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白を基調とした暖かみのあるインテリアで揃えらた部屋に、午後の柔らかな日差しが差し込む。
年の瀬が間近に迫る昼下がり。
外からは冬休みに入った子供達の明るい声が時折聞こえてくる。
「ではお母様。こちらにサインを頂けますか?」
薄いグレーのソファーに腰を掛けた、黒い髪をきっちりと整えた清潔感のある爽やかな男、こと内藤健二が、テーブルに広げられた書類の下端を示してそう言った。
「あ、はい…」
内藤に手渡されたボールペンをおずおずと受け取りながら、気弱に返事を返したのは向かいのソファーに座る女、こと加藤ありさ。
長く艶のある綺麗な栗色の髪は緩くウェーブがかっていて、華やかなありさの顔立ちによく似合っている。
が、その愛らししい顔が今は少し陰り、ボールペンを握る華奢な手には力が入っていく。
「あのっ、息子の事、宜しくお願いします。この子、親の私が言うのも恥ずかしい話ですが、その少し、いや、結構我が儘に育ててしまったので…」
縋るような瞳でひしひしと内藤にそう訴えかけたありさに、その隣に座るありさが息子と呼ぶ少年が、間髪入れず言葉を繋いだ。
「なっ、ちょっと母さんっ。今更何言うのっ?」
大きな瞳をさらに大きくして、戸惑いを露にそう言ったのは、ありさによく似た愛らしい顔立ちに黒い艶やかな髪の少年、こと加藤未来。
「だって未來っ、オリバーの、それもSクラスは厳しい事で有名じゃない?そんな事務所であなたがちゃんとやっていけるとは、母さんやっぱり思えないから…」
アイドル系随一のオリバーエンターテインメント。
その躾や指導は行き届いていて、親としては安心も感じるのだが、その反面それらに息子が馴染めるのか、ついていけるのかという不安を感じずにはいられない。
「何でっ。その話なら昨日もその前もしたじゃんっ。もぉっ、僕ちゃんと頑張るってばっ」
しかしありさのそんな思いなど未来には伝わらない。
それどころか未来は未来で、ここ数日の間何度となく繰り返されたこの会話にいい加減嫌気を感じていた。
そもそも漸く首を縦に降ろしてくれこの日を迎えたというのに、この期に及んで契約に異を唱えようとしてくる母にはうんざりしてしまう。
そんな2人の一髪触発な押し問答だが、2人の容姿のせいか、何故だかとても微笑ましく内藤には見えてしまい。
「あははは。大丈夫ですよ、お母様。確かにうちはレッスンや規則は他の事務所に比べ厳しいです。ですがそれは本人の受け止め方次第なんです」
やる気と夢を持っている子なら大丈夫です、と、ありさの気持ちを汲み取り宥めるように、そして未来の気持ちに寄り添って、内藤は2人の間に割って入った。
「はぁ~…、でも…」
しかしそれでもありさの表情が晴れる事は無かった。
そんなありさの様子を静かに見つめるのは内藤の隣に座る男、こと神崎悟。
ダークブラウンの短めの髪を綺麗にオールバックにし、ピシリと伸びた背筋からは彼の精悍さが伺える。
悟はありさの方へ徐ろに体を向け言葉を紡ぎだす。
「お母様。息子さんをご心配されるお気持ちは十分解ります。ですがどうかご安心下さい。私達の全てをかけて、息子さんの事は全力でサポートしていきます。誓って悪いようには致しません。ですのでどうか息子さんの夢を叶えるお手伝いを、私たちにさせていただけないでしょうか?」
真っ直ぐな瞳で自分に向かい、そして深く頭を下げてくる悟に、ありさは深い溜息を漏らした。
この男の、悟の台詞に嘘偽りは無いのは十分伝わってくる。
そもそも未来を芸能界に復帰させるなら、ありさとて事務所はオリバーがいいと思っていたのだから、確かに未来の言うように今更自分は何をゴネているのだろうと思う。
しかし事務所に、芸能界に未来がまた身を置くとなると、自分との時間が確実に減ってしまう。
未来の心配を盾に、本当は自分がただ寂しかっただけ。
だからまだ早い、まだもう少しとその小さな手を今まで離さないでいたのだったが。
「…解りました。息子の事、どうぞ宜しくお願いします」
ありさは深々と頭を下げ、そして書類に自身の名を書き記した。
ありがとう、と満面の笑みで自分に抱きついてくる未来だったが、ありさは心から笑顔を向けられず、ため息混じりの微笑となってしまう。
本当に親の心子知らずとはよく言ったものだ。
だが久しぶりに抱きとめた未来の体が思っていたより重くて、回された彼の腕は自分とまだ変わらない程細いのに力強くて。
もう自分が手を引かなければいけない時はとっくに過ぎていた事を、ありさはこの時初めて思い知らされた。
だからこれからは見守ろうと思った。
まだ小さな背中が大きく立派になる時まで。
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