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疑惑
栞が門馬に教えられた益地志桜里の裏アカウントは特別鍵が付いているわけでもなく、誰でも見られる状態だった。興味がないと跳ね返した栞に無理矢理URLを送ってきた門馬が言うには、匂わせたい女はあえて全体公開をしてむしろ特定されるのを待っているのだと憤慨していた。言わば恋敵のような相手である栞にそこまでしてきたのは何故だろうと考えたが、綾斗のファンとして単に益地のことが気に入らないだけのようだった。
「……はぁ」
残業を終えて自宅に戻った栞は、スマホに綾斗からの着信があったことに気付いた。マメに連絡をしてくるものだと感心していたが、もし本当にその合間に益地と会っていたのならば多忙の極みの中よくやるなと思えた。
栞は綾斗からの不在着信を無視したまま簡単な食事と風呂を済ませ、売れっ子女優ということくらいしか知らない益地について調べてみた。
ウィキによると益地志桜里は本名で年齢は栞と同じく現在二十八歳。十六歳の時に美少女コンテストでグランプリを獲り芸能事務所に所属後、デビュー作で朝ドラ主演を務めたのをきっかけに大ブレイク。益地が主演のドラマは必ずヒットすると言われているらしい。
(綾斗とも共演……まぁそうか)
益地と綾斗は五年ほど前にドラマで共演しており、その際E directionが主題歌も担当していた。栞は観ていなかったドラマだが、調べたついでに動画を開くと当時有線でよく流れていた曲で栞も聴いたことがあった。
二人の交際の噂はそのドラマの共演がきっかけで広まったそうだが、両者共に公式のコメントは出していないそうだ。益地の事務所は若手女優の恋愛は御法度のようで、綾斗もその頃海外ライブも増え世界的人気に拍車がかかっていた時期。事務所的には否定していたとのことだった。
ソファに沈み込んでぼんやり窓の外に目をやった栞は、カーテンをしていないこの景色から会社で門馬に見せられた画像を思い出した。
「……タワー」
このマンションの部屋からは東京タワーは見えない。上目黒という土地と二十階という部屋の高さ的にはよく見えそうなものだが、南向きの窓からは位置の問題で無理なのだ。
益地が──綾斗と会うために──泊まっていると思われる部屋の写真は門馬に言われて写り込んだ室内ばかり見ていたが、夜景には東京タワーが綺麗に見えていた。
そんなことを思い出していると、綾斗から再び着信があった。
「…………」
電話に出るべきか一瞬迷い、通話ボタンを押した。その手が震えていることに気付き、栞は自分で思っている以上にダメージを受けているのだと思い知った。
「……はい」
『あ、栞? ごめん寝てた?』
綾斗の声はいつも通り優しく、少し低い落ち着くものだった。
「ううん、起きてたよ。ごめんね電話貰ってたのに。今日ちょっとトラブルあって残業してたの」
何も知らないフリをして平静を装った栞は、益地の呟きが脳裏にチラつくのを散らすように頭をブンブンと横に振った。
『マジか、お疲れ様。ごめんな、疲れてる時に』
「ううん、平気。明日頑張れば明後日休みだし……綾斗は明後日東京ドームなんだよね? もうこっちにいるんでしょう?」
事前に聞いていた情報が正しいものなら、スタジオに缶詰めのはずだ。
『うん、今汐留。本当は家に帰って栞とイチャイチャしたいんだけど、長尾さんが許してくれなくて』
綾斗は汐留にいる。レコーディングスタジオはプロだと個人宅に作っている場合もあるらしいから栞には調べられないと思ったが、益地の写真のホテルならわかるかもしれない。
「汐留からって、東京タワーも見えるよね」
『あ、栞はスカイツリーより東京タワー派? そうだな、よく見えるよ。今度一緒にタワー行こうか』
「ん……そうだね。私まだ行ったことないんだ。スカイツリーは何度か行ったんだけど」
『────デートで?』
少しムッとした声色で訊いてくる綾斗に、栞は思わず益地の名を出したくなった。だけどすぐに、栞自身も綾斗が初めての男でもないのだからと自分に言い聞かせた。
「違う違う、買い物に」
『そっか、良かった』
「……」
『……栞?』
今日は上手く会話を繋げられず、栞は戸惑いながら乾いた笑いを漏らした。
「あは……なんかやっぱ、ちょっと疲れてるのかも……」
栞の名を呼ぶ綾斗は、とても愛おしい名を呼ぶようだった。多分、初対面の時からそうだったからこそ栞も受け入れられた気になって心地良かったのだ。だけどそれは“栞”への愛情ではないのかもしれない。栞に他の人の影を重ねていたのなら、その優しい声で名前を呼んで欲しくないとさえ思えた。
『ごめんな、俺がしつこく電話したから』
