⑤岸野side

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⑤岸野side

こんな時にまさか、 執筆がはかどるとは思わなかった。 喫茶店に入って、既に3時間。 何もすることがないので、 いつもの喫茶店での過ごし方を 満喫することにした。 来るかどうか判らない彼をひたすら待つ よりも、締め切りが近いエッセイの 執筆をすることを選んだ僕は、 緊張感のない奴なんだろうか。 さっきマネージャーから、 状況把握のためのLINEが入った。 『川瀬さんは来ましたか』 『いえ、まだ来てません。 何時まで、ここにいたらいいですか?』 『そうですね・・・ とりあえず、あと1時間くらいは。 またLINEします』 しなくてもいいやり取りが終わり、 言葉にできないもやもやを抱きながら、 視線をまたパソコンに戻そうとしたその時。 店のオーナーの女性が、 僕を見て微笑んでいるのに気づいた。 「岸野さん。久し振りに、カレー食べて 行きません?」 「あ、はい。ぜひ」 今日口にしたものと言えば、 朝にパンと牛乳を少しと、 喫茶店に入ってからはアイスコーヒーと チョコレートケーキだけ。 ここの名物の野菜ごろごろカレーが 大好きなのに、今日は食べに来たわけ じゃないからと躊躇していた。 とはいえ数分後、湯気をたててカレーが 目の前に運ばれて来た時、 条件反射でお腹が鳴ってしまった。 やっぱり我慢は良くないなと 迷わずスプーンを握り口に運ぶと、 心が和らいだ。 「おいしいです」 「良かったわ。お仕事忙しいのに、 今でも足を運んでくれてありがとう。 主人も喜んでるのよ」 「そうですか。僕こそ、いつもここは 変わらずに迎えてくれる感じがあって、 嬉しいです」 そこまで言って言葉が出てこなくなり、 ぎこちなく微笑んだ。 こんな時どうしたらいいんだろうと、 いつも悩んでしまう。 相手の好意を感じて、 その期待に応えなければと思うあまり 態度が不自然になっていくのは、 有名になった今でも変わらない。 ファンの方に街中で声を掛けられても、 気の利いた言葉なんて言えるはずなくて。 彼の人懐っこさが、せめて2%くらいあれば 良かったのにと思う。 カレーを食べ進めながら、 いつの間にか彼は今どこにいるんだろうと 思いを馳せ始めていた。 本当に、僕を探してくれてるのだろうか。 それとも諦めて、もう帰ってしまったとか? 彼が背中を向けて去っていく図を想像し、 心に強烈な不安が芽生える。 ああ、胸が苦しい…。 食べてる時に、 ネガティブな事を考えるのは御法度だ。 振り払うようにスプーンを置き、水を飲む。 息をつき窓からの景色を眺めると、駅から 帰って来る人の流れが大きくなっていた。 木枯らしの吹く12月、 夕方特有のうすら寂しさを感じとり、 またスプーンを手に取った。 やっぱり、彼とは会いたくない。 瞬時に変わって行く自分の心と 向き合うのに、疲れ果てていた。 あっという間に最後の一口を腹に収め、 席を立った。 「ごちそうさまです、また来ます」 お金を支払い店を出た僕が向かったのは、 駅とは反対方向のある場所。 時刻は、17時半。 急ぎ足で向かえば、まだ間に合うと思った。
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