匂わせ

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匂わせ

 E directionのツアーは今回、二月の中旬までの週末毎に各地のドームで開催される。その間も新曲のMV撮影や密着取材なんかも並行しているらしい。加えてライブ地のローカル番組への生出演等もこなしているというから、休む暇なんてないのではないかと栞は心配していた。 「だから、わざわざ電話してくれなくても大丈夫だよ。綾斗、忙しいでしょう? 少しでもゆっくりして欲しい」 『癒されるために電話してるんだよ。栞のことを抱きしめられないのなら、せめて声くらい聞かせて貰えないと頑張れない』  そんな甘いセリフを吐くあたり、またメンバーが近くにいて聞き耳を立てているのだろうと栞は苦笑した。 「ふふっ……大袈裟な」 『ホントなんだって。あ、ちなみに今はホテルの部屋に一人だから、別に誰も聞いてないよ』 「──えっ!? 一人なのにそんな演技してたの?」 『演技じゃないってば。いつも言ってるだろ? 可愛い可愛い奥さんである栞のことは、俺が嫌ってほど幸せにしてやるって』 「…………」 『栞?』  綾斗の歯の浮くようなセリフには慣れたつもりの栞だが、見え隠れする自分の気持ちに気付いてからは複雑な心境だった。 「もし……私が本気にしたらどうするの?」 『本気って?』 「その……そういうの……」  栞が言葉に詰まると、綾斗はフッと小さく笑った。 『大歓迎だけど? ていうか、直接会えないのにそんな煽ってこないでくれない? マジで我慢できなくなる』 「もう……綾斗はすぐそういうこと────」 『栞が悪いんだからな。帰ったら覚悟してて。ぜってー寝かせねぇ』  栞の気持ちに気付いたのか気付いていないのか、綾斗は冗談めかして笑い飛ばした。栞もつられて笑う。 「じゃあ、次の日寝坊しても許してね?」 『栞は寝てる姿も可愛いからなぁ。昼まででもゆっくり寝かせてあげたいし、無防備な寝顔見てたら手出しちゃうかも』  契約結婚とは思えないほど綾斗は栞を愛したがる。ただ性欲をぶつけているだけとも思えないが、栞には自分が求められる理由もわからなかった。 「ちょっと、変なこと訊くんだけど……」 『ん?』  昌磨はそこまで栞を求めてこなかった。付き合い始めこそ週末泊まったりすればそういう雰囲気にもなったが、同棲してからは徐々に機会も減っていった。年齢的に落ち着いてきたのかと思ったこともあったが、年上といえどもまだそんな年齢ではないだろうし、その類の欲のない男なのかと考えていたら門馬とは楽しそうにしていた。 「私と……その、して、楽しい?」  昌磨側の理由ではなく、栞自身に原因があったのではないか。 (反応がおかしかった? シンプルに魅力がなかった?)  ろくに男女交際をしてこなかった栞にとって、高校時代の彼氏はキスまでのライトな関係でしかなく、昌磨が初めての相手だった。だから何が正解かもわからないし、どこがダメだったのかも反省できない。  栞の問いに暫し無言だった綾斗は、ムッとした様子で答えた。 『それは、元カレが栞に酷いこと言ったのか?』 「……別に、直接何か言われたわけじゃないの。ただ……」  どう答えても昌磨と綾斗を比べることになる。栞が黙ると、綾斗は一転して優しい声色になった。 『楽しいとか気持ちいいとか、そういうのは後からくるっていうか。栞の色んな声が聞けるし、色んな表情や反応が見れる。栞の体温も鼓動も感じられる。それが嬉しいだけだよ。まぁ、栞はすげーイイ反応してくれるからこっちも止められなくなるのはあるけど』 「いい反応とか……言われたことない」 『それは栞への愛の大きさの違いだろ。あと単純にあの男が下手なんじゃねーの? 独りよがりっていうかさ。ほーら、俺がいかに栞を愛してるかわかっただろう?』  得意げな綾斗が可愛くて思わず笑ってしまう。今の栞はいつもよりも顔が赤くなっているから、これが電話で良かったとホッとしていた。  昌磨にそれほど愛されていなかったのかもしれないということより、綾斗がいかに丁寧に扱ってくれているのかがわかり、栞は嬉しくなった。 『もうすぐ退職だろう? 栞こそ忙しい?』 「私はそこまで。みんな優秀だから引き継ぎもスムーズだし。