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⑦岸野side
花束をたむけて、手を合わせた。
拝観時間ぎりぎりに入り込み、
慌ただしくその場所に立ったのは
初めてだった。
本を読み、物を書くこと、
物事を深く考えることの楽しさを
教えてくれた人で、
人生の岐路で悩み迷い苦しむ時に、
正しい方向に導いてくれる人の墓。
実際に同じ時代を生きていたらと、
本気で願った事もあった。
いつもはもっと穏やかな気持ちで
向き合わせてもらっているが、
今日ばかりは自分の至らなさを
叱って欲しかった。
彼に、嘘をついた。それだけじゃない。
僕を探してくれてるかも知れない彼が
来るのを待つことなく、逃げ出した。
「ごめんなさい」
手を合わせたままうつむき、そう呟いた時。
「謝るくらいなら、こんな事しでかすな」
声がしたので驚いて顔を上げると、
墓石の向こう側から彼が顔を出した。
明らかにむっとした表情で、
僕を睨みつけている。
「全く、お前という奴は」
「嘘」
「嘘じゃないし。とりあえず、タクシーを
待たせてるから早く帰るぞ」
「うん」
すっと僕の視界から外れ出口へ向かう
彼の背中を見やり、墓の主に頭を下げた。
これって太宰さんのお力のなせる技ですか?
と心の中で囁きながら。
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