きっかけ

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きっかけ

 『坂口弥生様』────そう宛名書きされた少し厚みのある封筒を郵便受けから取り出すと、弥生は新年一発目の大きな溜息をついた。  裏面には高校以来久し振りに見る名前が連名で並んでおり、過去の淡い初恋を思い出してほんの少し憂鬱な気持ちになった。  それは結婚式の招待状だった。  弥生は地方の田舎出身だ。地元の友人はそのままその土地に残って就職している者も多く、そんな彼らは昔から馴染みの同級生と結婚しているパターンが大多数を占めていた。高卒で社会に出た彼らは結婚も早く、こうして弥生の元に招待状が届く回数も二桁を越えようとしている。こちらは大学を卒業して就職し数年、やっと周りに目を向けてもいいかと余裕が出始めたばかりだというのに、こうして地元の友人の結婚話を目にすると一気に自分だけ取り残されてしまっているような気がした。  1Kの自宅に入り、ソファに浅く腰掛けて封筒の中身を出す。日程的にはなんら問題なく出席できそうだが、素直に祝いたい気持ちも湧かなかった。  新郎は弥生が小学生の頃から高校に上がるまで、ずっと密かに片想いしていた相手なのだ。それが高校になって周りが急に色気付き始めると、イベントの度に俄かカップルが増えた。そんなどさくさで付き合い始めたのがこの新郎新婦だったから、初めこそショックだった弥生もどうせすぐに別れるだろうと様子を見ていた。しかし、結局喧嘩はすれど別れることもないまま、こうして結婚まで漕ぎつけたのだ。あの当時から付き合っていたにしてはむしろこの招待状が届くのは遅いくらいだが、あの二人にも色々あるのだろう。  特別な未練があるわけでもない。弥生だって大学から東京に出て恋人も数人作ってみたし、ずっと新郎の彼を引きずっていたなんて言えるほどの深い想いだったかと問われたら、きっと幼く可愛らしい憧れ程度だろう。しかし秘めたまま叶わなかった恋ほど、変な期待を抱いてしまうのも事実だ。  複雑な感情を咀嚼していると、ふいにスマホが鳴った。画面に表示された名前は、これもまた久々に見る高校時代の友人のもので、同じように招待状が届いていたのだろう。 「もしもし? あはは、久し振りー! コバから届いたコレ?」  いつもより明るく能天気な自分を押し出しながら、弥生は結局仕事が忙しくて行けないかもしれないと嘘をついた。  彼への未練でも彼女への悔しさでもない。ただ、周りが結婚していく中で自分にだけ何もないことが面白くなかったのだ。特に弥生は地元では数少ない東京進学組で、そのまま東京で就職したのは更に少数派だ。結婚はまだかと急かしてくるのは実家の親だけにとどまらないだろうし、女は嫁に行ってこそ幸せだという昔ながらの決めつけを町全体で押し付けてくる空気感も苦手なのだ。  もっと本音を言えば、ご祝儀を払ってばかりで自分に返ってくるあてもないことも不満だし、同じ面子での式が多いからその都度ドレスを買い直さなければいけなくて出費も痛かった。  それに、暫く会っていない昔の友人よりも、今身近にいる友人のことのほうが気になるのだ。  弥生から見た栞は、とにかく自分と近いタイプのサッパリとした女性で、地方出身同士の気安さや悩みの共有もできる特別な相手だった。  プライベートは互いに多く語らなかったものの、特別隠しているわけでもなかったから、常になんとなくの状況はわかっていた。  栞と昌磨が付き合い始めたのは自然な流れだったが、栞から恋愛の楽しい空気を感じたことはなかった。