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③岸野side
本当に彼はここを探り当てることが
できるんだろうか。
三鷹駅南口から数分のところにある、
行きつけの喫茶店。
いつものように窓際の席に陣取った僕は、
約束通りマネージャーにLINEをして
ため息をついた。
昨夜仲のいい後輩俳優に、
最近彼との関係に疑問を持っていると
相談を持ちかけた。
笑い飛ばされるかと思ったが、
僕の不安げな顔を見てその後輩俳優は、
そっと耳元で囁いてきたんだ。
「岸野さん。川瀬さんを少しだけ、
困らせてみてはどうですか?」
「え?」
意味が判らず訊き返した僕に、
後輩はマネージャーを巻き込んでの
「作戦」を披露してくれた。
それは僕が突然いなくなり、
彼にその行方を探させるというものだった。
「うーん、でもスケジュールいっぱいで、
近々の休みは明日しかないよ」
いなくなろうにも
仕事になれば顔を合わせるし、
それがひとりの仕事だとしたら、
時間で現地に向かわなければならない。
今回の計画は、どう考えても無理がある。
「じゃあ、明日にすればいいんですよ」
「簡単に言うなあ・・・
うちのマネージャーがそんな事、
認めると思う?」
「今の彼なら、それくらいの演技は
やってくれると思いますけど」
彼と呼ばれたマネージャーは、
先日彼とスケジュールのことで
大ゲンカしていた。
僕は彼の「人に変更点を伝えるのに、
電話じゃなくてLINEですることが
信じられない」という言い分に賛成だったが
集合時間が30分遅れただけだったんだし、
水に流せばいいとも思った。
時間が早まったのなら潔癖な彼のこと、
したくてした遅刻じゃないと
怒りも倍増だっただろうし。
「とりあえず、訊いてみましょう」
そう言うなり、
後輩俳優は携帯でマネージャーに電話を
かけ始めた。
後輩俳優とマネージャーはプライベートでは
高校の同級生ということで、
普段からよくやりとりをしてるらしい。
「あ、もしもし?お疲れ。
あのさ、ちょっと頼みがあるんだけど」
当事者だというのに、
後輩俳優の様子を見ているだけの自分。
さっきからアイスティーが入った
丸いグラスを、手の中で転がすだけしか
できない自分。
僕は、本当に彼を困らせたいんだろうか?
誰よりも嘘偽りが嫌いな奴で、
誰よりも傷つきやすい彼を。
しかし次の瞬間、そんな迷いを容赦なく
吹き飛ばす衝撃の一言が、
後輩俳優の口から発せられた。
「じゃあ、よろしくね。明朝、6時。
川瀬さんのところに電話を入れたら
スタートということで」
「え、嘘でしょ」
慌てて後輩の携帯に飛びつき、
僕はマネージャーに向かって叫んだ。
「今の話はナシで、頼むから!」
「あ、お疲れ様です。岸野さん。
私も役に徹しますから、岸野さんも
ちゃんと隠れていてくださいね?
場所が決まったら、必ず私の携帯に
LINEしてください」
受話器ごしのマネージャーの声は、
いつものように事務的な口調だったが、
怖いくらいリアルに、
僕の心に深く入り込んで来た。
もう戻れない。
焦る気持ちが芽生えた一方で、
感覚が麻痺したからなのか、
無意識に現実から目を背けてしまったから
なのか、僕は彼の焦る顔を想像し、
少しだけ嬉しさも感じていた。
1日だけでもいい、
彼が僕の事を気にかけてくれるのならと
思った。
と、確かに昨夜はそう思ったんだ。
でも数秒ごとに揺れる自分の気持ちに、
自分自身ついていけていない。
このまま僕は、彼が来ることだけを
祈ってればいいのか。
もし来たら、相当怒鳴られるんだろうな。
「いい大人が突然いなくなるなんて、
もっと自覚を持てよ!」とか、
「何年この仕事で食ってるんだ、
恥を知れ!」とか。
僕の頭の中は、一瞬にして怒り狂う
彼の姿でいっぱいになり、
際限なく広がって行く自分の妄想に
耐えきれず、それを振り払うかのように
氷が溶けかかって薄くなり始めた
アイスコーヒーを一口飲んだ。
2階にあるこの喫茶店は、僕の他に
客はいない。
人がやっと1人通れるか通れないかと
いうくらいの、狭い階段を上りきった
ところにひっそりとある場所。
窓から見える景色と言えば、
三鷹の街にそぐわない高層マンション。
1階には、ドラッグストア。
平日の午後、
人通りが少ないかと思っていたが、
意外と駅に向かう人の数は多い。
昔、ここに住んでいた頃は
誰の目も気にすることなく、
いろいろな所に足を運んでいた。
帰りの電車賃をなくすくらい遊び呆けて、
ちょっとした精神力の強さがないと
歩き通せない場所から、
ここまで帰って来たこともある。
今はそれなりに顔を知られた存在に
なったと自負しているが、
根本は変わっていないと思う。
街の変化に感情をかき乱され、
時には興奮し、笑顔がこぼれ涙する。
自分から発するものが意図していない形で
人々の噂に上ることが多いので、
誤解を招く言動には気をつけているつもり
だが、これだけは譲れない!という
気持ちがあった。
それは、彼に対する誠実な思い。
コンビとしてのスタンスを崩すことなく、
そっと彼の言動を見守って行こう。
時には、感情の行き違いから
ケンカをすることがあったとしても。
心から彼を信じ、自分を信じてもらえる
言動をして行こうと思っていた。
でも。
今日、この場に彼が来た時点で、
それは果たせなくなる。
コンビとしての仕事は、
お陰様で来年の春まで一杯だが。
彼との信頼関係は、
崩れてしまうかも知れない。
一時の感情で、
今まで築き上げた2人の絆を断ち切る
ような真似をしていいのだろうか。
このまま彼が僕を探し出せず、
時間になったら何事もなかったかのように
折り返し連絡して「今日は1日オフですけど、
何か?」と誤魔化してしまえればいいのかも
知れない。
どうか来ないで欲しい、
それなら僕とマネージャーと後輩俳優だけが
黙っていれば成立する出来事になる。
でももし彼が来たら、きっと僕は嬉しい。
怒鳴られても何をされても、
僕を気にかけてくれたことを感じて、
きっと嬉しくなる。
いったい、僕はどちらに転ぶことを
望んでいるんだろう?
空を見上げたまま、
答えの出せない思いにひたすら身を任せた。
14時。
待ち人が来る気配はまだなかった。
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