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偽りの真実
『奥様のシオリさんは東くんより二歳年上だそうです。何でも同じ出身地らしく、東くんがデビュー前、まだ地元にいた頃に出会っていたとか。当時東くんがシオリさんに片想いしていたそうで──まぁ、淡い初恋ってやつですよね。ただ、少年少女にその年齢差って難しいでしょ。結局その時は東くんの片想いで終わったらしいです(知人・Aさん)』
『傷心の彼女を半ば強引に落としたとか。やっと回ってきたチャンスとでも思ったみたいですね。えぇ、綾斗君がとにかく押しまくったみたいです。それで彼女が根負けした形で。彼本人から聞いたんで間違いないですよ────アイドルと一般人なのにって? そりゃあ、あの彼女なら綾斗君であろうと必死で口説こうとしますよ(関係者・Bさん)』
オーアーツからの正式発表と同時に大槻が懇意にしているという記者からネット上で公開された記事では、そんな出所の怪しい証言を元に事細かく馴れ初めが書かれていた。
「……これじゃあ私へのハードルが上がってしまうのでは……?」
先に寝ててというメッセージに従ってベッドに潜り込んでいた栞だったが、綾斗が帰宅した午前一時過ぎでもまだ眠れずにいた。だからそのまま起き上がり、綾斗のために夕飯を温め直して栞もダイニングで彼の向かいに腰を下ろしたのだった。
嬉しそうに栞の手料理を頬張る綾斗は、メンチカツを飲み込んで口を開いた。
「いや、そんなことないよ。現にネットの書き込みだって、栞のこと美人だって認めてるものばかりだ」
「それはそうだよ。ネット上で私の顔を不細工だなんて言おうものなら僻みだって言われるでしょ? 否定されるような顔ではないもの」
栞に婚約者がいたという事実は変に隠したり誤魔化すと後から面倒な広がり方をするかもしれないということで、あえて公開することになった。ただし、そこは“ネット上の噂”がある程度流れてから“認める”という形を取る。今は綾斗のマネージャーである長尾を中心に、オーアーツのごく一部のスタッフが噂の種を蒔いているところだ。それに対して本当の一般人の栞を知る者が肉付けていくらしい。
「ねぇ、綾斗。これが芸能界の日常なの?」
「ん? これって、こういう工作のこと?」
爽やかに聞き返す綾斗に頷いて見せる栞は、こうして操作された情報で過去どれだけの人が既成された事実を鵜呑みにしてきたのだろうかと考えていた。
「こういうことも必要ならするってだけ。いつもじゃないよ」
そう微笑む綾斗の回答は三割程度しか信じないことにして、栞はスマホ画面をスクロールさせて長尾達が蒔いてくれた噂を確認してみる。
『あーやの結婚相手、少し前まで彼氏と同棲してたと思う』
『傷心の彼女をオトしたって記事見たけど同棲解消してすぐってこと?』
『同棲相手とは婚約してたらしい』
一応前もってどういう内容で発信する予定なのかは聞いていたから、栞もある程度はわかっているつもりだった。でも実際に自分の失恋話が全世界に発信されてしまったのかと思うとやはり複雑な気分だった。
事務所の人間が書き込んだと思われる投稿の流れに、栞の知人らしき人達がポツポツと語り出した。これだけ栞に関する情報が出回り始めているのなら自分が少し語っても特定されないだろうと判断した者が現れ始めたのだ。
『何年も付き合ってたと思う。同棲も長いはず』
『かなりのしごでき。あとすげー美人』
『元婚約者は同じ職場の上司』
『仕事中は一切その上司と付き合ってる素振り見せなかったから公私の区別徹底してる』
噂されている当の本人である栞が読んでいても、誰がどれを書いているのか全く分からなかった。昌磨と付き合っていたことは自ら言うことはなかったものの、総務や上司は住所の関係で知っていたし、特別な口止めなどしていないからどこまで広がっているのかは栞のあずかり知らぬ部分だ。仕事への姿勢や人間関係においても良く見られるように振る舞ってきたのだから職場での評価が高いのも自然だし、ネット上での口調と対面でのそれは違うから尚更判断がつかない。
栞と同じ職場らしい人による書き込みが増えてきた頃、再度長尾達スタッフが燃料を投下する。
『綾斗の奥さん、婚約者寝取られたから別れたんでしょ?』
『同棲中の自宅で浮気されたとかトラウマだろ』
自分の現状をこうして他人に曝されることで客観視した栞は、我ながら酷い目に遭ったものだなと改めて実感した。
「栞、このメンチカツどこの? 粗挽き肉がジューシーでめちゃくちゃ美味いから俺も買いたい。練習の時とかメンバーに差し入れようかな」
