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紫陽花
正月休みを終えて、栞の退職までひと月を切った。
年末の忙しさを乗り切っての仕事始めは落ち着いたものだったが、引き継ぎ業務やデスク周りの片付けがあり、栞はそれなりに忙しく過ごしていた。
栞の仕事始めと同じ頃、綾斗は全国ツアーがあるといって出掛けていった。福岡から始まったツアーで、今は名古屋にいるはずだ。南から北に向かっていくのがいつものE directionのツアーの流れらしく、最後はいつも北海道なのだという。
週末、一日中一人で過ごすことになった栞は、久し振りに家でのんびり読書をすることにした。
「あ、ホントに結構あるんだ」
栞の実家に挨拶に行った際、綾斗は自分の本棚にある本は好きに読んで構わないと言っていた。リビングや寝室にあるブックシェルフの他、綾斗が衣装部屋として使っている部屋にも小説は点在していた。
綾斗が初めてきちんと読んだという“6月19日の花嫁”も、衣装部屋の本棚に紛れていた。
図書館で読んだ上で、更に自分でも購入したと言うだけあり、他の本と比べても段違いに読み込んだのだろうとわかる傷み具合だった。それでも、変な開き癖や汚れ等はなく、大事に扱ってきたのも見て取れる。
(乃南アサが好きなんだろうか? ……いや、推理小説が好きなのかな?)
同じ作者の小説が数作品ずつ置いてあるのは、一つの作品が気に入ると他のものも好みだろうと考えてのことかもしれない。栞も同じ買い方をしがちだから、どこか親近感を覚えた。
栞は長い時間をかけて本を吟味し、以前から読みたいと思っていた小説を見つけ、リビングへと持ち出した。
コーヒーの香りに包まれながら、大きな窓から射し込む陽を浴びて読書を始める。
一月だというのに、日当たりが良くて暖かい。つまらない本だったら眠ってしまいそうだと思う栞だったが、ページをめくる手が止められず、二時間ほどで約三百ページを読み終えてしまった。
「あ、コーヒー……」
折角淹れたコーヒーは、二口程度減っただけでマグカップを黒く染めたままだった。冷めきったそれを喉に流し込んだ栞は、読後の興奮が冷めない内に、愛用しているスマホのアプリを開いた。
【bookmark】
これは、SNSを積極的に利用しない栞が、唯一といっていいほど長く続けているアプリだ。スマホを持ち始めた高校生の頃から愛用しているもので、読書記録に特化したSNS。ただしSNSといっても栞は他者との交流は殆どしておらず、他のユーザーからフォローされれば、相手の読書記録を見て趣味が合いそうならフォローバックしている程度だ。メインは自分が読んだ小説の記録、そして気になる小説のチェックだった。たまに呟き機能を使って一言日記のようなものを書く日もあるが、私生活をありのままに公開することはない。
栞は早速今読んだばかりの本の感想を綴り、本の分類を『読みたい』から『読んだ』に変更した。
この本のタイトルは以前から気になっていてチェックしていたもので、期待値が高かったにもかかわらず想像以上に引き込まれる内容だった。珍しく他の読者の感想も気になった栞は、相互フォローしている数少ないユーザーの読書記録のページを開いた。いつも栞が興味を持つ小説を読んでいて、この本もこの人がオススメしていて知ったのだった。
男か女かもわからないこの“紫陽花”という人は昔から繋がっている数少ないユーザーで、多弁ではないが的確な作品紹介をするため、いつも栞の興味を引くのだ。今読んだ本に対する感想も、栞とは違った視点から読んでいながら着地点は同じ感想に至っており、やはり気が合う相手だなと笑みがこぼれた。これまで周りで読書している友人はいても、趣味が違ってあまり語り合えなかった。だからこうして“紫陽花”の感想を読んでは勝手に満足していた栞だったが、これからは綾斗がいる。
綾斗の本棚は栞の趣味と近いし、意見が同じでも違っても、共通の作品について語り合える相手ができたことが嬉しかった。
ひとしきり読後の余韻を楽しんだ栞は、ふとアプリの自分のページに戻り、最後に書き込んだ自分の呟きを見た。
『光子にはなれない。イツカなんてない。今すぐサヨナラ』
投稿日は先月の23日。栞が昌磨の浮気現場を目撃してしまった直後だ。昔読んだ小説のタイトルと掛けて怒りを吐き出した呟きに、栞は顔を熱くした。
「はっず……」
恋愛が絡むと人は詩的な表現を使いたがると栞は以前から思っていたが、まさに自分自身がポエティックな呟きをしていて恥ずかしい気持ちになった。
