夢か現か

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夢か現か

 堂島(どうじま)(しおり)が柄にもなく酔い潰れるほど飲んでしまったのは、そうでもしなければ耐えられそうになかったからだった。  一人で隠れ家めいたバーに入ったのも生まれて初めてだったし、たまたま居合わせた他の客と酌み交わしたのも初めてだった。 「…………えっ?」  二日酔いなのか頭が酷く重たくて、もう少しだけ暖かい毛布に包まれて微睡んでいたいと思っていた栞だったが、ふと首元に違和感を覚え目を開けるとそれは何者かの腕で、その先には艶やかな黒髪が視界に飛び込んできた。  一気に意識が現実へと引き戻される感覚に襲われる。 「ん……」  もぞもぞと動き栞のほうに体ごと向けたその黒髪の持ち主は上半身裸だった。薄く開いた瞳に栞の姿を捉えると、ニッコリと甘い笑顔を見せる。 「おはよ、栞」  馴れ馴れしく栞の名を呼び捨てるその男は、くっきりとした二重で切れ長の目に、高く真っ直ぐな鼻筋、形の良い少し薄い唇がバランス良く顔面に配置された所謂イケメンと呼ばれる類の顔立ちで、寝起きのこの状況でも隙のない美しさだ。 「お、おはようございます……?」  状況が飲み込めないまま栞がとりあえず挨拶をしてみると、男はプッと吹き出した。 「なん……っ! ははっ、何それ……っ! 全然把握してない顔でも律儀に挨拶すんの、可愛いな」 「か……っ!? いや、だって……私の名前どうして……ここは……?」  見た感じホテルの一室というよりは個人宅の寝室といった印象だが、栞の部屋ではない。だとするとこの目の前の男の部屋なのだろうか。 「もしかして昨夜のこと全然覚えてない? あんなに盛り上がって勢いづいて二人の関係一気に進展させたのに?」  そんな意味深な言い方をされ、改めて彼が上半身裸で自分と触れ合って眠っていたのを思い返す。栞の服は──下着は身に付けているが、自分の服ではない。ダボっとしたオーバーサイズのスウェットの上だけ着ているのは借り物だろう。 「……やらかした……?」  まさか見知らぬ男と朝を迎えるとは思ってもみなかった。あんなことがあったとはいえ、勢いづき過ぎだろう。 「俺の名前はわかるよね?」 「……っ」  知ってて当然と言わんばかりの圧を感じてたじろいでしまう。自信満々な彼には申し訳ないが覚えていない。お泊まりまでした相手の名前も言えないなんて無責任にも程があるから、これは全面的に自分に非があるだろうと栞は自省した。 「……ごめんなさい……」 「俺の顔よーく見て?」  鼻先が触れ合うほど顔を近付けられ思わず上半身を起こして距離を取ったが、彼のほうも負けじとその身を起こして栞に迫ってくる。こんなやり取りにはなんとなく覚えがあった。 「……あ、待って、昨日の記憶少し戻ったかも……バーで飲んでる時に声掛けてきた人、ですよね?」 「え~? そこから?」 「その時も初対面なのに名前わかるよねって訊かれた……?」  最初は取引先の人か、もしくは過去同じ学校だった人なのかとも思ったが、彼が整形でもしていない限りどれだけ記憶を呼び起こしても栞の二十八年の人生の中でこんなに整った顔の男と出会ったことはないはずだったから、正直に知らないと答えたのだ。 「そう、そうだよ」 「あ、でも貴方、私が名前を答えられなくて何故か喜んでた気がする」 「……別に昨日話した感じからも疑ってなかったけど、ホントに知らなかったんだね。でももう覚えて。俺の名前は(あずま)綾斗(あやと)、栞も東姓を名乗るんだから、今日から東栞だよ」 「あぁそうそう、綾斗! 私も東に────えっ!?」  綾斗はいたずらっ子のように目を細めて右側だけ口角を上げてみせた。 