弥生からすれば昌磨なんてそこら辺によくいる普通の男で、何か秀でた魅力があるわけでもなかったのだが、栞は何処か無理をしながら必死にしがみつく様子で彼と付き合っているように見えた。  美人で仕事もできる栞は男なんて選び放題だろうに、何故そこまで昌磨に気を遣っているのだろうかといつも疑問だった。しかしもっと理解できなかったのは、門馬まで昌磨に近付いたことだ。人の好みは色々あるだろうと思いつつも、栞に何か言うわけでもなく弥生はずっと傍観していた。  その結果、栞は昌磨の裏切りに傷付くことになったのだから、門馬の動きと昌磨の心変わりに気付いた時点で口を出せばよかったと後悔していた。 (そもそも、門馬はなんであの男を狙ったのだろう?)  門馬はいかにも典型的なぶりっ子女だ、というのが弥生の印象だ。  男ウケを第一に考えたような服装に、甘えた声と上目遣い。仕事はできないが愛嬌で乗り切って一定の需要を得られるタイプで、隙だらけに見せて計算し尽くした言動。  栞を彼女にしたくらいなのだから昌磨はデキる女が好みなのだとばかり思っていたが、わかりやすい弱さに引っ掛かった。そのせいで今は随分と状況も悪そうだが、栞が奴らを見返せる相手と結婚した今、どうか昌磨と門馬の二人には末永く共に過ごしていただきたいと弥生は願っていた。栞の敵は弥生の敵でもある。弥生の目の届かぬ所でまとめて苦労して過ごして欲しいものだ。  結婚式の招待状には欠席に丸をつけて、早々に返信することにした。  時計の針が十七時半を過ぎた時刻を指しているのを確認し、既に薄暗くなり始めている景色をカーテンで閉ざすと、小ぶりのバッグを肩から斜めに掛けてハガキ片手に家を出た。  ポストに投函がてら、先月新宿駅にオープンしたカフェに行こうと最寄り駅に向かう。十八時オープンというのは以前調べていたから、今から行けば丁度いいだろう。  正月休みだというのに結局会社の近くに出てきてしまう辺り、弥生は自分の行動範囲の狭さにうんざりしていた。とはいえその店が気になっていたのは事実だ。 「あれぇ? お一人ですかぁ?」  先程思い出していた会社の後輩の耳障りな声が届き、弥生は反射的に眉間にシワを作って振り返った。 「あたしが一人だとおかしい?」  職場では見ないようなめかし込んだ姿の門馬に、弥生は冷たく答えた。 「いいえ〜。ただ、坂口先輩は可愛いから、一人で過ごすことなんてないと思ってました」 「あぁ、だから門馬さんは一人なんだ?」  弥生の嫌味は門馬に通じたらしく、顔を顰めて反論してきた。 「わ、私はこれからデートですし……」 「あのクズ────課長と?」 「え? 今クズって言いました?」 「そう。栞と別れたクセにダサい縋りつきかまして悪目立ちしたあの男。門馬さんと付き合ってるんでしょ?」  得意げに認めるのだと思ったが、弥生の予想に反して門馬は複雑そうに唇を噛んだ。 「…………まぁ、はい。そうですけど……」 「何そのカオ。栞の恋人奪ったつもりだったのに推しと結婚されたことがそんなに悔しいの?」 「そっ、それは勿論ムカついてますけど……」  何やら思案顔の門馬は、そして小さな溜息を漏らして弥生に訊ねた。 「坂口先輩は、堂島先輩が以前からあーやと付き合ってたとか聞いてました?」  弥生と栞の間にそんな会話はなかったが、少なくとも弥生の知る栞は、二股なんて器用な真似はできない真面目な人間だ。 「まさか。そもそも栞は課長と付き合ってた。東綾斗となんて付き合ってなかったよ」 「でも、だったら……」 「門馬さんも芸能ニュースとか観たでしょ? 東綾斗は昔から栞に片想いしてた。そこで想い人が恋人と破局なんて情報が耳に入ったら、そりゃ栞レベルのいい女逃せないって思うでしょうよ」  自分で言いながら、実に不自然な馴れ初めだなと考える。  