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可惜夜
「うちに泊まっていけばいいのに」
名残惜しげに琴子がぼやくが、壮志がニヤニヤしながらそんな母親を小突く。
「新婚なんだし、折角こっち来たなら温泉とか行くだろ」
指摘通り十勝川温泉に一泊するつもりで予約を取ってあるのだが、壮志が言うような甘い理由ではないし、肉親にそんなことを言われるのもなんとなく嫌で、栞は顔を顰めた。
「お兄はすぐそういうこと言う〜。だからいつまでも独り身なんだよ」
「お? ちょっと自分が先に結婚したからって随分な態度だな。俺にだって彼女くらいいるし」
唇を尖らせて反論してくる壮志を疎ましく思いつつも、栞は久々に味方しかいない空間で過ごせたことで、疲れていた心が少し癒された気がしていた。
「今度はお義兄さんの彼女さんにもご挨拶させて下さい」
「彼女面食いだからなぁ。綾斗くんに会わせたら靡いちゃいそう」
「僕は栞さん一筋なので安心して下さい」
そんな冗談とも本気とも取れる会話を投げ合う様子から、綾斗も壮志と仲良くなれたのだろうと栞は安堵した。ふざけたことばかり言う兄だが変に鋭いところがあるから警戒していたが、二人の本当の関係はバレることなく実家を出られそうだ。
「栞、お父さんが送って行こうか?」
車を出すと申し出る晃史に、栞は首を横に振った。あまり長い時間一緒に過ごしてボロを出すのは避けたい。
「ありがとう。でもいいよ、何ヶ所か回りたいし、タクシーで移動するから」
「お義父さん方も、今度東京に来ることがあれば是非家にいらして下さい。時間作りますんで」
綾斗なら本当に無理にでもオフにしそうだと思いつつ、栞も横で微笑んだ。
「綾斗が仕事でも、私は専業主婦になるし観光案内くらいはできるから」
「それは楽しみねぇ。あ、そうだわ。訊こうと思ってたことがあるのよ」
琴子は綾斗と栞を交互に見つめ、乙女のように胸の前で両手を組んだ。
「二人は結婚式はどうするの?」
「結婚式……」
それについて全く頭をよぎらなかったわけではないが、まずは入籍とその報告関係を片付けてからだろうと考えないようにしていた部分だ。栞が言葉を詰まらせると、綾斗が困ったような笑顔を見せた。
「僕は栞さんの花嫁姿を絶対に見たいんですが、何せなかなか休みが取れなくて……もう少し仕事を調整してからと思っていたんです。すみません、お義母さん方はやっぱり娘さんの結婚式、楽しみにされてますよね?」
まるで用意していたかのような──用意していたのだろうが──綺麗な説明をして、逆に質問で返す綾斗。琴子と晃史が顔を見合わせて頷く。
「そりゃあ、娘の晴れ姿は見たいけどね。綾斗くんが忙しいのも理解できるし、無理にとは言わないよ」
「そうよ。でも、結婚式することになったら早めに教えてね。ダイエットするから」
栞も結婚式には人並みに憧れはある。特に昌磨と式場を見て回ったことで、あの非現実的な独特の空気感漂う結婚式が手を伸ばせば叶うところまできていたのだ。結局夢だけ見て、掴もうとしても雲のように捉えられなかった存在だが、綾斗と戸籍上結婚したことで式を挙げてもおかしくない立場になれたのだ。
「私も仕事を辞めるし、そのバタバタが落ち着いてから、綾斗のスケジュールと相談だね」
そう言いつつ、綾斗と結婚式なんてあり得ないだろうと思っていた。これだけ人気のあるアイドルならば、結婚式をするとなると大規模なものになるだろう。契約結婚なのに、そんなお金と労力を使って周囲を巻き込むわけにはいかない。
「あと、もう一ついいかしら」
「何? お母さん。そろそろ行くけど」
「あのね、綾斗くんのご両親とはいつ顔合わせになる? 私達も早くご挨拶したいと思って」
琴子の問いかけに、栞は一拍置いてハッとした。
「……そうだよ綾斗。ごめん、すっかり失念してた。私の親に会ってもらうってことは綾斗のご両親にも挨拶しなきゃだよね。帯広なんだよね? 急に行ったら流石にご迷惑かな……?」
「あはは、そんな慌てないでよ。俺が地元に帰るのに黙ってたのは、親は毎年この時期いないからなんだ。俺だって両親自宅にいるってわかってて知らないフリはしないって」
綾斗は焦る栞を落ち着かせるように肩を叩きながらそう言うと、琴子達に頭を下げた。
「お気遣いいただきありがとうございます。まずは栞さんのご両親にご挨拶してからと思っていたので……」
「こっちのことは気にしないでいいんだよ。忙しいだろうに、わざわざ悪いねぇ」