肉のおかずが好きなのだろうかと微笑ましく思いながら、栞は少し照れくさそうに答えた。
「それは私の手作りだよ」
「えっ!? 仕事の後作ったんだよね?」
「うん。今日は早く帰れたし、時間あったから」
「だとしても、大変だったんじゃない? 栞の手料理なんて死ぬほど嬉しいけど、時間がなかったり疲れてたり、そうじゃなくても面倒だと思ったら買ってくるだけでもいいんだからな? 俺が早く帰れる日なら俺だって作るし」
帰宅してから米を炊き、その間にメンチカツとサラダとスープ、簡単な副菜を作っただけだ。品数も多くないし、メンチカツ自体もそう手間はかからない。
「気遣ってくれてありがとう。でもホントに、これくらい全然苦じゃないから。むしろ、こんな庶民的なご飯なんて食べてもらえないかもって思ってたから……食べてくれて嬉しい」
品数の少なさを責められるかもしれないなんて思っていた栞は、まさか手を抜いてもいいといったコメントが返ってくるとは考えてもみなかったが、すぐに相手は昌磨ではなく綾斗なのだと思い直す。綾斗はあの男とは違うのだ。強引なようで栞のことを優先して考えてくれる優しい人なのだから、文句など言われるはずもなかった。
そうわかっても、忙しくて疲れているはずの綾斗が自ら作ってもいいとまで言ってくれるのは栞の想像以上の優しさだし、これほど喜んで食べてくれるなんて作り甲斐もある。自然と表情も綻んでしまった。
「……可愛い」
「もう、すぐそういうこと言う」
「栞は美人な上に頑張り屋さんで、料理上手。仕事もできて完璧じゃん」
褒めちぎってくる綾斗はニコニコと食べ進め、すぐに完食した。
「ご馳走様でした! すっげー美味かった!」
少年のように無邪気な笑顔で手を合わせる綾斗を見て、栞は心が温かくなった。人に料理を振る舞ってこれほどまで栞自身も嬉しくなる反応が貰えたのはいつぶりだろうか。
「綾斗が帰ってくるの、こんな時間になるのに揚げ物なんか作っちゃって……もっと考えればよかったね」
喜んでくれたのは本当だろうが、アイドルならば美容や健康にも気を遣うべきなのかもしれない。今更悔やむ栞だったが、綾斗はニヤリといつもの得意げな表情を見せた。
「これくらい食べても平気なくらい動いてるから大丈夫。それに、好きなものを好きな時に食べてストレス溜めないのも俺なりの美容法だよ」
今日は歌番組の収録後、ライブに向けた打ち合わせと練習があったのだという。この寒い年末に汗だくになった服を洗濯に出してきた綾斗は髪の毛のセットも崩れていて、別の仕事の後だというのにかなりハードな練習だったのだろうと窺えた。帰宅早々空腹だと言っていたし、案外このメニューも悪くなかったかもしれない。
「それならいいんだけど……────あっ」
「ん?」
当然のように自分で食器を片付けようとする綾斗を制止する。
「私がやるよ。綾斗はシャワー浴びるでしょ? 行っておいでよ」
「ありがとう。優しいね」
家事を任された以上、それは栞の仕事だと思っている。そうでなくとも綾斗には世話になりっぱなしなのだから、後片付けくらいなんてことない作業だ。
「……綾斗こそ、優しいよ。私がやるべきことをやるだけでありがとうって言ってくれるなんて」
「そんなの当たり前……────あぁ……俺は、栞に色々してあげたいし、してもらえることには感謝するよ。愛情も嫌ってほどかけるから」
綾斗は自分の思う当たり前が栞には新鮮なのだと気付いた。栞から少し聞いているだけでも分かるくらい、昌磨はそんな“当たり前”なんて持ち合わせていない。
「……それは、家では別に程々に……」
契約結婚なのだから、人前ではそれでもいい。だけど二人きりの時まで栞を溺愛する綾斗を演じる必要はないのにと遠慮する。
「つれないなぁ。あ、一緒にシャワーに────」
「入りません!」
「あはは! ごめん、じゃあ食器任せて入ってくるわ」
こんなふざけた会話だったが、栞にはありがたかった。綾斗と話していると暗い気持ちを忘れるし、少しだけ現実逃避できる気がしていた。これもアイドルの能力なのだろうかと考えつつキッチンを片付けた栞は、リビングのソファに腰掛けてスマホを見た。
『アイドルとか興味ない人なのに意外』
栞の話題は、少し目を離していた間に趣味嗜好にまで及んでいた。
『休憩の時とかよく本読んでた。ミーハーとは正反対の位置にいるタイプ』
『推しとは逆に付き合えなくない? 興味なかったからこそ結婚したんじゃね?』
『マジでそれ』
