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気持ちの変化
背中を伸ばして肩を回したら、栞は深呼吸を一つして笑顔を作った。
「みんな、お疲れ様!」
休み明けスムーズに業務を開始できる準備と事務所の大掃除を終え、栞達は明日からの連休に浮ついていた。
「お疲れ様で~す」
「よいお年を~」
普段より上下関係も薄れた砕けた対応の同僚達に挨拶をして、栞も帰り支度をしていた。
「栞、この休みは帰省するんだっけ?」
弥生がメロンパン片手に栞に寄ってくる。紙袋からメロンパンの上部だけ出して一口齧ると、うんうんと頷きながら「なかなか」と呟いた。
「うん、挨拶に────……って、ちょっと弥生、掃除したばかりなのにパン食べて汚さないでよ? え、ていうかそれどうしたの?」
「大丈夫だって。これね、さっき下にパンの移動販売来てたんだよね。初めて買うけど美味し……あっ」
言っているそばからポロリと食べかすを床に落とす弥生は、今日一番の愛くるしい顔で舌を出して見せた。
「もう、可愛い顔してもダメだからね」
「はー、美人には私の激カワスマイル通用しないんだからなぁ」
怠そうな低い声でぼやくのがそのアイドル顔と結びつかなくて、思わず栞は笑ってしまう。笑顔は通用せずとも、結局独特のペースで怒る気を失せさせるのは流石だ。
「ねぇ栞、駅まで一緒に帰ろ」
周囲の人間が良くも悪くも栞を特別な目で見るようになり、変わらぬ態度で接してくる弥生がこれまで以上に好きになった。表面的には同僚達も普通にしているが、ネット上では栞のプライベートを嬉々として書き込んでいるのだ。誰を信じればいいのかと疑心暗鬼になる中、弥生だけは何も気にしていない様子だ。呑気にメロンパンを頬張る小動物のような顔に安心する。
「ウォンバットみたい」
「え~? あたしあんなに目小さくないけど。体もコロコロしてないし」
「変なところ嚙みつくね……」
苦笑する栞の肩になだれ込むように絡む弥生は、いつもの豪快な笑いと共に歩き出す。半ば強引に事務所から連れ出される栞の視界の端には、恨めしそうな表情で見てくる昌磨と、妙に冷めた目の門馬が映った。
「…………?」
どことなくその二人の空気感が違って見えたのは栞の思い過ごしだろうかと思ったが、外に出てすぐに弥生も似た感想を口にした。
「アイツらなんかあったのかな?」
珍しく一緒に帰ろうなんて声を掛けてきたのはこれが目的だったのかと腑に落ちた栞は、うーんと顎に手をかけた。
「昨日課長が休んだことで何か揉めたのかな?」
「あの男が栞との一件でビビって休んだから『なんで千穂たんのこと一人にしたのよぉ、ぷんぷん!』みたいな話?」
悪意たっぷりに誇張されたモノマネを披露する弥生を栞が嗜める。
「あの男じゃなくて課長ね────門馬さんもそんなんじゃないと思うけど……あとぶりっ子のイメージ古くない?」
「お堅いなぁ、栞は。いや、いつの時代もこんなモンでしょ? まぁプンプンはあの女の香水だけでお腹いっぱいだよね」
口の悪さは変える気がないらしい弥生は肩をすくめた。
「まぁ、社会人一年目だし。メイクも香水もまだわからないんだよ」
栞のフォローはフォローになっていないな、と言ってから自分で気付いたが、庇ってやる相手でもないかと思い直す。
「それこそいつの時代よ? あの女、絶対中学くらいからガッツリ顔塗りたくってたタイプだって!」
楽しそうに笑う弥生は「ちなみにあたしは高校で初めて化粧した時は白過ぎて保健室連れて行かれたよ」と付け加えた。
ふざけた会話だけで駅に着いてしまった二人は、いつもながら大して中身のない話だったねと笑い合った。
「明日から休みだし、楽しいことばっか考えとこ。休み明けは面白い話選手権ね。杉山もついでだから巻き込もう」
