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冬色に染まる
早朝の空気はひんやりと冷たく、吐く息が白く染まる。外廊下からふと中庭を見渡せば、そこもまた一面が白く、やっと昇り出した朝日を受けて眩しい橙色に染まっていた。
冬なので空が明るくなるころには邸の人々は既に起きだしており、朝の支度を始めている。邸のあちこちで人の動く気配を感じるも喧騒は遠い。それはあかりにあてがわれた部屋が人の集まる部屋からはやや離れたところに位置するからかもしれないし、あかり自身が珍しくぼんやりと物思いに耽っていたからかもしれなかった。
眼前に広がる景色を美しいと思う一方で、冬の寒さはあかりに嫌な記憶を呼び起こさせる。
陰の国に二年間囚われていたあかりは、半年ほど前に幼なじみたちに助けられながら陽の国への帰還を果たした。半年が長いか短いかは判然としないが、囚われていた日のことは今も鮮明に思い出せる。
暗い地下牢に届く唯一の光は、小さな四角い換気格子から射しこむ太陽か月の灯りのみ。夏はじめじめと蒸し暑く、冬はきんと冷え切った隙間風が吹き込む。寒さにめっぽう弱いあかりには夏より冬の過酷な環境の方が堪えた。
敵である陰の国の術使いからの暴力や暴言に傷ついたことよりも、たったひとりで寒さに耐えることの方がよほど辛かった。
愛する家族も家臣も町民も一遍に失って、唯一心のよりどころにしていたのが幼なじみたちとの再会だった。彼らに会うまでは自分は決して屈しないと心に強く誓って、どんな辛いことにも涙や弱音を抑え込み、必死に耐えた。
その幼なじみたちによりあかりは運よく助かったが、癒えきらない心の傷も残った。
(寒いのは嫌だな……)
冬の寒い日は特に感傷に浸りやすくなる。過ぎ去った過去のことをあれこれ思い返しても意味などないことは分かっているが、無意識に思考に耽ってしまうのだから仕方ない。
あかりはぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
そうしてどれくらい経っただろう。指先や爪先に感覚がなくなり、体は芯から冷え切ってきた。そろそろ動かなければと思うのに、意に反して足は一歩も踏み出せない。
寒さに体が固まったのもあるだろうが、おそらく浮かない顔のまま幼なじみたちに顔を合わせることに躊躇いも生じていた。彼らに心配をかけたくない。そのためには普段の『あかり』に戻る必要があった。
だから横合いから声をかけられて、あかりはびくりと肩を震わせた。
「あかり?」
「ゆ、結月っ⁉」
あかりの慌てように結月は目をぱちくりと瞬かせたが、振り向いたあかりの顔を見るなり僅かに眉を寄せた。そしておもむろに結月はあかりの手を取った。
「やっぱり……」
呟くと結月はあかりの顔を覗き込み、じっと見つめた。
「体を冷やすの、良くない。こんなところに長時間いて、何かあったの?」
結月の瞳はまっすぐにあかりの瞳をとらえていて、あかりも目を逸らすことができなかった。向けられる青い瞳はあかりの心を見透かしてしまいそうなほどに透き通って見える。嘘や誤魔化しが通用しないであろうことは明白だった。
あかりは観念して微苦笑を浮かべた。
「結月にはなんでもお見通しだね」
「……」
結月は黙って耳を傾けている。それこそが寡黙で不器用な彼なりの相槌だとあかりは理解していた。無言に促されるまま、あかりは言葉を継ぐ。
「ちょっとね、嫌なことを思い出してたの」
それだけで結月はあかりの言わんとしていることを察したようだった。
「陰の国での、二年間のこと?」
「そう。寒い日は嫌でも思い出しちゃうんだ……」
視界の片隅に映る白い景色とは対照的に、あかりの胸中は黒く染まりそうな心地がした。
そんな時つないだままだった手に力が込められて、あかりははっと我に返った。
「あかりは、今、ここにいる」
紡がれた言葉の力強さと触れ合う手の温かさに現実は確かにここにあるのだと教えてくれる。一瞬言葉に詰まったあかりだったが、すぐに「うん」と頷きを返した。
(そうよ。今の私の側には結月がいる、秋も昴だって。ここはあったかい場所なんだ)
黒く染まりかけていた心が別の色に塗り替えられる。今度はあたたかな色をしていた。
「ありがとうね、結月」
囁き程度のあかり声にも、結月はしっかりと頷き返した。
「もう、大丈夫?」
「うん!」
「そっか」
あかりの明るい返事に結月はほっと息を吐くと、そっと手を離した。ゆっくりとした丁寧な動作に結月の優しさを感じると同時に、名残惜しくも思った。それが顔に出ていたのだろう。結月が少し心配そうに問うてきた。
「本当に大丈夫、なんだよね?」
「え、あ、うん。大丈夫だよ」
残る寂寥感を振り払うようにあかりは頭を振った。
(離れがたく感じるなんて……子どもっぽいよね)
今よりもずっと小さい頃から、差し伸べられる結月の手には何度も救われている。そこに安心感を抱くのは当然で、だからこそ離れていく手の温度を恋しく思うのだとあかりは結論づけた。
(きっと、それだけ……)
己に言い聞かせるように心の中でそう唱える。その思考こそが『それだけ』ではない確たる証拠だと思いもしないまま。
「あかり、そろそろ行こう? 今日の朝食はだし巻き卵だって、昴が言ってた」
「本当? ますますご飯が楽しみになってきた!」
言葉通りにあかりが満面の笑みを見せると、結月も嬉しそうに微笑む気配がした。
きっとすぐにはこの心の傷は癒えない。けれども痛みは少しだけ和らいだように感じられた。今はそれでいいのだと思う。
吐く息はいまだ白く、目の前に広がるのは怖いくらいにきれいな雪景色。澄んだ空気は鋭いくらいに冷たい。
冬色に染まりきった光景に恐怖はあるが、胸に広がる思いはそれだけではなくなった。
寒いからこそ感じ取れるあたたかさがある。今のあかりの側には大好きで大事な幼なじみがいてくれる。
胸を染めあげるこの感情は何と呼ぶのがふさわしいだろう。否、名前などなくても良いのかもしれない。
あかりはこの飾らない素直な気持ちをそのまま大事にしたいと、ただそれだけを願った。
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