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帯広空港に降り立つと、肌を突き刺すような寒さに栞達は身震いした。綾斗も栞も地元とはいえ、久し振りの帰省だ。すっかり体は東京の気候に慣れ切っていた二人は、息をしただけでまつ毛が凍り、鼻の中も凍ってくっつく感覚に、どうせ外は出歩かないと思ってウールコートを着てきたことを既に後悔していた。
飛行機で移動するのだしラフな格好でいいと言う栞に対し、結婚の挨拶でそれはないだろうとスーツを選んだのは綾斗だ。それに合わせて栞もややフォーマル寄りのワンピースを着ることにしたのだが、厚手のタイツでも脚は寒さで痛い。
だが、綾斗のスーツ姿はつい見惚れてしまうほどで、初めて見る姿にドキッとしたのは内緒だ。
「……ダウンにすればよかったね」
タクシーに乗り込んですぐに栞がぽつりと呟くと、綾斗も鼻の頭を真っ赤にして強く頷いた。
「だね。このまま買いに行きたいくらい」
「荷物になるから」
「まぁそうだよな……」
空港から栞の実家までは車で約三十分ほどある。この冬はクリスマス前に大雪が降ったらしく、正月休みの今日もまだ街並みは白色に深く覆われていた。特に空港から市街地までは畑ばかりの“いかにも十勝”という景色だから余計に一面が雪で、陽射しが反射して眩しかった。
「羽田で買ったお土産だけでホントによかったの?」
綾斗はそう不安げに栞に訊ねるが、一泊分の二人の荷物よりも多い土産の数に栞は呆れた顔で答えた。
「よくそんなに買ったね?」
「え? だって何が好きかわからなかったし、美味そうなものはとりあえず買ってこうと思って」
「まぁ、親も兄もミーハーなところあるから、有名どころ買ってけば間違いないよ」
そんな他愛のない話をしている内に、窓の外には徐々に建物が増えてきていた。
「お昼時だけど、どうする?」
「多分、母が何か用意してると思う」
見慣れた住宅街に入り、栞は小さな溜息を吐いた。決して仲は悪くはなく、むしろ良いほうだと思うが、結婚が事後報告になったことで何か言われるだろうかと想像して憂鬱だった。綾斗の結婚相手が栞だと広まったあの拡散動画の件で栞の母からは一度電話がきていたが、その時は“動画の女性は栞で間違いないか”という確認だけにとどまっていた。それも栞が強引に電話を切って追求を逃れただけで、今日根掘り葉掘り訊かれるのだろうと予想できる。
「心配要らないよ。俺が巻き込んだんだし、責任持ってご両親を安心させてあげるから」
綾斗は栞の憂鬱を見抜いて、笑顔で胸を叩いた。
「……ありがと」
実家の前に着いて綾斗が運転手に支払いをしていると、車の音を聞きつけた栞の両親が玄関先まで出てきた。
「うわ、わざわざ出てこなくてもいいのに」
「そんな寂しいこと言わないでよ。こんな遠くまで来てくれたんだから出迎えくらいするわよぉ」
栞とよく似た顔立ちの母が上品に笑みを浮かべて綾斗を見る。
「初めまして、栞の母の琴子です」
「父の晃史です」
横から晃史も挨拶をして、綾斗は慌ててタクシーを降りるとお辞儀をした。
「初めまして! 栞さんと結婚────」
「待って、寒いからとりあえず中に入ろうよ」
そのまま玄関先で挨拶合戦が始まってしまいそうで、思わず栞は綾斗の言葉を遮った。琴子も同意して二人を家に迎え入れる。
「お兄は?」
廊下にキャリーケースを置いてリビングに入り、栞はそう訪ねた。
「今ね、壮志は西五条のほうまでお昼ご飯取りに行ってるのよ。食べに行くよりお家のほうがいいのかなと思って。鰻重にしたんだけど」
栞の結婚相手が有名人だと思い、琴子なりに気を遣った結果らしい。
「へぇ、あそこテイクアウトできるんですね」
綾斗がそう口にすると、琴子は目を見開いた。
「あら、行ったことあるの?」
