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ダブルキャスト
「綾斗、二曲目のサビ前で振り間違えただろ」
ミネラルウォーターを浴びるように飲む綾斗に、メイクを落としたばかりの夏楠はサラリと指摘した。
この土日は東京ドームでの公演だった。今日は東京ドーム二日目で、前日とはセットリストも違う。このツアーで歌う曲だけでも何十曲とあるし、多少のミスはむしろファン達が喜ぶくらいなのだが、綾斗はこれまで自身が申告した声の不調以外で目に見えたミスは一度もしたことがなかった。
「悪い……」
夏楠が指摘したパートも、普段からアドリブを多く取り入れる部分だから目立ったミスとは言われないだろうが、夏楠から見た綾斗は明らかに普段と様子が違っていて、それに触れずにはいられなかった。
「金曜から元気なくね?」
「いや、うん……」
「まぁ無事東京公演も終わったし。札幌ン時は少し長いけど、帯広行くのか?」
この後二日ほど東京での仕事をこなせば、すぐに北海道入りして札幌ドームでのライブに先駆けて北海道でのローカル番組出演予定が多数入っている。それでも一日だけ北海道にいる間にオフがあった。
「どうしようかなって悩んでる」
「タクは今回、実家に顔出すって言ってたな。乃蒼ちゃんが実家帰ってるらしいし、乃蒼ちゃんトコも寄るとか」
正月休みに綾斗が栞の実家に挨拶に行っていた頃、拓帆も恋人の乃蒼と両家に挨拶に行き、そのまま婚姻届を提出していた。拓帆の入籍の件はツアーが終わってからマスコミに流すことになっているが、拓帆がツアーで不在中、つわりが始まり体調の優れない乃蒼を一人にしておけないといって、乃蒼は正月帰省してからそのまま帯広の実家に滞在している。
「綾斗も正月帰省したばっかだし、札幌で休んでる?」
札幌から帯広までは車で高速に乗って約三時間。冬道だともう少しかかる。栞のいない帯広に行ってもつまらないと考える綾斗は、しばらく会っていない実両親の元へ帰省するのも億劫に感じていた。
「多分、ホテルで適当に本でも読んでる」
「そっか」
「夏楠はどうすんの?」
「親が札幌に遊びに出て来るって言うから、ちょっと顔出そうかと思ってるよ」
「いいじゃん、楽しんで来いよ。おばさん達によろしく」
綾斗はカメラの前で作るような笑顔を夏楠に向け、自分のスマホを眺めて一つ溜息を吐いた。
「……ズバリ、喧嘩だろ?」
夏楠の一言で綾斗が唇を尖らせる。
「────喧嘩、っていうか……わかんねぇ。何か失言しただろうか……」
「女は意味わかんない理由で怒るからなぁ」
「栞はそんな女じゃないし。多分俺が何かしたんだと思う」
そう頭を抱える姿を見て、夏楠がこれまで見てきた綾斗とはまるで別人だなと驚いた。
今までも、明言はなくともメンバー内で恋人ができれば言動の変化からわかったものだが、綾斗は彼女がいても相手に振り回されるようなことは無かった。ただなんとなく、特定の誰かを引きずっているのだろうという空気はあって、だからこそ、その他大勢の女達に感情を動かされている様子は見受けられなかった。
それが栞と結婚してからは喜怒哀楽もわかりやすく、今日のように仕事にまで影響を及ぼしている。
「そんな心酔するような女なの?」
「────は? 夏楠、前に栞に会ったよな? あんな美人そういないだろ」
「いや、確かに美人だったけど……えぇぇ? じゃあ、俺が栞さんめちゃくちゃ良いなって言ったらどうよ?」
「お前のこと殴る」
「ほらぁ! 理不尽!」
「栞はすげー美人だけど、そうじゃないんだよ。中身が物凄く可愛い。可愛いんだけどあざとさとか無くて、むしろ知的な面も堪らない。気遣いの鬼なのに押しつけがましくないし────」
突如始まった惚気に、夏楠は苦笑した。
「すげー語るじゃん。綾斗がベタ惚れなことはわかったよ」
「そうだよ、気遣いが行き過ぎて自分を殺すところあるから……きっと何か我慢させてるんだよ……」
