あなたと忘れられない夜を★

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 逃げるようにたどり着いたのは、旅館の上層階に位置する、露天風呂付客室。今日のために篠田が用意してくれたものだ。夕方のうちにこっそりチェックインは済ませていたので、袂に忍ばせていたカードキーで部屋に入る。  そこで小関のスマホが鳴った。 『ごめん、検査部で宴会することになった。三十分だけ顔出してくる』  篠田からのメッセージだった。付き合いのいい篠田だから、断れないのは想像に難くない。小関は仕方なく『待ってます』と返信してから敷かれた真っ白な布団にごろりと横になった。  このずっと階下では、今でも宴会が開かれているというのに、ここは静かだった。窓の外に見える石造りの浴槽へと掛け流されているお湯の音だけが優しく響いている。  もうすぐここに篠田が来る。そうしたら、まずは一緒に露天風呂を堪能しよう。触りたいのを我慢して、紅葉と夜景を楽しむことにして、のぼせるくらい浸かったら今度こそ…… 「くうぅぅ、待ちきれねー!」  両の手足をばたつかせ、小関は興奮を紛らせる。 「早く来ないかなあ、篠田さん……」  小関が一人で妄想を展開していると三十分はあっという間に過ぎた。  部屋の隅にあるソファに座り、煙草の煙を夜風に乗せていると、部屋のチャイムが大きく鳴り響いた。小関は慌てて煙草を消し、ドアを開ける。 「ごめん、小関……待たせた」  ドアの向こうに立っていた篠田はそのままなだれ込むように小関に寄りかかった。小関はその体を慌てて受け止める。そして、鼻腔をつく匂いに、眉根を寄せた。 「……篠田さん、呑んでる?」 「少しだけだよ。大丈夫、記憶なくなるほどじゃないし」  小関の問いに、篠田は顔を上げてへらと笑う。そのまま小関の唇へ自分のそれを押し当て、深く舌を繋ごうと口内を弄ってくる。それがどんなに心地のよいものでも、浴衣の襟から覗く肌がどんなに色っぽくても小関はそれを、どんどん褪めた気持ちで受け止めていた。 「……小関……キス、ダメ?」  何も仕掛けてこない小関の様子に篠田は首を傾げる。 「浴衣って……脱ぐの楽だよな。ちょっと引っ張るだけで、ほら、すぐ解ける」  小関の表情を気に留めず、篠田は自分の羽織の紐を解いた。するりと羽織を床に脱ぎ捨てる。そのまま上気した顔を小関に向けた。  それはとても魅力的だった。以前の小関ならすぐに抱き寄せて布団に沈めていただろう。けれど、今日はそのためにここへ来たわけじゃないのだ。 「篠田さん……全然わかってくれてなかったんですね……今日、どういうつもりでここに来たのか」  ――素面の篠田さんと抱き合いたいだけなのに……  小関は篠田の体を抱え上げると、そのまま露天へ続くドアを開けた。そして篠田を乱暴にお湯の中へと落とす。 「少し夜風で頭冷やしてください。こんな状態の篠田さんとじゃ何もしたくないです」  小関はそれだけ言い残すと、そのまま部屋を後にした。  イライラしたままの小関は自分も少し落ち着くべきだと判断し、大浴場へと向かうことにした。じっくりお湯に浸かって少し篠田とのことを考えたい、と思っていた。  しばらくすればこの気持ちもおさまるだろう。こんなところまで来てケンカをしたいわけじゃないし、ちゃんと二人で過ごしたい。  大浴場のある階でエレベーターを降り、雪駄の音を響かせながらそこに近づくと、人の声が耳に入ってきた。 「部長、しっかりしてください」  聞きなれた声に小関は歩みを速める。すると、大浴場の前に設置されたベンチに、浴衣姿の中年男性がトドのようにぐったりと寝そべっていた。その傍についてタオルで風を送っているのは紺野だった。 「紺野さん、どうかしたんですか?」 「小関くん、いいところに! うちの部長、酔ったままお風呂入ってのぼせて溺れたっていうの。ウチの男性陣ってば、部長だけ出してまた風呂に戻ったのよ! ちょっと呼んできてくれない?」  か弱い女の子にオヤジ押し付けるって何事よ、と憤慨する紺野の話に、小関は背中の冷える思いがした。  ――酔ったまま風呂入ってのぼせて溺れて……? 俺……篠田さんのこと、どうしたっけ…… 「ちょっと、小関くん聞いてる?」  急に黙り込んだ小関に、紺野が怪訝な顔をする。  ――俺、あの人のこと、露天風呂に放り投げなかった、か? 「もうー、今日は部長の株、下がりっぱなし! 下戸の篠田さんにまで『呑んでいかなきゃ退席なんかさせん!』とか言って呑ませてさー。真っ青になってたのよ、あの人」  今頃部屋かなあ? 介抱しに行ってあげたいのにー、と紺野が軽くベンチの脚を蹴り飛ばした。 「紺野さん、今の話本当ですか?」 「そーよ。全部このトドオヤジが悪いの」  泥酔しているのをいいことに、紺野は部長の腹をタオルで叩く。 「紺野さん……俺、急用思い出した!」  ごめんなさい、とくるりと方向転換した小関の背中に、当惑する紺野の声が掛かるが、小関は気にせず走り出していた。
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