらかした宮内の失態を、秋本は嫌な顔一つせずに即座にリカバリーしてくれる。その処置の速さと正確さは大きなトラブルが生じたとは思えない程冷静で、同期の言っていた『良いよなぁ、宮内は。秋本さんが上司で。』という言葉の意味を宮内に痛感させた。  諸々が収束し、他の社員と穏やかに談笑する秋本を見ればその言葉を認めざるを得ない。そもそも宮内のような口数も少ない、直接的な物言いしか出来ない、謝罪も深々と頭を下げて「申し訳ありませんでした」の一言しか寄越さない男を部下に持っても小言の一つも言わない所か「全然気にしないでくれよ、宮内にはいつも助けられているんだから」と微笑むのだから本当に『出来た人間』なのだろう。手本通りの『良い人』なのだろう。あんなトラブルでもそれを崩さなかったという事はこれがこの人の自然体なのかもしれない――。  単純ではあるが、宮内はこの日から秋本に対する考え方を改めた。そして徐々に心を開いてゆき、その結果が2LDKの1を差し出すという物だった。   「随分と綺麗にしてるなぁ」  さっそく翌日、秋本を自宅へ招く。宮内に告げた事で吹っ切れたのか良いタイミングだと思ったのか、定例会議を終える頃一言「私事で恐縮なんだが、独り身に戻った」と秋本が同じチームの社員達に告げた。祝う事でもあるまいし、皆何と言って良いのかと気不味い空気が流れた。既にその事実を知っている宮内が気の利いた一言でも言えれば多少はどうにかなったのだろうが、生憎そんな技巧を持ち合わせてもいなかったので無言の時間が流れる。  結局秋本が笑いながら「この話はこれでおしまいだな。さぁもう定時だ、早く帰ろう」と無理に明るくその場を切り上げたので各々席を立った。何人かの女性社員が「良かったら友達紹介しますよ」「部長ならすぐ新しい人見付かりますよ」と秋本に言うのが聞こえる。上手く立ち回れなかった事を申し訳ないと思ったが、そんな事で頭を下げるのも違う気がして宮内は書類を揃え立ち上がる。  暫くの間、秋本と一緒に暮らすというのは口外していない。互いにそうしようと約束した訳ではないが、プライベートの事だし何より言う必要が無いからだ。ただ秋本の新しい住まいが見付かるまでのルームシェア。それだけの関係だ。    会社の最寄り駅から出ている私鉄に乗って三十分。各駅停車しか停まらないベッドタウン――と言えば聞こえは良いが、まだ開発中の田舎の駅で降車する。更に駅から歩いて十五分。築三年のアパートはかぼちゃのような派手な外壁とは裏腹に、無難な間取りだった。  小さめの玄関に備え付けの靴箱、三和土を上がってすぐ右手にトイレがある。その奥の扉を開ければ十二畳のリビングダイニングキッチン。キッチンの脇を通って正面の扉が寝室、その隣の扉が秋本に貸す事になった部屋で、どちらの部屋も六畳だった。秋本の部屋の正面に洗面所、そこから続くように風呂場がある。  一通り部屋の説明をした宮内に向けられた言葉が先程のそれだった。   「そうですか?」 「そうだよ、自慢じゃないけど俺の一人暮らしの時の部屋なんて酷かったぞ」  笑う秋本に何と返せば良いのか分からず黙る。確かに職場のデスクはお世辞にも片付いているとは言い難い。黙り込んだ宮内に慌てたように「ここではきちんと片付けるから」と言う秋本へ頷いた。さすがに生ごみを溜めるとか不衛生な状態にするタイプではないと思うが、一応念を押す。 「くれぐれもお願いします」 「任せてくれ」    それから共同生活を送るに際し軽い取り決めをいくつかした。食事は買って帰っても家で食べてもどうしても良い。毎朝早く家を出る方がゴミステーションにゴミを捨てる。なおゴミの分別はしっかりとする事。冷蔵庫は好きに使って良い。互いの部屋に勝手に入らない、女性を連れ込まない、食器は使ったら片付ける、風呂掃除は最後に入った方がする――。 「まぁこんな所でしょうか」 「うん、他に何か出てきたらその都度話し合おう」  それでは、と鍵を渡す。ファミリー向けの物件なのでスペアキーは他に二つある。銀色のそれが鈍く光り、秋本の手の中に収まった。  
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