「一般人だしなぁ。綾斗のヤバめのファンに粘着されてるとか、まぁ栞さん自身もあのビジュだからストーカーとかいてもおかしくないよな。その線は?」
「それらもあり得るけど、そういうのとも違うと思うんだよなぁ」
夏楠と綾斗でそんな話をしていると、長尾と話していた拓帆と律も楽屋に入ってきた。
「札幌ドームで新曲発表しようって話なんだけどさぁ〜」
律の能天気な声に、綾斗が思わず険しかった表情を緩めて反応する。
「長尾さんとの話? なんか変更あった?」
「変更ってかMCでタクが映画の主演決まった話してそっからの流れにしようって……あ、ごめん。夏楠と綾斗なんか話し中だった?」
夏楠達の様子を見て謝る律の後ろで拓帆が笑った。
「律、毎回そうやって勝手に話し始めるのいい加減やめなよ」
「マジごめん。気を付けてるつもりなんだけど、つい……」
ファン達からは“愛すべきアホ”なんて言われるほど律は天然とも言える自由なキャラクターで売っているが、それは特別キャラ付けをしているわけではなく普段からそうなのだ。やんちゃなビジュアルと奔放な性格の律はバラエティでも重宝されていて、しかしそのキャラとは結び付かない歌声の繊細さがまた人気に繋がっている。メンバー達もこうして咎めるような物言いはしつつ、律の言動で場が和むことが多いため疎むようなことはなかった。
「綾斗がさ、栞さんと喧嘩中で」
夏楠が切り出すと綾斗はムキになって反論した。
「だから喧嘩じゃねーし! ただ金曜から栞に既読スルーされてるだけだし……」
「確かにこの週末は電話もしてなかったな」
拓帆に言われて綾斗が項垂れる。
「ツラい……」
「それって本当に綾斗が辛がってていい話?」
何の気なしに放たれた拓帆の言葉は、綾斗を斬り付けた。
「え?」
「綾斗さ、栞さんに熱を上げるのは勝手だよ? 新婚なんだし普通の感情でもあると思うけど、他の女の子とはちゃんと関係清算してる?」
E directionのメンバー内で綾斗と同じくらい真面目な拓帆は、いつもこうして厳しくも的確な指摘をする。夏楠も何度も「小悪魔キャラに胡坐をかいて誠実さを失うな」と注意されてきていた。
「知ってるだろ? 俺、別に女遊びとかしてないし────」
「本当に?」
「……なんでそんな突っかかってくるんだよ。本当だって」
「木曜の夜、綾斗は本当に俺らと同じスタジオに泊まってた?」
笑顔のまま淡々と質問を続ける拓帆は、自分のスマホの画面を開いて綾斗の前に突き出した。夏楠と律も一緒に覗き込む。
「栞さんさぁ、多分コレ見たんだと思う。金曜から連絡つかないのも投稿日から辻褄合うし」
「……これは?」
疑問符を浮かべ固まる綾斗の横から、夏楠は拓帆のスマホを手に取り指を滑らせていく。誰か──おそらく女性のアカウントと思しき呟きは、何気ない写真を添えて不規則に独り言ちていた。
「乃蒼から送られてきたんだよね、コレ。益地志桜里さんの裏アカウントって噂らしいけど、綾斗とのこと匂わせてる」
拓帆の説明に、綾斗はその女性の名前を復唱した。
「益地志桜里……」
改めてそれらの呟きを確認していくと、確かに綾斗の──E directionのファンであれば気付くような簡単な仕掛けが施された写真や言葉選びで、それによると現在開催中のツアーの合間にも時間を作っては彼女と綾斗が逢っているようだった。
夏楠も他のメンバーも、益地志桜里という名前はよく知っている。
有名な女優だからという理由だけではない。かつて綾斗と浮名を流した相手だからだ。
「いや……木曜はみんなでスタジオでレコーディング……」
「夜中はタイミング見ながら交代で休んでたじゃん。同じ部屋で一気に仮眠を取ったわけでもないし、抜け出そうと思えばスタジオの外にだって行けた。実際、綾斗は少し離れたコンビニで飲み物買ってきただろ?」
「そんなの────」