「いえ……ですが、今回の帰省ではどちらにしても僕の親がいなくて。母が福岡出身でして、この時期は二人揃って向こうに行ってしまうんですよ」
「あら九州。いいわねぇ」
「だからこちらの都合で申し訳ないのですが、両家の顔合わせは改めてご相談させて下さい」
栞は初めて知る綾斗の事情に、改めて彼のことを何も知らないのだと実感した。
「栞も気にしないで」
「今度きちんと挨拶するからね」
「うん、よろしく」
そして今度こそ本当に実家を後にするため、栞達は呼んでいたタクシーに乗り込んだ。
「普通だったじゃん、お義兄さん」
タクシーで行き先を告げた後、綾斗はクスリと笑った。
「栞が言うような面倒さもなくて、妹想いの優しいお兄ちゃんって感じだったけどな」
「えぇ? まぁあれは多少よそ行きな態度だったけど……勝手に私の部屋見せるんだもん」
「俺は嬉しかったけどな。栞がずっと過ごしてきた部屋を見られて」
「イメージと違った?」
栞は普段から読書はするが、人前で本を広げる時はブックカバーをしている。本棚のように自分が所持している本のタイトルが一目瞭然な状態は、裸を見られるよりも恥ずかしい気がした。
「ううん、思った通りの栞だったよ」
「そう?」
「うん。それに、俺の本の趣味と近いと思った。帰って家にある本見たら、きっと栞も気に入ってくれると思う。もう読んでる本ばかりかもしれないけどね」
同じ本を何度も読むのも嫌いじゃない栞は、再読でも初見とはまた違う視点で読めるから歓迎だと笑った。今後仕事を辞めて少し時間に余裕もできるだろうし、綾斗の本棚を見せてもらえるのは楽しみだった。それに、自分の本棚を見られて趣味が合うと言われたことが嬉しかったのだ。その相手が綾斗ということが何より嬉しく思ったことは口には出さないが。
「あ、着いたね」
白鳥が浮かぶ十勝川を見下ろすように橋を渡り、帯広市の隣町である音更町の十勝川温泉街を少し走ると、幾つかの温泉宿を通り越して目的の宿に到着した。ここは昨年オープンしたばかりということで地元出身の綾斗も栞も実物を見たのは初めてだったが、イメージしていた馴染みの温泉街にはなかったタイプの高級宿で、一気に特別な空気感に包まれた。
エントランスからロビーに足を踏み入れると、全面畳張りの床と落ち着いた雰囲気の間接照明、そして女将が自ら二人を迎え入れてくれる。チェックインを綾斗に任せた栞は、初めて体験する非日常感に胸を高鳴らせていた。
本当は昌磨と帰省する予定だった。だけど昌磨との予定はほぼ栞一人で計画を立て、宿ももう少しリーズナブルな所になる予定だった。綾斗が飛行機を取り直そうと提案してきた時に、その流れで宿泊宿も一度キャンセルしたのだが、年末年始という混み合う時期にもかかわらず奇跡的に一部屋用意してもらえたのが此処だったのだ。
いくらかかっても良いという綾斗の言葉と、仕事柄プライベートな空間を楽しめる宿にしようということで決めたが、まさに理想通りの宿泊施設だ。食事こそレストランがあるためそこで食べることになるが、全部屋に源泉かけ流しの露天風呂が付いていて、二十組程度しか泊まれない客室は全て離れのようになっているため、まるで自然に囲まれた別荘に訪れたかのような落ち着きがある。
「すっごいね……! え、凄い……」
部屋に入って最初に栞の口から出た言葉はそんな語彙力の欠片もないものだったが、これまで泊まったことのないような高級宿に、まさに言葉が出なかった。夕食の時間まではまだ余裕があるから、そのまま部屋で寛ぐことにする。
「ホント、めちゃくちゃいい部屋じゃん。予約取れて良かったな」
正月休み中とはいえ滑り込みで泊まれたのは、世間ではもう今日明日から仕事が始まる人も多いからだろうか、それとも価格的にハイクラスだからだろうか。昌磨なら絶対に払わないと言うであろうホテルで、どうしても栞は昌磨と綾斗を比べてしまっていた。
「俺と結婚して良かったでしょ?」
そんな栞の気持ちを見透かしたかのような台詞の綾斗は、悪戯っぽく笑った。
「……そんな現金なこと────」
思わないと言うと嘘になる。正直にそう伝えた栞は、綾斗に頭を下げた。
「本当に、本当にありがとう。その……とにかく全てにおいて私、綾斗に助けられてばかりだよね。私、これ以上のものは何も返せないんだけど、どうしよう……」
そんな栞を綾斗は優しく抱きしめた。
「どうして? 俺が助けてもらいたくて結婚したんだよ? 栞の人生を預けてもらえたのに、それ以上の何を見返りに求めるって言うのさ?」
