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「もう今日が限界なんです……俺から離れてください」  夜の公園。目の前で頭を下げるスーツ姿の長身は、同じ会社に勤める五つ年下の、付き合いだして三ヶ月の恋人だ。いや、これはもう既に過去形になるのだろうか。 「小関(こぜき)……なんの冗談だ?」 「冗談じゃないです。篠田(しのだ)さん、お願いです」  この通り、と更に頭を下げる小関からは冗談の欠片も見当たらなかった。 短い髪にすらりとした体躯、少し日に焼けた笑顔が印象的な外見の爽やかさと同じで、実直で明朗な彼が、冗談でこんなことを言うわけはなかった。まして、こんなに真摯な態度で。 「いいよ、わかった」  三十を目前にした篠田は、一生を小関と共に歩もうと密かに心に誓っていた。そういう関係になってからは日が浅いが、知り合ってからは二年。小関のことの大概は知っていた――篠田はずっと好きだったから。 男二人で老後を生きるために、こつこつと貯金もしていたし、褒められたくて料理だって覚えた。篠田にとってこれは、最後の恋だと思っていた。 「ホントですか?」  小関が顔を上げ、篠田の顔を窺う。篠田は黙って頷いた。 「じゃあ、しばらく会社でもプライベートでも俺のことは無視してください。でも――」 「わかった。無視すればいいんだな。もう二度と声も掛けないし、目も合わせない」  篠田は、油断したら震えそうになる声を抑えて、必死で言葉を繋げると、じゃあな、ときびすを返して歩き出した。 「篠田さん、待ってください。最後まで……」 「話さなくていい。分かってるから」  振り返ることなく、篠田は言い放つとそのまま公園を後にした。  運命だと思っていた恋も、終わりは意外に突然であっけないものなんだな、と篠田はため息を零す。それはすぐに春の強い風に呑み込まれていった。 「篠田さん、昨日の検体早朝に結果出てますよ」  制服であるケーシー型白衣のボタンを留めながら職場の検査室に入ると、すれ違った同僚に声を掛けられた。 「どうだった?」 「陰性でした。あ、あと今日MRSA検査来ますよ」 「聞いてないけど……午後丸潰れだな」 「ですね。僕はもう上がりなんでお手伝いできませんが」  夜勤だった同僚は、楽しそうに笑顔を作って検査室を出て行った。篠田はそれを引きつったままの顔で見送ると、大きなため息をついて自分の持ち場へと歩き出した。広い検査室の一番奥に篠田のデスクはある。  篠田の勤める臨床検査センターは、いくつか営業所を持つ中堅企業だ。臨床検査技師である篠田は、ここの本社の検査室に勤めている。地味で危険で汚くておまけに夜勤まである仕事だが、篠田はこの仕事が嫌いではなかった。一人で集中して出来る作業は性にあっている。この間までは、運命の相手を毎日見られる場所というのもあった。ただ、今日からは違う。検査室の斜向かいにある営業部にはもう近づけない。 「限界、か……」  篠田は自分のデスクに置かれた結果表を拾い上げながら呟いた。
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