「益地志桜里さんと栞さん、どっちも“シオリ”で同い年。ただの偶然? にしては、ファンが邪推しやすい条件揃っちゃってるけど?」
拓帆は一途な性格だ。夏楠や律のように軟派な男は理解できないと言っていたこともある。綾斗のことはずっと元カノを引きずっている様子があったし、応援する気持ちで見ていたのだろう。
「栞さんは益地志桜里さんの代わりってこと? それとも影武者にしてるの?」
「違う!」
声を荒げる綾斗だったが、その視線はどこか落ち着かなかった。
────綾斗は何かを隠している。
「……事実なんて今は二の次だよ。問題は、益地志桜里さんのものと思われるアカウントが綾斗との関係を匂わせているという現実。真偽なんて世間は見てない。そこに“ある”コレが全てなんだよ」
「そんな……なんでこんなこと……でも、栞は芸能関係疎いし……」
ブツブツと嘆く綾斗の肩を夏楠がポンと叩く。
「別にさぁ、栞さん自身がゴシップ興味なくても、周りにそういう人がいたら嫌でも耳に入ることだってあるだろ? 職場でも綾斗の結婚相手だって知られてるならなおさら、話題に出るんじゃない?」
「……しおり」
消え入りそうな綾斗の声は、どちらの“シオリ”を指しているのか夏楠には判別できなかったが、綾斗が結婚を公表したばかりでの不倫騒動は拓帆の指摘通り事実がどうであれマズい。
「俺や律じゃなく、まさか綾斗が問題起こすなんて思ってなかったわ。とりあえず長尾さん呼ぼうか」
夏楠の言葉に頷いた律が部屋を出る。すぐそばの控え室にいたらしい長尾がすぐに駆けつけてきた。
「何やってるんだよ、綾斗」
長尾の厳しい口調に綾斗が何か言いたげに口を開きかけ、俯いた。
「……このアカウントは益地さんのもので間違いないのか?」
長尾が問い掛けるものの、その場にいる全員が真偽もわからず黙りこくった。あくまで乃蒼からのタレコミというだけで、確かな情報というわけではない。
ただし、乃蒼は昔から拓帆一筋で上手く世間を欺き続けて結婚まで漕ぎつけた人物で、ずっとE directionの情報を追ってきて拓帆を裏で支えていた女だ。SNSでの情報収集も得意で、危なげなファンの動向を監視していたりもする。これまでも何度も乃蒼の助言で助かった局面があり、メンバーにとって彼女からの情報は信頼できるものであった。
それを拓帆が伝えると、長尾は漫画の真面目キャラのように黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「──わかった。とりあえず社長に報告してから彼女の事務所に確認取ってみる」
長尾が自身のスマホを手に取ったのとほぼ同時に、楽屋のドアからノック音が響いた。律がドアを開けるとライブスタッフの一人が困惑した表情で立っていた。
「すみません、もう帰るところでしたよね?」
「いいよー、大丈夫。どしたん?」
気の抜けた声で律が笑顔を見せると、スタッフは横目で廊下の向こうを見遣って声を潜めた。
「あの……お客様です」
ライブ後に楽屋に顔を出す人は少なくない。メンバーが関係者席に家族や知人を呼んでいることも多いし、一般参加でも同じ業界で仲のいい相手なら差し入れ片手に挨拶に来てくれたりもする。スタッフ達もそれは知っているし珍しくもないのだが、彼は気まずそうに訊ねた。
「お通しして大丈夫ですか? 綾斗さんに……お二方いらしてますが」
「二人? 綾斗に?」
律がひょっこりと廊下に顔を出し、少しの沈黙の後やはり気まずそうな顔で楽屋内に顔を戻した。
「長尾さん、電話するまでもないかも……」
場の空気など普段読まない律がぎこちなく作り笑いをし、夏楠も廊下を見に行った。
「……わーぉ」
そして落ち込んだままの綾斗に、追い討ちをかけるような事実を告げた。
「噂のWシオリさん、来てるけど」
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