その書き込みでは栞がどういった人物で綾斗に相応しいのかどうかといったやり取りが多かったが、推し云々は栞にはよくわからない話だった。推しと好きとは違うのだろうか。門馬は栞が自分の推しと結婚したと知ってかなり腹を立てていたし、好きだから悲しいとか悔しい気持ちになるのだと思っていた。
「んん……?」
「どしたん? 変な顔して」
バスルームから戻ってきた綾斗が楽しそうに栞に近付く。ふわりとシャンプーの香りが広がった。
「え、どんな顔してた?」
「面白くて可愛い顔。美人ってホントどんな顔でも様になるね」
「……あのね、なんか“推し”って概念がよくわからなくて」
「スルーするじゃん」
綾斗も栞の隣に座り、背もたれに体を預けた。
「推しとは付き合えないって書いてあったの。好きなら付き合いたいんじゃないのかなって思うんだけど」
「あぁ」
それはね、と綾斗が説明する。
「まぁ一言で片付けたら個人差なんだけどさ。アイドルファンって何種類かいるんだよ。細かく分けたの説明するのは長くなるからざっくり言うね。まずガチ恋──こう、アイドルを恋愛対象として見てて、恋人の座におさまりたいってタイプ。この手のファンは正直怖いなって思う。結構なりふり構わず近付いてこようとするから……」
迫られた経験でもあるのかもしれない。綾斗は小さく身震いした。
「あとは、箱推ししてくれるファンって俺は割と好きだよ。あ、箱推しってのは特定の誰かって感じじゃなくグループ全体を応援してくれるの。賛否分かれるけど、イーディレごと好きになってもらえるってやっぱ嬉しいし、俺は歓迎」
「仲の良い友人同士なんだもんね?」
「うん、そうだね。メンバー仲悪かったら箱推しするファンは嫌厭されがちかも。結局はメンバーを仲間と見るかライバルと見るかで変わるよね」
広く浅くという感じなのだろうかと栞が訊ねると、綾斗は首肯した。
「だね。箱推ししてる子って他のアイドルも色々応援してる子多いし。アイドルをエンタメとして楽しんでくれてるんだと思う」
「じゃあ、推しと付き合えないタイプは?」
「ガチ恋とも違うけど、熱心にこう……崇拝する感覚で熱を込めてくれる人達もいるんだよ。なんだろ? 神とかそんな感じで……?」
「神」
栞が目を丸くする。
「アレだ、まさにアイドルを偶像として崇めてるんだと思う。そういう人は推しのことは凄く好きなんだろうけど、気軽な好きじゃなくてね。神社で手合わせても神様と恋愛したいなとか思わないでしょ? 多分それなんだと思う」
よくわからないけど、と綾斗は付け加えた。
「なるほど……?」
栞は曖昧な返事をして首を捻った。共感は覚えないが、なんとなくの理解はできた気がした。アイドルの世界は難しい。そう呟くと綾斗は笑った。
「細かいことは俺も正直わかんないよ。でも、別に一般人だってそうでしょ? 友達として好きな人、先輩として憧れてる人、尊敬する人、好意を抱いても恋愛感情に直結しないじゃん?」
「あぁ、その説明がわかりやすいかも」
「……で? どんな感じ?」
綾斗に訊ねられ、栞がスマホの画面を見せた。
そこには、栞がどういった経緯で同棲相手の家を出て今に至ったのか、普段はどんな風に過ごしているのか、八割方正しい情報が記されていた。
「ネットって怖いね。全部丸裸にされちゃう」
冗談めかして軽い口調で言った栞だったが、綾斗は真剣な眼差しで栞を見つめた。
「…………ごめんな。こんな世界に巻き込んで」
栞のスマホを手に取って画面を伏せた綾斗は、栞の肩を抱き寄せた。
「わっ……────」
綾斗の鼓動が耳から伝わると、栞はこの胸の中で落ち着く自分と、震えていた手に気が付いた。
「怖いに決まってる。自分が知らない人が自分を知ってるって、俺だって怖いことがあるくらいだ。そんなの無縁だった栞が辛い思いするなんて当然だったな」
「私は平気だよ」
強がるつもりはなかったが、弱さを見透かされた後の一言は綾斗には可愛らしい虚勢にでも映ったのだろう。栞はそっと頭を撫でられ、近付く彼の唇を受け入れた。
長いキスは名残惜しげに離れかけ、すぐに貪るように激しく喰らいつく。
「……っ、あや────」
呼吸を整える気のない綾斗がそのまま部屋の電気を消したのを合図に、二人は深更の黒い波に濡れ落ちた。
「……愛してるよ、栞。俺がついてるから、絶対……ずっと」
五感の全てを綾斗に染められ、綾斗だけが世界の全てであるような感覚に陥る。ほんの僅かに残っていた冷静がこれはネット上の情報操作と同じではないかと警告していたが、押し寄せる甘い疼きに栞の理性は反転させられたのだった。
「……私も、綾斗が……っ────」
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