そこでやっと、弥生の本当の目的がわかった気がした。
「あはは、杉山君可哀想だよ」
「いいんだよ、急に話振ったら面白いじゃん」
ニカッと歯を見せて笑う無邪気を装った優しさに、栞はこういう人が好きなのかもしれないと考え、そしてすぐに思い浮かべた綾斗の顔を打ち消そうとした。
「降りるの中目になったんだっけ?」
マンションの位置までは伏せているが、富ヶ谷から上目黒に引っ越したことは弥生に話してある。他に住所を知る者は総務のごく一部のみで、他言したら綾斗の事務所が黙っていないと脅しのような形で口止めしてあるし、万が一その情報が流れたら犯人の特定は簡単だ。
「うん。でも、気持ち遠くなったけど時間はそんな変わらないんだよ。むしろ家から最寄り駅まで近くなった分、楽になったかも」
「おぉ、いいなぁ。あたしも駅近い家に引っ越したいんだよなぁ」
弥生は家賃の安さ重視で決めたから、駅と家は片道二十分歩くらしい。以前から何度もぼやいているが、なかなか条件に合う部屋が見つからないようだ。
「少しでも近いほうがいいよね。特に弥生の顔だと一人で長く歩くとそれだけ危険も伴うでしょ」
「ねー、割と住宅街入ってくから帰り暗いんだよ。駅から近い家がいいし、会社まで乗り換えなしで行きたい。面倒くさいから」
「そうなると高いんだよね」
「それね〜……あ、ごめんあたし次の乗るわ! また年明けにね! お疲れ〜!」
これなら乗り換えずに帰れるから、と慌ただしく去っていった弥生を見送り、栞も歩き出した。
今日も綾斗は帰りが遅いと言っていた。出会った日とその翌日が特別だっただけで、基本的にはやはり忙しい人なのだ。芸能関係は然程興味のない栞でも年末は忙しいものだと考えていたのだし、実際売れているという綾斗は栞の想像よりも予定が詰まっているのだろう。
あまりメッセージもこないし、きちんと休憩はとれているのだろうか──そんな心配をした栞は、綾斗が自分にメッセージを送ってくるものだと思い込んでいることに一人恥ずかしくなった。
だが、綾斗の体温を感じる度、綾斗の優しさに触れる度、栞の中で綾斗の存在は大きくなっていた。この気持ちを簡単に恋と呼べるほど栞は若くなかったし、愛と呼べるまでの深さはないが、彼の妻である自分に馴染んできていた。
今夜は何を作ろうかなどと頭を悩ませるのは、昌磨と暮らしていた頃にはなかった。昌磨は好き嫌いがハッキリしていて決まったもの以外は一切手をつけないタイプだったから、特定の料理のローテーションで作り甲斐もあまりなかったのだ。その点綾斗は好き嫌いがないらしいし、美味しそうに食べては感謝の言葉と料理の感想をくれる。栞でなくとも嬉しくなるのは綾斗の反応だろう。
頭の中で献立を組み立てた栞は、家の近くのスーパーで買い物をして帰宅した。
「……大晦日の歌番組、って……えっ!?」
昨日と同じくらいの時間に帰ってきた綾斗が遅い夕食をとりながら何気なく話題にした仕事の内容に、栞は驚いた。
「うん、白組ね」
「えぇぇ……売れてるんだもんね? そうかぁ、そうだよねぇ」
「だから、年越しは一緒に過ごせないんだ。ごめんね」
「それは全然いいんだけど……」
生放送でステージを披露して、その後は番組の打ち上げに顔を出す暇なく次のライブ会場まで移動するという。そこでも生放送で二曲ほど歌い、午前三時半から四時頃には一度帰宅できる予定だった。
「元日も午前中から正月特番の生放送あるし、もしかしたら帰ってこないでそのまま行くかも」
「忙しいね。なんかごめん、私だけゆっくりしてて」
「栞だって仕事頑張ってるんだし、休みはしっかり休みなよ」
「でも、そんなに忙しいのに三日からの貴重な休みは私の実家に付き合わせちゃって……申し訳ないよ」
自分の実家に帰るだけの栞ですら、綾斗との結婚を説明するのが面倒で憂鬱だというのに、他人の──契約上、そして戸籍上の義理の実家に行くなんて気が重いだろう。
