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④川瀬side
いっそ「東京の隠れ家的喫茶店」という
本があれば、苦労はしないのにと思った。
もしかしたら出ているのかも知れないし、
出ていたとしても文字を読むことが
あまり得意ではない俺は読めないだろうが。
それでもこんな時こそ、
彼を探すのにいいツールになるに違いない。
闇雲に探すより、彼がエッセイや短編小説の
執筆をするという喫茶店という場所に
焦点を当てて、探すことにした。
中野、高円寺、阿佐ヶ谷と
各駅に降りた俺は、
地元の人に迷わず声をかけ、
雰囲気のある喫茶店があるかを訊いていた。
若い女の子にきゃあきゃあ騒がれ、
嬉しいけど今はそんな気分じゃないんだ、
ゴメンねと思いつつ、
候補に挙げられた喫茶店を覗き続けた。
「川瀬が、謎の喫茶店巡りをしている!」
そんな噂がツイッタ―にでも流れたのか、
俺の後をついて来る人の数が増えていく。
困り果てた挙句、
走って大通りに出てタクシーをつかまえた。
「荻窪駅周辺で、雰囲気のある喫茶店を
知りませんか」
バッグにしのばせていた帽子を
目深にかぶり、
サングラスをかけ直した俺は、
眼鏡をかけたタクシーの運転手に尋ねた。
「そうですね、何件かありますけど。
って、もしかして川瀬由貴さんですか?」
「あ、はい」
瞬時にバレたことに苦笑いし、息をつく。
「実は、この路線の喫茶店に出没していると
思われる人を、探してます」
「え、そうなんですか?じゃあ、いい加減な
こと言えないですね。荻窪駅周辺だけで、
大丈夫ですか」
頭の回転が早そうな運転手の言葉に、
首を振った。
「吉祥寺と三鷹の喫茶店もわかりますか?」
「もちろん!できるだけ頑張りますよ」
運転手にバックミラーごしに微笑まれ、
俺も笑顔を返した。
もしかしたら本当に見つかるかも知れないと
いう期待に嬉しくなりながら、
シートに深く寄りかかり、そっと目を瞑る。
朝から動いていて、疲労が溜まっていた。
とはいえそのまま眠る訳でもなく、
彼のことを考えていた。
有名人のひとりに数えられても、
休みの日はたまに電車に乗ってこの辺りを
散策していると聞いた。
きっと俺と違って、
彼を取り巻く時間は緩やかに流れている。
どうしていつもそんなに
のんびり構えていられるのか、
不思議でたまらなかった。
初めて事務所で彼に会った時、
長く深い付き合いになると予感した。
そしてその予感通り、彼はこの3年、
優しく穏やかに見守ってくれている。
メディアへの露出が増え、
謂れなきバッシングが始まった時も。
「僕たちが有名になった証拠だよ。
気にしないで。たとえ仕事が減っても、
また頑張ればいいんだから」
その微笑み、その優しさに、
何度救われたか判らない。
もちろん感謝の気持ちは恥ずかしくて、
口に出して言える訳がないのだが、
もし俺が彼とコンビを組んでいなかったら
今頃何をしていたんだろう。
俳優としてのブレイクを夢見たまま、
まだ不安定な生活を余儀なくされている
のだろうか。
それとも夢を諦め、実家に帰って就職とか?
結婚して、時々浮気して妻に怒られて、
子供と遊んでいる俺。
いくら想像を巡らせても、
もちろんリアルさは感じられない。
彼と出会った事で、
その後の俺の人生の全てが決まったから
だと思った。
「川瀬さん、もうすぐ荻窪ですよ。
喫茶店の前で止めますけど、
待ってますから安心してくださいね」
声をかけられ、目を開けた。
「ありがとうございます」
微笑んでから、
車窓から見える風景に目をやった。
この沿線のどこかに、きっと彼はいる。
どうしてこんな事をしでかしたのか
判らないが、もし彼に会えたら俺は。
腕時計は、16時半過ぎを指していた。
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