あ、綾斗の事務所の担当は弥生────私が一番信頼している同僚に任せることにしたよ」  先日弥生にオーアーツの担当を打診すると、あからさまに面倒くさそうな反応を見せた。しかし、栞もたまに顔を出せるかもしれないからと言って頼み込み、何とか首を縦に振らせることに成功したのだ。弥生の本心としては、毛嫌いしている門馬への嫌がらせ的な意味合いもあるのだろうが、どうであれ芸能事務所に私的な興味を抱かず対応してもらうためにも弥生が最適だと思っていたから、引き受けて貰えて栞の肩の荷が下りた。 「これで安心して退職できる」 『じゃあ事務所でもし会うことがあれば、栞の夫ですって挨拶しようかな? 仲良しなんでしょ?』 「そんなに出入りすることも多くないから会えるかわからないけどね」  基本的には契約さえ結んでしまえば、委託業者が品物を搬入するから担当者が出向くことは少ない。不定期に利用状況の現地確認をしたり、必要であれば内容の見直しをするくらいだ。 「……ねぇ綾斗」 『ん?』 「私、何かしておくことある? クリーニングは受け取ったし、キッチンとかお風呂とか水回りはピカピカにしておいたよ。窓ガラスも内側は磨いたけど、外はどれくらいのペースで業者入るの?」 『ちょ……待って待って。別にそんな色々してくれなくていいよ。栞は俺の奥さんとしてゆったり過ごしてくれてればいいから』 「でも……」  ただ養われているだけだと、何のために住まわせて貰っているのかわからない。役に立てることがあるならしておかなければ落ち着かないのだ。 『……なんで栞はそうなの? やっぱりあの男のせい? それとももっと過去に何かあった?』 「そう、って?」 『そんなに必死にしがみつかなくても、俺は絶対に栞を離さないから。栞が笑って暮らせればそれでいいんだよ』 「…………ありがとう」  はじめはただ、恩を返したいという気持ちから動いていた。だけど綾斗の優しさに触れるたび、栞は寄り縋る気持ちに支配されそうになっていた。  それを綾斗に悟られたら重たいと疎まれるかもしれない。栞はわざと明るく振る舞った。 「じゃあ綾斗、私はそろそろ寝るよ。綾斗もちゃんと休んでね!」 『ん? あぁ……』 「離れてるからって浮気したらダメだよ?」 『栞以上の人なんていないんだから、よそ見する余地もないよ』  それがもしも本心だとしても、たとえ演技だったとしても、今の栞にはその言葉だけで充分幸せだった。  この時は、本当に。 「堂島先輩って、浮気されるの趣味なんですか?」  二十時のオフィスには今、栞と門馬の二人きりだった。繁忙期でもなく締め日直前でもない今日栞が残業しているのは、門馬のミスの尻拭いのためだ。昌磨と別れたらしい門馬は仕事中も昌磨との連携を上手く図れず、昌磨が接待のため事務所を出てしまってから新規契約分の契約書に不備があったと気付いたという。不幸なことにこの契約についての知識がある社員は出払っていて、対応できるのが栞だけだったのだ。 「……へ? 門馬さんのために残業してるのに、よくそんなこと言えるね」  まさか婚約者を寝取った張本人からそんなセリフを聞かされるとは思いもよらず、栞は思わず素で気の抜けた声を出してしまった。 「しょうがないじゃないですか。私はまだ一年目ですし、ミスも仕方なくないですか?」 「……あなたはいつもそういう態度だけど、もうすぐ後輩も入ってくるんだよ? いつまでも新人でいられたら困るの」 「だってぇ、困ったら昌磨くんがやってくれたから。全然仕事覚えてないんですよぉ」 「呼び方は“課長”ね。その課長が助けてくれないから何もできないとでも言いたいの?」  昌磨は新卒で入ってきた門馬をすぐに自分の補佐に指名し、常に外回りにも同行させていた。あれだけ行動を共にしていれば横にいるだけでも仕事を覚えそうなものだと思う栞に、門馬は大袈裟な溜息を吐いて肩をすくめた。 「堂島先輩、今『なんで課長と一緒にいて仕事覚えてないんだ』って思いました? 甘いですよ。しょ……課長は私が可愛くてぜーんぶしてくれてましたし、何なら外勤の半分くらいはホテルでしたぁ〜!」 「最低な告白するじゃない……」 「ふふふっ。