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身代わりの恋
一体どうして自分がこの場に居るのか、栞はまだ事態を飲み込めていなかった。
ただ一つだけ、あまり気が休まらない場面に立たされているのだということはわかる。
「栞……と、益地さん」
綾斗が気まずそうにしているのはどちらの“シオリ”が原因なのか、そもそも栞と益地志桜里が一緒に登場した事実に戸惑っているのか、栞にはわからずじっと綾斗を見つめた。その視線に気付いたらしい綾斗がぎこちなく笑う。
「来てくれたんだ、栞」
これは栞に投げかけられた言葉なのか、益地に対して放ったものなのかもわからず、完璧に整えてきた肩下に垂れている巻き髪に指を絡めて栞は俯いた。
門馬から益地の裏アカウントと思われる呟きを見せられてから、綾斗の一挙一動、一言一句に疑心暗鬼になっていた。だからここ数日は綾斗からのメッセージに返事もできず、電話を受けることもできなかったのだ。気付いてしまった綾斗の“本命”と、思い知らされた栞自身の綾斗への気持ちを一気に受け止めて処理するのは難しかった。
綾斗からは、この土日のどちらか都合がつくならライブに来てほしいというメッセージが送られてきていた。スタッフに言えば関係者席に案内してもらえるよう手配しておくと言われていた通り、栞が会場に来るとすぐにスタッフの一人が駆けつけてきた。
「ごめん、途中からしか観れなかった」
ずっと無視していた気まずさから下を向いたままそう告げる栞だったが、綾斗は嬉しそうに栞に歩み寄って抱きしめた。
「栞がこうしてここに来てくれたんだ。ライブなんて観てなくても構わないよ。会いたかった」
他の人達の存在を忘れているかのように綾斗は栞と二人の時のような甘い空気を溢れさせたが、栞の後ろから益地が言葉を挟んだ。
「私もシオリだよ、あーや」
語尾にハートマークでも付きそうな甘い声で綾斗の顔を覗き込んだ益地は、しかしスタッフや他のメンバーへの挨拶も欠かさない。
「お世話になってまーす、益地志桜里です。イーディレの皆さんとはお久し振りですねぇ!」
意味深に笑顔を振り撒いた上で、栞に対しても愛らしく目を細めた。
「スタッフ達に囲まれてた栞さんを見つけたから、連れてきちゃった。綾斗が今大事にしてる人だもんね、私も他人とは思えなくて」
含みを持たせた益地の物言いに栞の胸がチクリと痛む。
(これがこの人のやり方……)
E directionのメンバー一同もどこか気まずそうに見えるのは、栞の思い違いではないだろう。
────考える。
栞がここで求められているのは“綾斗に愛されている新妻”だろう。この際綾斗と益地の関係は無視してもいい。表向きは栞が綾斗に押し切られる勢いで求婚された、溺愛されている妻なのだから。スタッフ達も様子を窺っているし、解散云々の話は無くなっていても契約結婚だとは誰にも話していない。まだ他のメンバーとも挨拶程度しか言葉を交わしたことがないし、栞のキャラクターは定まっていないはずだ。
(どう対応するのが正解……?)