「行ったことはないんですけど、僕も帯広出身なので」
「そうなんだね。その辺りの話も含めて、綾斗くんのことを聞かせてもらってもいいかな?」
晃史がそう言ってソファに座るよう促すと、当初の予定である“結婚の挨拶”は始まった。
「改めまして、東綾斗と申します。この度栞さんと結婚させて頂きまして……すみません、本来ならば先にご挨拶に来るべきでしたのに、事後報告になってしまって……」
着席する前に立ったまま頭を下げる綾斗の横で、栞もそれに倣う。
「あー、いやいや! 頭上げて!」
慌てて謝罪を止める晃史と琴子は、座ろうと言って栞達の対面にあるソファに腰を下ろした。手土産を晃史達に渡し、センターテーブルを挟んで栞と綾斗も座る。
「別にいいのよ。栞ももういい大人なんだし、本人が決めたことなら好きにしてくれれば。でも、テレビであなた達のことを知ってビックリしたわぁ」
「まぁでも、綾斗くんがこんなに立派な方で安心したよ、なぁ?」
「ねぇ〜、本当に。栞はボヤッとした所があるから」
笑い合う両親を見て、綾斗が栞に目配せする。なんとなく綾斗の考えていることがわかり、栞は苦笑した。
「親子だなって思ったでしょう?」
「うん」
「なぁに? 何の話?」
「綾斗ね、人気アイドルでしょう? こう、仕事を知ってて擦り寄ってくる人が多いから、お母さん達が職業に触れてこないことに驚いてるの」
「そんなの、当然驚いたわよぉ! だって普通の会社員だったはずの娘が、まさか私やお父さんでも知ってるような芸能人とお付き合いしているなんて、どこでどう知り合ったのかしらってね」
「紅白も観たよ。忙しいだろうに、わざわざ北海道まで来てもらっちゃってかえって申し訳ないと思ってたんだよ。大丈夫かい? 無理言って休み取らせたんじゃ────」
「いえ! 僕が来たいと言って無理についてきたんです!」
晃史や琴子が綾斗の容姿に触れないのは、美形に慣れているからというのもあるだろう。今は年齢的にも晃史の毛髪も寂しいものだが、若い頃は周りの女性達が放っておかない男前だったのだろうとは、誰が見ても簡単にイメージできた。琴子も所謂地域のマドンナ的存在で、アーモンドアイが主張する華のある顔立ちは未だその美しさを失っていない。そして栞もその二人の血を色濃く受け継いだ美人なのだ。
綾斗は栞の自信と他人の容姿に言及しない性格に納得し、そしてやはり綾斗の仕事について聞き出そうとせず、忙しいのではと心配してくるのも親子だなと思った。
「あの、僕が自分で言うのも変なんですが……心配じゃないですか? 娘さんの結婚相手が芸能人だなんて」
アイドルの綾斗に擦り寄らないならば、仕事柄悪い噂も立ちやすいと自覚はあるから過剰に心配をかけるのではないかと思っていた。
そんな綾斗に、琴子はおかしそうに目尻にシワを作った。
「ふふっ、確かに心配だわ。ウチは見ての通りごく普通の家庭だもの。栞も東京に出たとはいえ庶民的な子でしょう? キラキラした世界でお仕事している綾斗くんに飽きられたらと思うと、親としてはねぇ」
「どうだろう? 栞は綾斗くんに迷惑はかけていないだろうか?」
綾斗が予想していた斜め上の回答に目を丸くする。
「そんなまさか! 僕から必死にアプローチしてやっと叶った結婚です。飽きるだなんてとんでもない! それに迷惑どころか、栞さんにはいつも助けられてばかりですよ」
そして話すと決めていた“馴れ初め”を話した。
「────そうだったの。てっきり栞は会社の人と結婚するものだと思っていたから驚いたけれど、そういうことだったのねぇ」
「ごめんね、私から言う前にメディアから知る形になって」
「いいのよそれは。栞が幸せなら。よく言うじゃない? やっぱりお母さんも、愛されて結婚するのが幸せだと思うもの」