「ううん、綾斗のほうが忙しいのに私が疲れたなんて失礼だったね。ごめん」
『そんなこと言うなよ。人と比べないで、栞は栞なんだから』
「それを綾斗が……っ!?」
『……え?』
「……あっ、ごめん……なんでもないの、ホント……ごめんなさい、もう寝るね」
不安定な情緒を誤魔化すように一方的に電話を切った栞は、目にいっぱい溜めていた涙をポタポタと溢れさせた。
「────……バカみたい、私……っ」
利害が一致しただけの契約結婚に何を夢見ていたのだろうかと自嘲し、乱暴に涙を拭った栞は汐留にある東京タワーがよく見えるホテルを調べた。それらしいホテルを見つけ、部屋の画像と益地が投稿していた写真を照らし合わせたところ、栞はおそらくそうなのだろうと判断した。
門馬のことを言えない行動に自分で呆れながら、明日も仕事だというのに現実から目を背けたくて、綾斗の本棚から適当に一冊手に取った。
綾辻行人のミステリを選んだのも名前に綾斗を求めているようで逃れきれないのかと思ったが、物語がひっくり返される叙述トリックの数々に夢中になり、途中からは雑念も吹き飛ばせた。
結局夜中まで起きて読了した上にアプリで感想を綴り、深夜のテンションに任せて“イヴ”としての呟きまで投稿してから眠りについた。
『私は私だよ。たっくんじゃない』
短い眠りから目が覚めた栞はスマホの画面を見て、アラームも鳴る前の普段より早い時間だと知って溜息をひとつ溢した。
「……あ」
そして同時に、アプリにメッセージがきていることに気付いた。目を擦りながらアプリを開くと“紫陽花”からの気遣うような内容が書かれていた。
『イニシエーション・ラブですか? 何かあったのですか?』
まだ綾斗に直接確認したわけではない。益地の匂わせ行為と綾斗の行動が一致しているだけだ。決めつけるのは良くないと頭ではわかっているのだが、冷静になれない栞がいた。
『すみません、構ってちゃんな呟きでしたね。ちょっと色々わからなくなってしまって』
そう返事をして顔を洗った栞は、目が腫れぼったいのを隠すために保冷剤で目元を冷やし、いつもと違うメイクで隠した。
「────で? 何があったの?」
午前中の業務をやり過ごし持参した弁当をデスクで広げている栞の横に、コンビニ帰りの弥生が腰を下ろした。
「え……?」
今朝の“紫陽花”とのやり取りを思い出す。
益地の件は門馬から弥生に伝わる可能性は限りなく低いため、栞の中で“紫陽花=弥生”の疑惑が浮かぶ。
「メイクが違う。誰が栞を泣かせたの?」
「えぇ? ……よく見てるね。弥生が恋人なら幸せそう」
「あたしもそう思う。顔も良いし気も利くし!」
ニカッと綺麗に並ぶ白い歯を見せて笑う弥生は、いつものように豪快にパンにかじり付いた。
「そだね」
「ホラ、はぐらかさないの。何? アイツらが何かしてきた?」
昌磨と門馬は揃って外出中だ。昨日のミスの謝罪と訂正の為、揃って先方の会社に出向いているところだ。
「ううん、なんでもないんだよ」
「あー、じゃあ旦那が忙しくて寂しい感じか」
「……そんなことは言えないよ」
寂しいなんて思ってもいい立場ではないのだ。契約妻としての立場を忘れてはいけない。
「なんでもないの、ホント。昨日の夜、うっかり小説読み始めちゃって。感動して泣いちゃった」
読んでいたのは殺人事件が繰り広げられるクローズドサークルミステリで感動して泣くようなジャンルではないのだが、咄嗟にそんな嘘を吐いた。
「…………そう」
疑うような目で栞を一瞥し、弥生は「まぁいいけど」と呟いた。
「午後三時半だよね? オーアーツ」
そうだ。午後からは弥生と共に、引き継ぎの挨拶と契約後の利用状況確認のためオーアーツに顔を出すことになっている。それぞれ午後イチから別の取引先との約束があるから、栞と弥生はオーアーツの事務所前で落ち合うことになっていた。
「うん、わざわざ大槻社長が時間作ってくれるみたい」
「所属タレントの奥様となると待遇が違いますねぇ」
他の人から言われるのは変な下心が見え隠れして不快だが、弥生が栞に対して綾斗の妻であることをイジってくるのは不思議と嫌な気はしなかった。
「いえ、私のコレですよ」
だから栞も自分の上腕二頭筋をポンポンと叩いて、おどけて見せた。
「確か下のロビーは誰でも出入りできるスペースだったから、もし先に着いたら屋内で待っててくれる? 寒いから」
「言われなくても」
通常運転の弥生の言動に安堵しながら、栞はやはり弥生が“紫陽花”なのかもしれないと考えていた。もしもそうなら気が合うのも納得だし、更に弥生を好きになれそうだ。だけどネット上の話を現実社会に持ち込むのは野暮だろう。弥生から直接話題に出されない限り、栞もそれには触れないことにしたのだった。