でも先輩は、人事とか部長とかに言わないでしょう? だって“イイコちゃん”だもん」  鋭い笑みを栞に向けた門馬は、ヘアオイルで束感を出している髪をひと掬いしてクルクルと指に巻き付けた。 「先輩はずっと変わらず優等生ですよね。尊敬します」 「絶対尊敬してない言い方……」 「ホントですよぉ? だって私、先輩がいるからこの会社に入ったんですもん」  門馬の発言に、栞は「え?」と目を見開いた。 「企業説明会の時の先輩、まだ若手なのにすごくしっかりしていて、他の企業のベテラン社員っぽい人達と比べても群を抜いて素敵でした。社外広報も見てましたよ。新入社員代表で挨拶してた記事も、先輩が三年目に一年間広報で連載していた記事も読んでました」  栞の会社では販売促進も兼ねて社外向けの広報誌を定期的に発行している。フリーペーパーとして都内各所に置かせてもらっている他、ホームページからバックナンバーも含めて誰でも読むことができるようにしている。  だから、門馬が入社前から広報を読んでいても不思議ではないのだが、栞から見た門馬はそこまで熱心に仕事と向き合うタイプでもなく意外だった。 「そんな顔するほど意外です? 私、これでもこの会社に憧れて入社してきたんですよ?」 「だったらもっと仕事覚えなさいよ……」 「あはっ! 坂口先輩が強烈だから目立たないですけど、堂島先輩も結構キツいこと言いますよねぇ~!」 「弥生のはもう暴言の域だから」 「……先輩は覚えてないと思うんですけど、私、入社前に先輩と会ったことあるんです」  企業説明会のことを持ち出されると、通常業務の傍ら相当な人数を相手にやり取りをしたのだから仕方ないではないかと思う栞だった。元より他人にそこまで興味もなく、仕事という理由がなければなかなか顔と名前を一致させられないのだ。 「あ、企業説明会の時も私、先輩に質問しましたよ。でもそれじゃなくて、その前に会ってるんです」  門馬の言葉で更に栞は混乱した。 「え……えぇぇ……? ごめん、ちょっと覚えてない、かな」 「ですよね。美人で仕事もできる先輩にとって、着飾ってるだけの空っぽな私なんてモブでしかないですよね」  珍しく自虐的な物言いの門馬は、小さく咳払いをして続けた。 「まぁ、先輩が忘れてるならいいです。でも、私はずっと先輩に憧れてたんですよ。ホントです」 「……なんで急にそんな話? 心配しなくても、別にあなたを訴えたりはしないし、さっきの話も誰にも言わないから────」 「あ、ご機嫌取りでもないですぅ。ただ、私そういうタイプなので」  何がどういうタイプなのか理解できずに首をかしげる栞に、門馬は語気を強めた。 「私、すぐネットとかで色々調べちゃうんです。あ、粘着じゃないですよ? 探求心が強いって言って下さいね?」 「何も言ってないじゃない……だったら仕事ももっと」 「あーあー! それはまた別です! とにかく! 聞いて下さい!」  聞いてと言いながら、門馬は栞の目の前にスマホの画面を見せてきた。 「いや……何?」 「これ、某女優の裏垢と思われる呟きなんですけど」  近過ぎてよく見えなかった画面を改めてしっかり見ると、どこかのホテルからの景色だろうか、ガラス越しに夜景が広がっており、人物の顔は写っていないもののスマホを片手に持つ女性が一人ガラスに映り込んでいた。 「……?」 「これ見て何か気付きません?」  門馬に問われ再度画像を見直す栞だが、女性はバスローブを着ているらしく少しセクシーだなという点と、いい部屋なんだろうなと思わせる内装が映り込んでいることしかわからなかった。 「これだから!! 簡単に寝取られるんですよ!!」 「えぇ~? ……いや、もう何なの? 上げて落とす嫌がらせ?」 「親切心! じゃあこれ、この前の呟き見て!」  タメ口を指摘する暇もなく再び画面を突き出された栞は、仕方なく画面をスクロールしていくつかの呟きを読んだ。 『今日は彼に合わせて真っ赤なリップ』 『たまたま現場が近かったからひっそりランチデート。名古屋の日はこのお店が定番』 『束の間の東京。お家よりホテルなんて、いいのかなぁ? 私は嬉しいけどね』 『来月のオフは弾丸北国ツアー! 最終日のトクベツな夜』  恋愛中の女性が楽しそうに呟いているだけじゃないかと怪訝な面持ちでスマホを返すと、門馬はまた先程の画像を栞に見せた。 「はい、じゃあもう一回これ見て。