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⑥川瀬side
「あ、川瀬さん・・・?さっきまで、
岸野さんがいらっしゃってたんですよ。
いったい今日はどんな日なんでしょう」
「本当ですか!それで、彼は今どこに」
突然の急展開に俺は興奮を隠しきれず、
驚きのあまり赤面しているその女性を
問い詰めた。
できるだけ頑張ると言ってくれた
運転手の言葉は、本当だった。
荻窪、吉祥寺の喫茶店巡りは
空振りに終わったが、
三鷹でとうとう彼に近づく事ができた。
窓際の席に残る、カレー皿と細長いグラス、
ケーキ皿が見えて、思わず笑ってしまった。
(すっかりくつろいでたようだな・・・
俺の気持ちも知らないで)
店の時計は、17時35分を指していた。
訊けば、彼が店を出て行ったのは
17時半だったという。非常に惜しい。
行き先は言ってなかったが、
駅とは反対方向に早足で歩いていったのが
窓から見えたらしい。
俺は女性にお礼を言ってから、
タクシーに戻った。
「運転手さん、この辺りで観光できる
ところってあります?」
「いろいろありますけど・・・
その方、執筆する人ですか?」
俺が探している人の正体に気づいたのか、
運転手はバックミラーごしに
意味深な視線を投げてくる。
「はい!」
「じゃあ、太宰治の墓がある禅林寺ですね。
入れるのは18時までなので、急ぎましょう」
そう言えば三鷹は、
彼が心酔している太宰の終焉の地だった。
今なら追いつくことができるかも知れない。
寺へ向かうメイン通りをタクシーで
進みながら、歩道に彼の姿がないかを探す。
今までこんなに、
彼に対して思いを募らせることがあったか。
いつの間にか彼は、
俺の側にいるのが当たり前だと思っていた。
ただ側にいてくれたんじゃない。
彼に救われてたのに、俺はずっと。
「・・・運転手さん」
ある一点に目を向けたまま、
運転手に声をかけた。
「何でしょう」
「探してる人、見つかりました」
「え、じゃあ止めますよ」
「いえ。彼がどこに行くか、
つけてもらってもいいですか?」
右手に小さな花束を持っているのが
確認できて、行き先は確実に判明した。
タクシーは彼の歩く速度に合わせて
徐行を始めた。
まっすぐ前を見て、
早足で人波を縫うように歩く彼を
見ていたかった。
すれ違う人たちが数人、
彼に気づいて指を指している。
それでも彼は、
誰にも振り向くことなく歩いていく。
俺の知らない彼の姿を見たような気がして、
目が眩んだ。
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