返答まで時間をかけるのは悪手だ。そう判断した栞は、熟考を後回しにしてまずは楽屋に居る者全員に対して微笑を浮かべた。
「そうなんです。とても助かりました。何せこういう場所には慣れていなくて……皆さん、お疲れさまです。これ、もしよければ皆さんでどうぞ」
買ってきたフィナンシェの箱を差し出すと、律が無邪気に人懐っこい笑顔でそれを受け取った。
「あっ! ここのお菓子好きなんだよねー! 甘いのあんまり食べないタクもコレは好きだよね。さっすが栞さん、センス良い〜!」
「ふふっ、良かったです。何が良いのかわからなくて、つい自分の好きなものを選んじゃいました」
栞の穏やかな口調と律の能天気な対応に、益地の牽制でピリついていた空気が一気に緩んだ。
続けて栞は、益地だけにとびきりの営業スマイルを向けた。
「益地さん、本当にありがとうございました。元々芸能関係に疎くて、こういったライブも初めてで。あ、でも益地さんのことは存じ上げていますよ! こんなに有名な女優さんなのに、気さくに話し掛けて下さって感動しました」
「……えぇ〜、そんな、当然だよ。けど、あーやと結婚してるのにライブは初めてなんだ?」
「恥ずかしながら、最初は主人がどんな仕事をしているのか知らなかったんです。だけど益地さんのような女優さんとも懇意にしているなんて、やっと主人が芸能人なんだなって実感しました」
裏アカとはいえ匂わせなんてする性格なら、栞に対してマウントを取りたくて仕方ないはずだ。現に先制攻撃がそうだった。ならば栞が対抗心を顕にしたところで不毛なマウント合戦になりかねない。ここはあえて益地を持ち上げることにした。
「……で? 益地さんは、どうしてここに?」
栞と益地が対峙するのを避けたかったのだろう、綾斗が栞の肩を抱きながら問い掛ける。
「そんな他人行儀な」
「他人なんだよ」
益地に対して思いの外突き放した対応をする綾斗に、栞は首を傾げた。綾斗の本命は益地のはずだ。
(……あぁ、そうか)
彼女は女優だが、綾斗もまた俳優業もこなすアイドルだ。表向きはつれない態度を取ることだってお手のものなのだろう。常日頃ファン達を欺いて私生活を守っているのだから。
合点がいった栞は、綾斗達の茶番劇に巻き込まれてやろうと決めた。あくまで自分も“役割”をこなすまでだ。元々契約結婚なのだから、そこに余計な感情を混ぜ込んでややこしくする必要などない。
「やだあーや、またそんな言い方して。私とあーやの仲じゃない」
二人の関係を隠す気がない──むしろ積極的に開示しようとする益地は、美しい流し目を披露した。
「綾斗、えっと……」
ここはきっと、栞が戸惑って見せるのが正解なのだろう。益地は満足するだろうし、綾斗も益地との関係を認めやすい流れが作れるはずだ。
そう踏んで見上げた栞と目を合わせた綾斗は、軽く栞に微笑みかけると長尾を見遣った。
「長尾さん、今日俺帰っていい?」
「はぁ? 急にそんな────」
「明日の朝一の生放送に間に合えばいいんでしょ? 今夜の打ち上げと打ち合わせくらい免除してよ」
どうやら今夜帰宅できない予定だったのは、ライブ後の打ち上げ後に打ち合わせを入れていて、その後早朝からの番組出演に備えて休息時間を確保するためだったようだ。一度帰宅するより事務所で仮眠をとってそのまま現場に向かうほうが睡眠時間が取れるのだろう。
「いいんじゃない?」
拓帆が横から助け舟を出すと、律も頷いた。
「綾斗がいなくても大丈夫じゃない? どうせ朝の生放送あるからそんなに酒も飲めないし、打ち合わせだって台本のチェックくらいでしょ?」
「まぁ、そうだが────」
長尾は顎に手を当てて何か考え込み、渋々といった様子で首を縦に振った。
「四時だぞ? 迎えに行くからな」
「! ありがと長尾さん!」
予想外の流れに慌てたのは益地だった。
「えっ!? ちょ、私は……!?」
「いや、俺は別に益地さんのこと呼んでないし……大好きな妻と少しでも一緒に過ごしたいのは自然じゃない?」
「そん……えっ!?」
戸惑ったのは益地だけじゃない。栞もまた、思いがけない綾斗の帰宅宣言に驚いていた。
「綾斗、大丈夫なの……?」
「平気だよ。みんなもこう言ってくれてるし、俺としては栞とずっと会えなかったほうが大丈夫じゃなかったから」
「……そっか。でも、今夜帰ってくるとは思ってなくてご飯の用意してないよ?」
「栞もまだでしょ? 何か頼もうよ。それじゃ、悪いけどみんな、俺一旦帰るわ。また明日」
にこやかに楽屋を後にしようとする綾斗に肩を抱かれて促された栞は、メンバー達に会釈をした。
「何それ」
目に見えて不機嫌な益地が栞を睨み付ける。
「あ……えっと……」