しかし、この時思っていた気持ちは確かにこれなのだ。小説では光子という女性はただひたすらに愛を貫いていたが、栞は自分が愛されていない状態で相手を愛し続けることはできないと気付いた。主人公は結局、光子と結婚しつつ別の女性を愛していた。昌磨が仮に栞と結婚しても、門馬への気持ちは変わらないかもしれない──そんな惨めな思いをするくらいなら、一時の傷を負うほうがマシだと思ったのだった。
消してしまいたい痛々しい呟きだが、栞はそれを削除せず、新たに前向きな投稿をすることにした。
『コーヒーをおいしく淹れられるようになりたい』
これもまた、昔から栞が読んでいる恋愛小説のシリーズに掛けた表現にした。
栞の中で、綾斗は契約結婚しただけの夫だと割り切れない、何か違う感情が広がってきていた。
それを恋と呼べるほど明確な熱はないが、水に落ちたインクがじわりと広がっていくように抗えないものでもあった。綾斗の名前を呼ぶたびに、そして綾斗に名前を呼ばれるたびに、胸の奥がジリジリと焼け付くようだった。
しかし相手は東綾斗というトップアイドル。嘘を嘘だと思わせない演技力があるからこそ、多くのファンを魅了し続けているのだろう。そんな彼の言動を真に受けて、愛されているかもしれないなどと錯覚してしまう自分が酷く滑稽で、だから尚更この気持ちに恋や愛と名付けるわけにはいかなかった。
(これじゃ、浮気されてすぐに新しい恋を始めたみたいだろうか……)
栞は自分の呟きを見返し、客観的に見て栞の状況は他人にどこまで伝わるのだろうかと考えた。綾斗との噂話を追いかけた時は、割と皆プライベートなことをストレートに書き込んでいたからすぐに栞個人を特定できたが、栞のこれは一見するとただのポエムだ。読書好きが集うアプリとはいえ、読書といってもジャンルは様々。必ずしも栞が読んだ本を他者も知っているとは限らない。恥ずかしいポエムであることに違いないが、これだけでは栞に何が起きているのかまでわからないだろう。
(まぁ、これくらいならいいよね)
綾斗の事務所から渡されたマニュアルには、SNSの運用についても細かい注意が記されていた。実名での投稿は避けること。もし実名でやるなら事務所を通して公式として運用すること。綾斗や私の所在地をリアルタイムで発信しないこと。
事務所が想定しているようなSNSではないが、このアプリで栞は実名登録している。フルネームではなく、アルファベットで“shiori”と表記しているがこれも事務所としてはNGなのだろうかと悩み、栞はユーザー名を“イヴ”に変更した。結婚記念日にあたるクリスマスイヴから取ったのは名前を考えるのが苦手だからという理由だが、無意識に結婚記念日をチョイスするのはもう誤魔化し切れない。心の変化を認めざるを得なかった。
────メッセージが届きました
名前を変更してすぐに、栞のスマホ画面に見慣れない通知がきた。アプリ内ではユーザー同士でメッセージを送り合える機能もあるが、十年以上使っていて実際にメッセージがきたのは初めてのことだった。
『はじめまして。shioriさんですか? お名前変えたんですか?』
メッセージの送り主は“紫陽花”だった。
アプリ内では、相互フォローしている相手がアクションを起こすと通知を受け取ることができるが、名前などの登録情報を変更してもそれは通知されない。
『初めまして。はい、名前変えました。今度からイヴと名乗ります。紫陽花さんがオススメされていた本、面白かったです。また参考にさせてください』
ずっと一方的に趣味が合うと感じていた相手からの突然のメッセージに驚いた栞だが、認識されていたのは嬉しい。あまり丁寧過ぎてもSNSとして違和感がある気がして、長々と語りたい気持ちを堪え、最低限の返信に留めた。
時計を見ると、いつの間にか夕方近くなっていた。夕食は冷蔵庫にある物で適当に済まそうと思っていると、綾斗から電話がきた。
「あれ? 綾斗、どうかしたの?」
『ごめん、今電話大丈夫?』
弾むような綾斗の声から、楽しそうな笑顔を簡単に想像できた。
「平気だよ。綾斗の本借りて読んでただけで、一日ゆっくり過ごさせてもらってたから」
『そっか、何読んだの?』
「“この闇と光”だよ。最初は耽美〜って思ったけど、後半の展開が好みで──って……綾斗、今日は名古屋でライブなんだよね? 電話してて平気なの?」
『うん、もう少ししたら本番。その前に栞の声が聞きたくて』
綾斗の言葉に、スマホ越しに「ヒュー♪」と揶揄う声が聞こえてきた。周りにはメンバーも一緒にいるのだろう。
「私は聞きたくなかったよ……」
他のメンバーが一緒にいるのなら自分に求められているのは仲睦まじい新婚の妻だろう。この通話での栞の声も聞かれているかもしれない。
そう判断した栞は、拗ねた声を出した。
「だって、折角綾斗がいない寂しさを読書で紛らわせていたのに、声を聞いたら会いたくなっちゃう」
それは全くの嘘でもなかったから、栞が自分で思う以上に上手く寂しがる新妻を演じられた。
『……無理、可愛い……もう今すぐ帰って抱きしめたい』