「可愛いなぁ、俺の奥さんは」  そう言って栞の頬に軽くキスをした綾斗は、床に放り投げてあった鞄をガサゴソと漁り、取り出したスマホのカメラロールから一枚の写真を選び表示した。  そこには役所の夜間窓口と思われる場所で栞と綾斗が二人で一枚の紙を掲げて笑顔で写っていた。仲良さげに持っているその紙は記入済みの婚姻届で、飲んでいる内に日付を跨いでいたのだろう、届出日は十二月二十四日となっていた。  二人の関係の進展度合いは栞の想定を遥かに超えるスピードだった。 「今日が結婚記念日だな。クリスマスイヴなんてロマンチックじゃん。あ、もしかして栞はイベントまとめたくない派だった? 大丈夫、プレゼントはまとめたりしないから」 「ま、待って待って? そういうのはどうでもいいけど……えっ? 綾斗? ……と、私、結婚? したの? ホントに?」  突飛な話だと驚きつつも、聞いている内に朧気ながらなんとなく思い出してきた。  確かに守衛なのか当直職員なのか窓口にいたおじさんに婚姻届を出して、記念にと写真を撮ってもらった。おじさんが書類をチェックして不備もないから今日付で受理されると教えてくれた記憶も戻った。  それと、飲んでいる時からしつこく呼び捨てがいいと言われ、とにかく昔からの友人みたいにフランクにしてくれと繰り返し言われたことも思い出した。  しかし彼をあまりにも知らな過ぎる。  慌てて栞も自分のスマホを手繰り寄せ、スマホケースに入れてある名刺を一枚取り出し、深々と頭を下げながら綾斗に差し出した。 「……ごめん。本当に私、貴方をよく知らないまま結婚しちゃったみたいで……あの、私こういう者です……よければ綾斗のことも教えてくれる……かな?」  ナンパからのワンナイトよりももっととんでもないことをしておきながら名前すら曖昧という非常に失礼な対応だというのに、何故か綾斗はこの上なく満足気に弾けるような笑顔を見せた。 「ホント、最高な奥さん捕まえちゃったなぁ。流石俺」  結局綾斗がどういった人物なのかは聞かされないまま、ひとまずシャワーでも浴びて着替えなよという言葉に甘えることにした栞は、風呂を借りながら改めて状況を整理してみた。  昨日は栞がリーダーを任されていたプロジェクトが山場を乗り越え、盛り上がった流れでそのままチームで飲みに行こうという話になった。想定より早く仕事を終えられたから参加しても良かったのだが、翌日は恋人である関口(せきぐち)昌磨(しょうま)と式場見学の予定があり、そのままクリスマスディナーも予約してあったから、同僚達に一次会は領収書を貰うよう伝え、足代程度に少しばかりの現金を渡して欠席させてもらうことにしたのだ。  昌磨は同じ課の課長だが、栞が進めているプロジェクトには携わっていない。別件で外勤後直帰しているはずで、土日にイヴとクリスマスがくる金曜の夜というシチュエーションに浮き足立って帰路についた。  新卒だった栞が当時係長だった昌磨とペアで仕事をするようになり、半年ほどで付き合い始め、交際一年を機に同棲。交際五年目の今年プロポーズされ年始に両家に挨拶に行く予定も決めていて、既に何件か式場の下見にも行っている。栞自身もそれなりに責任のある仕事を任されるようになってやり甲斐も感じていて、全てが順調だと思っていた。  帰宅すると玄関には見慣れないパンプスが一刻も早く家に上がり込みたいとでも言いたげに脱ぎ捨てられていた。まだ靴底も全然擦り減っていない、綺麗な靴だ。  栞が数年住んでいてどこを見ても女の気配がする家なのだから「まさか」と思いつつ、その気持ちを上回る警鐘が頭の中に鳴り響いていた。  自分の家なのにリビングのドアを開ける手が震え、息苦しさすら感じる中、そっと忍び込むように静かに帰宅した栞を迎えたのは、パンプス同様余裕のない二人の姿が容易く想像できる、乱雑に脱ぎ捨てられた男女の衣服だった。  