弥生もワイドショーの類でしか情報は得ていないが、何とも運命的な電撃結婚だとメディアが騒ぐ通り、出来過ぎなくらい都合の良い展開だ。栞が失恋したことも、東綾斗が栞と結婚したいと言うのも別におかしいとは思わないが、“栞が失恋したタイミングで都合よく東綾斗が現れた”ことが引っ掛かった。彼は公開している情報の通りなら、地元にいた頃に栞に片想いしていたという。それもいい。東京での再会もあり得るかもしれないが、タイミングが違えば栞が別の男と腕を組んでいるシーンに遭遇していたかもしれないのに、一人で悲しみに暮れる彼女を口説けたなんて、まさに“運命”ではないか。そうじゃなければ──── 「……栞は、あたしがもし男でも放っておかないよ。そんないい女を手放して、門馬さんみたいなクソ雑魚ナメクジ選ぶなんてね。課長って頭悪かったんだねぇ」 「え、坂口先輩めちゃくちゃ口悪くないですか?」 「性格悪い人相手に気遣う必要ないでしょ?」 「……堂島先輩のこと、好きなんですね」 「好きだし、アンタのことは嫌い。誰だって大事な友達を傷付ける人のことは好きになれないでしょう?」  取り繕うことなくストレートに口にした弥生は、門馬にニヤリと歯を見せた。 「で? クソ雑魚ちゃんは頭悪太郎と待ち合わせなんだっけ? お似合いじゃん。楽しんでおいで〜」  悪口の限りを尽くしお目当てのカフェに向かおうと歩き出した弥生を、門馬は慌てて呼び止めた。 「ま、待って下さい!」 「……何?」 「堂島先輩って、なんで昌磨くんと付き合ってたんですかね? どこが好きで……」 「────それはあたしにはわからないよ。今付き合ってる本人が一番わかってるんじゃない? 人の男だってわかった上で付き合ってたくらいなんだし、そこまでの魅力があったんじゃないの?」  弥生の問いかけに、門馬は悔しそうに俯いた。 「……堂島先輩の男だったから、付き合ったのに……」 「……は?」  門馬は彼自身に惹かれたわけじゃなく、栞の恋人だったから彼を選んだと言うのか。 「勘違いしないで欲しいです。私は昌磨くんが好きなわけじゃない。今日だって、楽しいデートってわけじゃなく……フッてやろうと思ってるんです」 「ふぅん……? なんであたしにそんな話するの? 興味ないんだけど」  勘違いも何も、略奪してまで彼女の座に収まろうなんて、そこに恋愛感情があると思うのは当然だろう。  しかし、門馬と話してわかった。  門馬があの男を欲しがった理由は栞だ。  どんな魅力的な男なのだろうと思っていたが、門馬にとっては“栞の恋人”という肩書きだけが魅力だったのだろう。 「あぁ、あたしが栞に言うと期待した? 残念だけど、あたしも栞もくだらない噂話はしないんだよ。アンタがあの男と別れたとしてもこのまま続けても、あたしも言わないし、知ったところで栞は何も思わないでしょ。だって栞は、東綾斗っていう夫がいるんだから」  煽るように東の名を出すと、案の定門馬は悔しそうに表情を歪めた。 「じゃあ、今度こそ無駄話は終わりね。あたし、お腹空いてるんだよ」  弥生は大袈裟に腹部を押さえて見せると、淡白な口調に似合わぬ愛くるしい姿で、駅から吐き出される人の波に逆らって駅の中へと歩き出した。 (────東綾斗か……)  門馬と話している中で浮かんだ疑問は、弥生の中でどんどんと大きくなっていった。  出来過ぎた出会いに裏があるような気がして、どうにか探れないだろうかと思案しながら、目的のカフェの前に辿り着いた。  楽しみにしていた店は正月休み中で、弥生は今日二度目の盛大な溜息を吐いたのだった。
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