栞はずっと世話になっていた取引先に挨拶に行ってから、六本木に着いてすぐに洋菓子店で焼き菓子のセットを購入し、オーアーツの事務所が入っている複合ビルに向かった。
弥生と待ち合わせしていたロビーに入ると、入口から少し離れた位置に弥生の愛らしい姿が見えたが、その横に男が一人立っていることに気付いた。
(……あれは)
興味が無いながらも、綾斗の妻としての役割を果たすために必死に覚えた顔だ。
「こんにちは、南野さん」
栞が営業スマイルで近付くと、名前を呼ばれた夏楠は一瞬驚いた顔をして、すぐににっこりと微笑んだ。
「あれ? 栞さんじゃん。こんにちは」
疲れた表情の弥生と目が合い、なんとなく状況を察する。
「弊社の者が何か失礼を?」
「えっ!? このコ栞さんの会社の人!? ってことは今日社長と約束してるっていう?」
「えぇ、私と同期の坂口と申します。今後こちらの担当を坂口がするので────」
「なんだぁ! めちゃくちゃ可愛いからどこのアイドルグループのコかなぁって思ってたんですよ。そっか、じゃあ栞さんの同期ってことは俺より……」
「年上です」
そう一言口を挟んだ弥生は、取引先の相手だからか相当な不機嫌を我慢して下唇を巻き込んでいる。
「南野さんは今日は……?」
綾斗のスケジュールが栞への申告通りなら、引き続きレコーディングと明日からのライブのためのリハーサルで夏楠も忙しいはずだ。
「あぁ。さっきまでレコーディングしてたんだけど、俺だけ他の仕事があったから抜けてきたんです。その関係でちょっと事務所に戻った帰りで、ロビーに佇む坂口さん? を見つけて。てっきりどっかのグループのコかと思ったから、必要なら事務所に連れてこうかと思ってた所です」
随分と饒舌な夏楠の説明は、栞が知りたい情報をきちんと全て伝えるものだった。あまりに綺麗過ぎる説明に裏を読もうとしてしまい、小さくかぶりを振った。
「そうでしたか! お忙しいんですね、お疲れ様です」
栞が夏楠に笑顔を向けて労うと、夏楠も満面の笑みで応じた。
「ありがとう。栞さんこそお忙しいようで。綾斗が心配してましたよ」
「……そうですか」
「栞さんは綾斗にとってかなり特別な人だと思うんです。もう何年も彼女も作らなかった綾斗が、最近は栞さんの話ばかりで。ずっとその────引きずってる人がいたみたいだから、吹っ切れて栞さんと結婚できてよかったです」
「え……」
栞が調べた情報によれば、夏楠は可愛らしいビジュアルを活かした小悪魔的キャラで売っているらしい。今もオーバーサイズのニットの袖口からチラリと覗かせた手は胸の前で合わせられ、小首を傾げて栞を見つめている。
だけど“小悪魔”というのはどこまでが作られたキャラクターなのだろうか。
栞の目の前で可愛らしく微笑む夏楠は、全身を可愛いという形容詞で武装しながらも、まるで熱のない冷めた瞳をしていた。
「……すみません。私達、そろそろ」
弥生が栞を庇うように一歩前に出て夏楠と対峙する。
「あぁ、引き留めてしまってすみません。また今度改めて、綾斗も一緒に食事でも」
夏楠の何かを探るような眼光に、栞は会釈に託けて目を逸らした。
「────えぇ、主人と相談しますね」
建物から夏楠が出ていくのを見届け、栞と弥生も受付で取り次いでもらいオーアーツの事務所がある階に向かった。エレベーターの中で二人きりになると、弥生は露骨に嫌な顔をした。
「何なのアイツ。凄い嫌な奴じゃん。アレが東綾斗と同じグループの男?」
「そう毛嫌いしないの。あの人はE directionのメンバーの一人、南野夏楠さんだよ。キュートなビジュアルで天真爛漫、だけど時折毒も吐く小悪魔キャラなの」
「ウィキ丸写しじゃん……」
「……バレたか」
栞も一度挨拶をしたことがある程度だと話し、だから彼についてはよく知らないのだと肩をすくめた。
「けど、明らかに敵意……まではいかないけど、何か意図して栞に意地悪言ってきたっ」
「意地悪のつもりじゃないでしょ」
「いや、普通仲間の奥さんに“お宅の旦那昔の女に未練あったよ”なんて悪意なく言う!?」
益地の匂わせがあったから気になってしまうのかと感情を押し殺していた栞だが、弥生が興奮気味に怒りを露わにしていることで、これは気にしてもいいのだと理解した。
「栞、いい? 東綾斗の結婚相手は他の誰でもない、栞だよ。外野が何を喚こうが最後に選ばれたのは栞なの」
「……ん。ほら、大槻社長と面会するよ」
胸の奥がずっしりと重たく痛んで息苦しさを覚えた栞だが、目の前の仕事に打ち込むことでモヤモヤとする感情に蓋をした。
その日から数日、栞は綾斗からの連絡に応じることはなかった。
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