「綾斗はそう言ってくれるけど、私の人生なんて、綾斗がここまでしてくれてお金も使ってくれるほどの価値はないよ。私にできることがあれば可能な限り努力するから! 家政婦としてでもなんでも、とにかく使ってくれればいいから……」
綾斗は栞の頭を撫でてじっと見つめると、何度もキスをした。
「……っ」
「────……なんでもしてくれるの?」
呼吸を乱し頬を染める栞は、何か企むような笑顔の綾斗を見上げて答えた。
「へ、変なことは言わないでよね……?」
「なんにも変なことは言わないって。部屋に露天風呂あるじゃん?」
「待って! ちょっとそれは────」
「夫婦なんだよ? しかも新婚。一緒に入るなんて普通でしょ?」
もう一度栞にキスをした綾斗は、唇を何度も重ねながら栞の背中のファスナーを下ろした。
「ま、待って……んっ……ちょっ、まだ明るいのに……」
「もうじき暗くなるよ」
「やだ、恥ずかし────」
栞の抵抗を無視して服を脱がしていく綾斗は、耳まで真っ赤にして恥ずかしがる栞を見下ろし、息を荒げた。
「無理。そんな顔されたら……もう待てない」
「あっ……あや、と……」
「────全部見せて。朝も昼も夜も、全部の栞が欲しい」
やっぱり本棚を見られるほうが恥ずかしくないかもしれない──栞はそう思ったのを最後に、それ以上何も考える余裕などなくなったのだった。
夕食の鉄板焼きに舌鼓を打った後、二度目の温泉を大浴場で楽しんだ栞は、部屋に戻ると先に戻っていた綾斗の横に腰掛けた。
「気持ちよかったね」
「──何が?」
意地悪く問いかけながら栞の腰に指先を滑らせる綾斗は、そして質問の意味を理解した栞に軽く睨みつけられて「ごめんって」と笑った。
「大浴場も少人数で静かに楽しむ感じで、落ち着いててよかったな」
「バレなかった?」
「わかんないけど、特に声掛けられたりもなかったよ。食事の時だって平気だったでしょ?」
客層的にも、安い宿のほうが声を掛けてくる人は多いのかもしれない。此処に泊まっている人達は、それぞれに大人のプライベートを満喫しているのだ。よその客にまで興味はないのだろう。
「栞、もう眠たい?」
「まだそんなに」
「だったらさ、栞のこともっと色々教えてよ。それに、俺のことも知って?」
甘えた声で栞を抱き寄せた綾斗は、洗いたての栞の髪を指に絡めながら顔を近付けた。
「色々って、こういうこと……?」
「あんなことも、こんなことも、そんなことも?」
「……もう充分わかったでしょ?」
いつも壊れ物を扱うように優しく栞に触れる綾斗だが、毎回割と強引に欲望をぶつけてくる。仮初めの夫婦でありながら不思議と愛情を感じて栞も嫌ではないのだが、あまりに求められると気恥ずかしさから反発したくなる気持ちもあった。
「全然足りない。俺が栞をもっと知りたいのもあるけど、それ以上に栞の中を俺で満たしたい」
「────それはアイドルのプライド?」
「違うよ。ただの東綾斗としての願望」
「……そっか」
いくら愛し合って夫婦になったわけではないといっても、何かと前の男と頭の中で比べているのだと察しているのなら、確かに面白くないだろう。
そう考えた栞は、綾斗の思うままに受け入れることにした。
「栞が眠るまで、ずっと俺だけ見ててよ」
「ふふっ、新婚っぽいね」
「……でしょう?」
冗談めかして笑う綾斗だったが、隙あらば栞と唇を重ねて深く見つめた。
「……色んな声で俺の名前を呼んで欲しい。色んな顔を見せて欲しい」
「欲張りなんだから、綾斗は」
「ダメ?」
「……ダメじゃない。嘘でも求められるのって、嬉しい、かも……」
恥ずかしがりながらもポツリと本音を漏らした栞は、目を細めて綾斗を真っ直ぐに見た。
「────綾斗」
それを合図に、二人はベッドになだれ込んだ。
綾斗の希望通りに数え切れないほど綾斗の名前を呼んでいた栞だったが、流石に夜も更け込むと夢の世界に落ちて行った。
「栞……」
腕の中で眠る栞の白い肩を抱いて、綾斗はそっと唇を重ねた。
「ずっと────ずっとこうしたかった。愛してるよ、栞……」
綾斗は、栞が自分にはそこまでの価値がないと言っていたことを思い出し、小さく寝息を立てている彼女をギュッと抱きしめた。
「価値がないなんて、そんなわけないだろ? ……やっと手に入れたのに」
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