1LDKのマンションで、リビングと扉一枚で繋がる先には昌磨と栞の寝室がある。ほんの僅かに聞こえたのは最近スプリングがへたってきたから次はもっといいものを買おうなんて言っていたベッドの軋む音と、名前と愛を甘く囁き合う少し掠れた声。  部屋の中はエアコンで暑いくらいだったのに、指先まで冷たくなっていた栞は怒りも悲しみも通り越して頭の芯までも冷え切ってしまっていた。動揺する自分を抑え込む冷静なもう一人の自分がいるようで、スマホの電池が充分残っていることを確認すると、録画ボタンを押してから寝室のドアを思い切り開いた。 「ただいま、昌磨」  栞自身そこそこ良い笑顔を作れていると感じた。カメラを向けて寝室の電気をつけてやり、裸で絡み合う昌磨と浮気相手の顔がしっかり映るようベッドに二歩ほど近付いた。 「えっ!? し、栞……っ!?」 「堂島先輩……っ」  二人がほぼ同時に顔を向け、そして慌てて毛布にくるまり言い訳めいた何かをぶつけてきたが、ただの上司と部下が自宅で裸で抱き合う状況など通常起こり得ないのだ。申し開きの余地は1ミリもない。  相手が今年の春に栞達の課に配属された新人の門馬(もんま)だというのは、昌磨が自分と付き合う時と同じように手を出したのだろうと想像できた。五年も付き合えば栞も年齢を重ねるし、まだ大学生と言われても通用するフレッシュな彼女と比べられたら何も言えない。 「心変わりは責められないけれど、せめて私と別れてから始めて欲しかった。婚約なんてして夢を見せる前に切り捨てて欲しかった。自宅じゃなくホテルにでも行って欲しかった」 「わっ、私、課長と先輩が付き合ってるなんて知らなくて……っ」  涙目で自分に非はないと訴える門馬。上司から迫られたのだとしたら断りにくい部分もあったかもしれないが、新卒とはいえもう大人。恋愛は自己責任だ。 「……こんなに女が住んでいる形跡のある家でよくそんなこと言えるね。相手が私だとは知らなくてもこの人に女がいるのはわかったよね? 被害者面するのはおかしいと思うけど」  栞の口からは驚くほど冷静に言葉が出てきた。自分の無実を訴えかけてくる裸の大人達という光景があまりに非現実的だったからかもしれない。 「……そうやって、泣いてる後輩も責めるような気の強さが……可愛げがなくて疲れるんだよ」  四つ上の昌磨の、大人でスマートな所に惹かれていた。なのに浮気した挙句に責任転嫁するようなクズだったとは、なんて見る目がなかったのだろうと栞は自分を恥じた。  昌磨の声はとても冷たくて、さっき漏れ聞こえた門馬に掛ける声との温度差に胸が痛んだ。  この人と結婚すると信じていた。五年も付き合ったし、婚約もしたし、明日だって式場を見に行ってクリスマスディナーも一緒に────  色々な感情が一気に溢れ出てきたが、ここで取り乱したらあまりにも惨めだ。せめてもの強がりで涙を堪えたのは栞の最後の意地だった。 「────私が邪魔なのはわかりました。今すぐ出て行きます」  それだけ伝えて、通帳や印鑑類の貴重品と最低限の着替えだけを出張用のボストンバッグに詰め込んで持ち出したのだ。  そんな貴重品を入れた鞄を持ったまま一人で飲みに出てしまったのは、クリスマスを含む週末という最悪なタイミングで空いているビジネスホテルが見つからなかったからで、記憶を失くすまで飲んだというのにこの部屋にもきちんと鞄を持ってきていたのは良かったが、印鑑類も持ち歩いていたせいで不備もなく婚姻届を提出できてしまったというのが悔やまれる。 「お風呂ありがとう」  ボストンバッグに詰め込まれていた数少ない着替えから一セット選び、ニットとジーンズというシンプルな装いをしたが、この家ならパーティードレスを着たほうが似合うんじゃないかとさえ思えた。  