室内には何が写ってる?」 「……なんなのよ……」  目を凝らして見ると、呟いていた物だと思われるリップがテーブルに置かれているのと、パーカーが脱ぎ捨てられているのに気付いた。 「女優さんなんだっけ? パーカー脱ぎ捨てて、ちょっとだらしないね……?」  精一杯の推理を披露した栞に、門馬は渾身の溜息をお見舞いした。 「このパーカー見てもその反応!?」 「えぇ? だって、この女優さん? のこと、よく知らないし……」  裏アカと言われた通り、ユーザー名も適当なもので本人の顔も載せていないし、仕事についても明言していない。突然見せられても、芸能人に興味のない栞には何のことだかわからなかった。 「本気ですか? こんな隙だらけだから、自分の男が狙われるんですよ」  気持ち程度の敬語を取り戻した門馬が厳しい口調で栞を責めた。 「あーやって、今全国ツアー中ですよね? さっきの名古屋ランチデートの日、あーやはどこで仕事してました?」  綾斗の名前を出され、栞にもぼんやりと門馬の言わんとしていることが見えてきた。もう一度投稿日を見ると、それはナゴヤドームでライブがあった日だった。その流れでいえば、きっと来月の北国とは札幌ドームの日のことだろうと予想する。  束の間の東京というのは、今週末のライブ会場が東京ドームだからだろう。栞は綾斗から、途中東京も挟むが家には帰れないと聞いていた。理由はそのタイミングでスタジオに篭って次のアルバムのレコーディングがあるからだと説明を受けている。 「うん、気付きましたね? じゃあ次。あーやのメンバーカラーは?」 「め、メンバーカラー……?」  栞にとって聞き慣れない言葉が急に出てきて困惑していると、信じられないと大袈裟に驚く門馬が胸を張った。 「そんなことも知らないで結婚できたんですか!? アイドルってね、メンバーごとにテーマカラーが決められてることが多いんです! イーディレもそれぞれ色があって、あーやは赤!」 「赤いリップは流石にこじつけじゃ……?」 「甘いです先輩。このリップはただの赤リップじゃない、イーディレメンバーがイメージキャラを務めるブランドのものです。それじゃ最後、このパーカー!」 「黒じゃん」 「ちっがーう! よく見て下さい! これは何度かあーやがテレビでも着てたお気に入りのパーカーです!」 「えぇ? そんなことわからないよ。テレビで綾斗のこと観ないもん。お気に入りって言われても家ではそんな服着ないし」  ドンキのスウェットを愛用していることは、一応イメージ保持のため伏せておく。 「うあぁぁぁ……そうやってマウント取ってくるんですか!? 酷い……」 「何なの、もう……」  門馬とのやり取りに疲れた栞が投げ出そうとすると、門馬は栞の肩を掴んで揺さぶった。 「いいんですか!? これって浮気じゃないですか!? 彼女、めちゃくちゃ匂わせてますけど!?」 「いいも悪いも、綾斗に訊いてみないと何とも……」 「それが正妻の余裕ってやつですか!? 結局私が昌磨くんと別れたからどうせ浮気程度大丈夫とでも思ってます!? 相手は昔あーやと付き合ってたって噂もある、女優の益地(ますち)志桜里(しおり)ですよ!?」  栞と同じ“しおり”という女性が、綾斗と過去に付き合っていた。  匂わせがどうだとかそんなことよりも、綾斗が栞を呼ぶ自然な響きにそんな過去が隠されていたのなら、用意されていた婚姻届にもやはり別の理由があったのではないかと勘繰ってしまう。 「あぁ……結婚発表した時に相手は誰だってなって、挙がってた名前だ?」 「そうですよ、それは知ってるんですね」  栞でも知っている有名女優で、そんな大物じゃなく一般人で申し訳ないと思っていたからよく覚えていた。 (栞以上の人はいないって、そういうことだったのかな?)  栞が脳内で勝手に“栞”と変換していただけで、綾斗はずっと“志桜里”に愛を囁いていたのだろうか。栞は志桜里の身代わりだったのだろうか。 「だったら、もっと本気になる前に知れてよかったかな……」  ポツリと漏らした言葉は門馬には聞き取れなかったらしく、栞は大きく伸びをして仕事を再開したのだった。
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