綾斗が自分と帰宅することを選んでくれたことが嬉しかった栞は、しかしもっと綾斗と気まずいものだと構えてきていたからどんな感情でいればいいのかわからなかった。益地に対してもそうだ。元々会うとは思っていなかった相手だし、この場で面子が揃った時点で栞は自分がアウェーになると覚悟していた。それがどうだろう。メンバー達の反応は栞が正妻だから自然かもしれないが、綾斗は本命であるはずの益地にあまりにも冷たい。それが尚更栞への攻撃的な態度に繋がる。
「栞さん、あーやの奥さんなんだから仕事の邪魔するのはよくないよ? 素人だからわからないのかもだけど、芸能人は関係者との付き合いも大事な仕事。ここはあーやを飲み会に送り出すべきよ」
栞には何が“本当の”情報なのか判断できなかった。あの呟きが益地の裏アカウントなら綾斗とは特別な関係なのだろうが、目の前の綾斗の態度は好きな相手へのそれではない。
綾斗への恋心という余計なフィルターをかけてしまったことで、綾斗の栞への甘い態度を本物だと信じたい気持ちが芽生えていた。
「……そうですね。主人の仕事を支えてあげるのも妻の役目ですよね」
栞の言葉に益地がフンと鼻で笑う。
「でしょ────」
「ならば、私はこのまま主人を連れて帰ります」
きっぱりとそう言い切った栞は、綾斗の腕に絡みついた。
「本人が私と過ごしたいと言っていて、長尾さんもメンバーの皆さんも許可してくださったんです。それが一番主人のパフォーマンス維持に繋がるかと」
「……はぁ!? 貴女、どれだけ自分に自信があるのよ!?」
「当然じゃないですか。私は綾斗の妻です」
栞が真っ直ぐに益地を見つめると、益地は手のひらの中ほどまで隠すセーターの長い袖をギュッと握り締めた。
「栞……」
どこか嬉しそうな綾斗は、長尾に目配せしてから益地に一歩近付いた。
「益地さん、ちょっと確認しておきたいことがあるんだ。この後うちのマネージャーと話せる?」
「え?」
「みんな……あんなSNSより、俺を信じて欲しい。必要だったら俺のスマホでもなんでも徹底的に調べてくれて構わないから。ただ、ごめん。ホントに栞と会えなくて禁断症状出てきそうでさ、今だけ抜けさせて。戻ったらいくらでも尋問受けるから」
綾斗がメンバー達に頭を下げると、夏楠が苦笑した。
「またミスられても困るしな」
「えっ!? 綾斗いつミスった!?」
驚く律を笑う一同に頭を下げ、綾斗と栞は楽屋を出た。
「待って────」
栞の視界には、引き止めようとする益地が長尾に腕を掴まれた所まで入り、扉は閉ざされた。
「で、益地さん。私達がお尋ねしたいことに覚えはありますか?」
益地がこれまで何度か現場で見かけたE directionのマネージャーである長尾は、真面目で温厚な印象だった。メンバー達には厳しい面もあるのだろうと思えることもあったが、基本的に益地から見た彼は頼れそうな優しい男だった。自身のマネージャーは何度も替えられているが、どれも益地の顔色を窺いながら言いなりにはなるもののビジネスパートナーとしては不充分だったから、羨ましいとも思っていた。
しかし、こうして彼らの“脅威”になり得る相手になった今、敵に回したことを後悔する威圧感が溢れていた。
「……直接尋ねていただけるということは、交渉の余地があるんでしょうか……」
益地の返答に長尾は眉ひとつ動かさず口元だけで笑った。
「まさか。この後正式にそちらの事務所に抗議させていただきますよ。ただ、益地さんの言い分次第ではこちらからの要求も変わるかもしれません」
尋ねると言いながら確信している言い草に、言い逃れはできないのだろうと小さく溜息をついた益地は、肩をすくめて頷いた。
「────私の裏アカの件ですよね」
「どうしてそんなことしたんですか? 俺達が──綾斗が困るとは思わなかった?」
夏楠の問いに誘発されて、拓帆も真剣な表情で口を開いた。
「綾斗が結婚したから、嫌がらせにあんな投稿したんですか?」
律はソファに背中を預けて黙って様子を見ている。メンバーそれぞれの色が出る反応だなと半ば面白くも感じながら、益地は吐き捨てるように答えた。
「……身代わり、だったのよ」
「うちの綾斗が、以前益地さんとお付き合いしていたことは把握しています。破局したものと認識していたのですが、益地さんとお付き合いを続けていた状態で、栞さん──奥さんと結婚したのが“身代わり”ということでしょうか。そちらの事務所は益地さんの結婚はまだ認めないでしょうし」
長尾の質問に対して、益地はその通りだと頷きたいくらいだったが、これ以上はただ虚しくなるだけだろうと諦めがつくほど、さっきの綾斗の態度はあからさまだった。
「そうだったら良かったのに」
「え?」
「逆です。あーやが当時私と付き合ったのは、たまたま私が栞さんと同い年で同じ名前だったから。身代わりだったのは“私”です」
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