冗談とも本気とも取れる口調で応える綾斗に、栞はクスリと笑った。
「お仕事頑張って。ツアー終わって帰ってくる日は、綾斗の好物いっぱい作って待ってるね」
「すっげー楽しみ。俺も、お土産沢山買ってくから」
綾斗が満足げに電話を切ったことから、栞の対応が正解だったのだと安堵した。
結婚によるクビがないとわかった今、メンバーにまで契約結婚だと隠す必要はないのではないか。そう考える栞だったが、仲がいいからこそ愛のない結婚だと悟られるわけにはいかないのかもしれないと思い至る。メンバーの西田拓帆が恋人との間に子どもができたという人物らしいが、特にその彼は綾斗の結婚が仮初めだと知ったら気に病むだろう。
(その内メンバーとも会うことになるんだろうか……)
先日事務所で会った時は簡単な挨拶で済んだが、ただの仕事仲間ではなく昔からの馴染みのメンバーならばプライベートでも会おうなんて言われるかもしれない。それを考えると憂鬱で仕方がなかったが、栞も綾斗の妻になった以上、仕事の接待だと割り切って演じ切るしかないと覚悟していた。昌磨との件で全てを失った栞を救って、不自由ない暮らしをさせてくれている綾斗のためだ。
「あ……」
通話を終えたスマホ画面が、不意に明るく光る。
開いて見るとまたアプリの通知で、さっきの“紫陽花”へ送ったメッセージの返事だった。
『私もイヴさんの感想をいつも楽しみにしています。それと、詩的な呟きも読書家らしくて好きです。きっとイヴさんのショーリが美味しいコーヒーを淹れてくれると思います』
「うわ……呟きまで読んでくれてたんだ……」
気恥ずかしさで変な汗が出た栞だが、自分の説明不足な呟きの意味を汲み取って貰えたことは素直に嬉しかった。そして“紫陽花”に栞の恋愛感情を読まれたことから、綾斗には絶対にこの呟きは見せられないなと危惧した。
「ねぇ、栞って何かSNSやってたっけ?」
週明け、会社で一息ついた栞に弥生が話し掛けてきた。
「……どうしたの?」
「いや、なんとなくね。栞も今や有名人の妻じゃん? 特定されてたら大変だろうなって」
コーヒーを啜りながら何てことのない口調で話す弥生を、栞はじっと見つめた。弥生もたまに本を読むことは知っている。栞とは違い、映像化した本や話題の売れ筋をたまに読むタイプだと思っていたが、それが全てとも限らない。
「インスタとかそういうのはやってないよ。SNSとしての機能もあるアプリは使ってるのもあるけど、マメに更新とかはしてないかな」
栞がそう答えると弥生は「ふーん?」と呟き、それきり興味を失ったようだった。別の話題が始まり、栞も曖昧に相槌を打つ。
「────でさぁ、杉山の奴が……」
「それは弥生が厳し過ぎるんだよ」
何気ない会話をしながら、弥生が急にSNSなんて気にしてきた理由を探してみたが、結局栞には弥生の質問の意図がわからなかった。
「……そういえばさぁ」
弥生が視線を向けた先には、昌磨と門馬が不機嫌そうに肩を並べて仕事をしている姿があった。
「気を付けたほうがいいかもしれない。あの二人、別れたらしいから」
栞も朝からもしかしたらとは感じていたが、噂話に食いつかない弥生の耳にも入るほど昌磨と門馬のやり取りは不自然だったようで、社員達の中でその話題は一気に広まったそうだ。栞に直接その話が伝わってこなかったのは、元カノという立場だからだろう。
「……へぇ?」
今更何を気を付けろというのだろうか。
だけど、年末の昌磨の変な執着や門馬からの露骨な敵意は、何かを警戒しておくべきかもしれないと思わせるものだった。正直あの二人と関わりを持つのも嫌だったし、綾斗の妻としても余計な問題は抱えたくない。
「栞は、あの女と何か確執とかあった? あの男のこと以前に」
「確執……? 特にないと思うけど……出身地も学校も共通点ないし、彼女がウチに入社するまで会ったことないんじゃないかな?」
「だよねぇ」
弥生が急に質問してきたことで栞は首を傾げた。他でもない弥生からそんな踏み込んだ話を振られるとは思わなかったからだ。
「珍しいね、弥生がそんなこと」
「あー、ごめん。気に障った?」
「ううん、全然。私を気にかけてくれるからこそでしょ?」
「────さぁ?」
とぼけたフリをして肩をすくめる弥生は、切り揃えられた前髪を弄りながら栞のそばを離れた。
「あ、弥生待って。引き継ぎの件なんだけど」
やはり栞は、弥生の性格が好きだ。何でもない顔をしてさり気なく優しい。他者との距離感が押し付けがましくなく、無駄な詮索や拡散をしない安心感がある。
そんな彼女だから、栞は退職前に決めた大口案件であるオーアーツの担当を弥生に任せたいと決めたのだった。
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