実際にはあくまで溺愛は設定であり契約結婚でしかないのだが、家でも徹底して栞を大事にする綾斗に対して、栞は心を開こうとしていた。充実した日々は幸せと呼べるのではないかと思っている。
「ただいまー」
「あ、お兄帰ってきた。おかえり」
鰻重を持ち帰ってきた壮志が栞達を視界に捉えて会釈する。
「あ、栞の兄の壮志です。初めまして」
「初めまして、東綾斗です!」
立ち上がって深々と頭を下げる綾斗に、壮志はプッと吹き出した。
「あはは! 普段堂々とアイドルしてるのにこんな所で緊張してる!」
「ちょっと、お兄!」
「いや、ごめん。俺らなんかに緊張しなくてもいいのにと思ってさ。もう家族でしょ? 俺、妹しかいなくて物足りなかったから、弟ができて嬉しいんだよ。よろしくね」
鰻重をテーブルに広げながら壮志は涼しげな顔でそう言った。
「勝手に鰻にしちゃって今更だけど、鰻重食べられる?」
「大好きです」
「ねぇ壮志、見てこれ。綾斗くんがこんなに沢山お土産買ってきてくれたのよ。これなんて前にテレビで観て食べたかったお菓子!」
お茶を淹れながら嬉しそうに語る琴子は愛らしく、栞はやはり母親似なのだろうと綾斗は再確認した。
「いただきまーす」
鰻重を前に笑みをこぼす栞は元気よく両手を合わせ、香ばしいタレの匂いを纏った柔らかい鰻を口に運んだ。
「美味しい〜! 綾斗、美味しいよ、食べよう」
「うん、いただきます」
食事は和気藹々としたもので、堂島家の雰囲気は綾斗に充分伝わったようだ。綾斗もすぐに和やかな雰囲気に馴染み、地元の話や栞との日常について受け答えしていた。
「でも、綾斗くんが栞をそこまで気に入るとはなぁ。俺は理解できないや」
壮志の言葉に栞は内心落ち着かない気持ちになった。これだから壮志は厄介なのだ──と思う一方壮志の疑問はもっともで、人並みよりは顔はいいかもしれないと思いながらも、アイドルとして活躍している綾斗が見初めるにはどこか物足りない自覚もある。
「それは、お義兄さんも……いえ、堂島家の皆さんが揃って美形だからですよ。栞さん、物凄く顔がいいじゃないですか。それで目を奪われて、話してみたら中身もとんでもなく理想的で。栞さんをそのまま逃すわけにはいかないって頑張りました」
「でも、そういう綾斗くんこそ国宝級イケメンなんて呼ばれてるじゃないか」
「世間的にはありがたいことにそう評価していただいてますが、肝心の栞さんにはアイドルって肩書きも通用しなくて」
冗談めかして肩をすくめる綾斗に、栞以外が笑う。
「この子ね、アイドルとか芸能関係疎いものねぇ! 雑誌よりも参考書だったし」
「勉強ばかりしてきた子だから」
両親が言う通り、栞は勉強に力を入れてきた。だから地元では進学校と呼ばれる高校に進み、田舎では多くない東京の大学への進学も叶えたのだが、やはりE directionも知らないレベルだと疎過ぎるのだろう。
「栞が使ってた部屋、見てみる?」
「ちょっと、お兄! 勝手に……」
壮志の言葉に綾斗が目を輝かせる。
「是非! 見てみたいです」
「綾斗まで。何もないつまらない部屋だよ?」
「何もないなら見せてくれてもいいじゃん。栞が過ごしてた部屋なら見たいよ」
こうして食後、栞と綾斗、そして壮志が二階にある栞の部屋に向かった。
「あ、意外と女の子らしい部屋だ」
部屋に入ってすぐに綾斗はそんな感想を漏らした。
「失礼な。どんな想像してたの?」
「いや、もっとこう……シンプルな?」
ベッドも本棚も学習机も、高校生まで使っていたそのままの配置で残されている。琴子が定期的に掃除をしているようだから床は綺麗だが、机の上の本などは薄く埃が被っていた。
「昔はピンク好きだったもんな、顔に似合わず」
茶化してくる壮志を睨んだ栞だが、自分でもピンクは似合わないと思ってインテリアだけに留めていたし、一人暮らしを始めてからはなるべく自分で選ばないようにしていた。