綾斗は見た感じ栞と同世代くらいに見えたが、随分と立派な部屋に住んでいる。マンションのようだが浴室も一坪以上ありそうな大理石調で高級感のあるものだったし、洗面所もメイク室を併設しているかのようなホテルライクな造りで、泊まっていた寝室以外にもう一部屋ありそうだ。しかし居心地の悪さを感じないのは、人が暮らしている気配を感じられる適度な生活感があるからだろう。  広々としたリビングの光景に溶け込んでいた綾斗はカウンターキッチンで朝食を用意していたらしく、真っ白なプレートにフレンチトーストがのっているのが目に入った。  ゆったりとしたロンTとスウェットのズボン姿だが不思議とだらしなさは感じない。おそらくそのズボンとセットの上は栞が借りていたものなのだろう、さっき脱いで洗濯機の上に畳んでおいたものと揃いの色をしている。 「あ、いい匂い……」  思わずそう口に出すと、綾斗は栞の顔をじっと見て、持っていた皿を手元に置いて近付いてきた。 「朝からしっかり髪もセットして偉いな。昨日も綺麗だと思ったけど、今日も朝から綺麗だ」  恥ずかしげもなく真っ直ぐに見つめて褒める綾斗に、普段は褒められても照れることのない栞も思わず俯いてしまった。  栞は自分が美人であると自覚している。  肩の下まで伸ばして綺麗に巻いたチョコレートブラウンの髪も、ビジネスシーンで主張し過ぎないヌードベージュの形の良い爪も、頭から爪先まで抜かりなく手をかけて美しさを維持している。  美人であるという周りからの評価が嘘にならないように気を張ってきた。同時に、美人ならこうあるべきという理想像から極端に外れないよう、意識して“美人な堂島栞”を作り上げてきた。  その結果可愛げがないと婚約者に浮気されたのだから、一体何のためにやってきたのかわからないものだが。 「────栞? 泣いてるのか……?」  そう指摘されて頬が濡れていると気付く。涙が溢れてしまったのだと自覚したら最後、どんどん視界は歪み、折角作り込んだメイクも崩れてしまいそうだ。 「綺麗に……巻けたの……綾斗の、一人暮らしの男の人の家のはずなのに……ヘアアイロンも、コテも、あと、クレンジングとか……全部揃ってて……」  昨日会ったばかりの男に何を期待していたのだろうか。見知らぬ女を家に泊め、結婚したなんて言う男だというのに。こんなにイケメンで、何故自分以外に女はいないと思い込んだのだろう。見つめてくる眼差しが温かかったからだろうか。結婚なんて言葉を出されたから錯覚してしまったのかもしれない。 「……っ! ごめん……っ!!」  勝手に泣き出した栞を疎むことなく、綾斗は慌てた様子できつく抱きしめた。 「ごめん、俺が悪かったな。栞がどうして傷付いて家を出たのか聞いてたのに……! 大丈夫だから。俺本当に独りだから。栞以外この部屋に女の子なんて来たことないから……!」 「でも……だって……っ」 「そうだよな、普通男があそこまで揃えるとは思わないよな……だけどあれは全部俺のなんだ……! 家中確認してもいい、今すぐスマホ見てもいい」  あれほど何から何まで揃っている洗面所を見せられて綾斗の私物だと言われても俄かには信じられないが、ここまで必死に栞を安心させようとスマホまで差し出してくるのは嘘がないということなのだろうとも思えた。 「本当にごめん。俺を知らない女の子がいたのが嬉しくてつい調子に乗って濁してたのが悪かった」  栞の頬を撫でて涙を拭った綾斗は、近くのブックシェルフから一冊の雑誌を手に取りページを開いて見せた。 「改めまして────東綾斗、二十六歳、職業は……『E direction(イー ディレクション)』ってグループでアイドルやってます」
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