「俺は楽しみだよ。栞の実家で挨拶なんて、まぁ順番は違うけど新婚らしいなって思うし」
そんな前向きな綾斗の発言に栞は嬉しく思った。そして同時に、元はグループ存続のために無理矢理見つけた結婚相手である栞を、いつまで側に置いておくのだろうと疑問が浮かんだ。
グループメンバーを守ろうとして既婚者になった綾斗だが、結果的にはそんなことをせずとも解散はなかったと知った。そうなると栞の存在意義はなくなる。
すぐに離婚というのも世間体が気になるだろうから、少し時間を置いて別れることになるのだろうか──そう考えるとなんだか栞の胸が痛んだ。ずっとそばに居てくれるだとか、味方でいてくれるなんて言葉を素直に信じていられる栞ではなかった。
「栞の実家の家族構成って?」
「ん? あれ、伝えてなかったっけ?」
出会った日は酔った勢いでペラペラ身の上話を語ったようで、どこまで話してどこから話していないのか栞自身もわかっていない。
「父、母、兄と私の四人家族。今は実家は両親が二人暮らししてて、実家の近くに独身の兄が一人暮らし中」
「お義兄さんか。俺らが行く日は会えるかな?」
「多分、母が連絡してると思うから来ると思う……ごめん、ちょっと面倒くさいかもしれない」
「あ、もしかしてシスコン的なアレ?」
何故か面白そうに目を輝かせる綾斗に「違うよ」と栞が呆れ顔で否定した。
「兄にとって私は──なんていうのかな? 揶揄う対象だったんだよね、昔から。別にいじめてくるとかそういうんじゃないんだけどね? 私も嫌じゃないし、本気で嫌がることは言ってこないから」
「仲良いんだ?」
仲が良いのかと問われたら、栞の中では疑問しかない。特別兄を嫌っていた時期もないし、かといって連絡を取り合ったり会いたいと思う相手でもなかった。そして多分、それは栞の兄も同じだろう。
「……普通じゃないかな? 綾斗は兄弟は?」
「俺は一人っ子だから、兄弟いるのがもう羨ましいよ」
「じゃあ、嫌じゃなければ兄と仲良くしてやってくれる? 一応、義理とはいえ綾斗の兄でもあるから」
「うわぁ、楽しみ増えた。ねぇ栞、ご両親とお義兄さんって好きなものとかある? 手土産何がいいかな?」
「いいよ、そんなの。私の都合で来てもらうのにそんな気遣わないで」
「そうはいかないでしょ。そもそも行くのは俺の勝手だし、どうせなら栞の家族に喜んでもらえるもの持って行きたいよ」
元々の婚約者であり一緒に行く予定だった昌磨は、こんなこと訊いてこなかった。昌磨のほうが年上だし営業職なのに、年下の綾斗のほうがしっかりしている印象だ。芸能界で長く人気を維持するだけのことはあるなとそっと感心する。
「ごちそうさまでした! 今日も美味しかったよ。ありがとう」
「どういたしまして。明日はご飯どうする?」
「明日はリハと特番収録ハシゴなんだよね。また今日くらいになると思うけど、食べるの遅くてもよければ作ってて貰えると嬉しい。栞の料理ホント美味いから、食べたいな」
弾けるような笑顔でねだられ、栞もつい、つられて満面の笑みで頷いた。
「私はお正月休みで家にいるだけなんだし、ご飯作って何時まででも起きて待ってるよ!」
「ちょっ……笑顔の破壊力えっぐ……!」
ふざけた様子で両手で顔を覆う綾斗。
「綾斗の笑顔ほどじゃないよ」
実家での挨拶を前に、仲が良いアピールのためにも栞も甘い言葉の練習でもしようかと試してみたが、ただ事実を述べただけになってしまい難しいなと実感する。
(よく綾斗はスラスラ出てくるなぁ……)
アイドルの言葉なんてどれも話半分で聞くべきだ。そう思いながらも、こんなやり取りの中で少しでも距離が縮まればいいのにと、栞はそっと願った。
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