「栞なら何色でも似合うのに」
綾斗は当然のようにそう言ったが、栞は真に受ける気はなかった。
「やっぱり本が多いね」
先程勉強ばかりだったと両親が言ったからだろう、綾斗がそう呟いて部屋を見回した。
部屋には学習机の上部にある本棚以外にも、壁一面を埋め尽くす大型の本棚があり、ハードカバーから文庫本までぎっしりと詰め込まれている。
「まぁ、読書は趣味だから。社会人になってからは学生時代ほど読めてないけど」
栞の言葉に壮志が口を挟む。
「でもネットでも、隙あらば本読んでるような人物って言われてたよな」
「別にそれは隠してないからいいんだけどね……てかお兄、そういうの見るんだ?」
妹についての書き込みなんてわざわざ好んで読むだろうかと思う栞だったが、壮志は栞と比べて話題のネタには興味を持つタイプだったことを思い出す。それが身内の話となると、殊更気になるだろう。
「まぁ職場とか友達からも話題振られるしな」
「……それもそうだね」
兄妹で話している間、綾斗は興味深げに本棚を見つめていた。
「“6月19日の花嫁”……」
綺麗に並べられた文庫本の中にそのタイトルを見つけた綾斗は、宝物でも触るようにそっと手を伸ばした。
「古い作品だけど、知ってるの?」
栞は一瞬驚いたが、それは映画化もされている作品だから知っていてもおかしくないかと思い直す。
「うん、昔読んだんだよ。今でも持ってるよ」
綾斗の家には主に綾斗が載っている雑誌が保管されているのは栞も確認していたが、記憶を呼び起こすと確かに本棚の一部には文庫本がまとめられたコーナーもあったかもしれない。演技の仕事もしているというから、その原作本や資料として読んだ本なのだろうと栞は思っていたが、それがなくても読書はするのだろう。
「移動時間とかに読むの?」
「まぁ、そんなとこ。たまの休みも引きこもることが多いしね」
綾斗が手に取ったその文庫本は、栞にとって特別思い入れがあった。
栞がその本に触れたのは中学生の頃で、その当時は携帯小説が大流行していた。
だから栞のように文芸小説を読む友人は少なかったのだが、この小説は初めて同世代の子に薦めて面白いと言ってもらえた作品だった。
「栞の誕生日だしね」
「……そうだね」
たった一回婚姻届けを見ただけでよく覚えていたものだと思ったが、綾斗もこの本を読んでいたのなら、栞の誕生日を愛読書のタイトルと結びつけることで覚えやすかったのだろう。綾斗の言う通り、栞の誕生日がタイトルに入っていたのがきっかけで手に取ったのだ。今考えれば、目覚めたら見知らぬ男が隣で寝ていたというのも状況的には近いものがあるなと自嘲する。もっとも、栞は記憶喪失でもないし不実を働いたのは昌磨側なのだから、主人公との接点など誕生日くらいなものだが。
「俺はね、この小説が生まれて初めてきちんと読んだ本だったんだよ」
懐かしむように目を細める綾斗は、当時を思い出しているのか穏やかな表情をしていた。
「へぇ? なんでまたこれを? ────いい作品だし私も好きだけど、男の人が最初に手に取る本かな?」
“6月19日の花嫁”は、サスペンス色も強いミステリーだが、恋愛小説とも呼べると栞は思っている。タイトルからしてジューンブライドを連想するし、綾斗が惹かれる要素があるだろうか。
「……たまたま図書館で読んで、面白かったから買った。それだけだよ。家にあるから読み返したくなったら好きに読んでいいよ。勿論、他の本もね」
この小説を気に入ったというなら、綾斗は自分と本の趣味が近いのかもしれない。そう思った栞は、帰ったらすぐに綾斗の本棚を確認してみようと思った。
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